世界史の目-Vol.43-

ある神学者の悲劇

 中世のヨーロッパでは、キリスト教の教理・実践を研究する学問、"神学"が大発展を遂げた。神学が中世学問の最高の学問であったことは、"哲学は神学の婢(はしため)"ということわざからも示されている。かつて教父アウレリウス=アウグスティヌス(354-430)が『神の国(神国論)』・『告白録』を著してカトリック教義を大成させたが、この思想が中世まで守られ、中世キリスト教神学・哲学の諸体系であるスコラ学スコラ哲学。scholasticism)として大成されたのである。

 スコラとは教会に附属している"学校"を意味する。フランク王国・カール大帝(742-814)の時代、カロリング=ルネサンスと呼ばれる古代文化復興の一環として、宮廷・教会・修道院などに付属学校を建築した。この時イギリスの神学者アルクィン(735頃-804)を、アーヘンの宮廷学校やトゥールのサン=マルタン学校の指導者として招き入れている。スコラはこの時期からすでに使用されていた。

 11世紀、イギリスのカンタベリ大司教のアンセルムス(1033-1109)は、"スコラ哲学の父"とされる。アンセルムスは、実在論(リアリズム)の立場にいた。実在論とは、神・普遍という観念が、個々の事物に先立って実在するという見方である。
 またスコラ学では、実在論の他に唯名論(名目論)の見方があった。唯名論とは、神や普遍の概念は個々の事物の後に人間が作った名前(抽象物)にすぎず、実在するのは個々の事物だけであると主張するもので、実在論とは逆の主張であった。10世紀までは、古代ギリシアの哲学者プラトン(B.C.427-B.C.347)主義を源流とした実在論が支配的だったが、11世紀、唯名論が登場することによって、アンセルムスの説く実在論と激しく主張し合って、やがて論争に発展した。これを普遍論争という。
 やがて、普遍論争は形而上的な論議から、キリスト教神学における信仰と理性の問題に広げられ、実在論者は"理解するためにわれ信ずる"として理性の上に信仰をおき、一方の唯名論者は"信ずるためにわれ理解する"として信仰の上に理性をおいた。よって唯名論者は、教会からは異端視されて、自身の学説書を焼かれ、私的財産を没収されるなどの辛酸をなめた。

 唯名論を主張した代表的スコラ学者にフランスのピエール=アベラール(1079-1142)がいた。アベラールは神学ではアンセルムスに、哲学ではギヨーム=ド=シャンポー(1070頃-1121)に師事、その後パリに出てノートルダム大聖堂付属の神学学校で哲学・神学を教授したことにより名声を高め、大量の学生が集まった。1119年、アベラールは、親しい間柄である大聖堂参事会員フュルベール氏からの依頼により、フュルベールの姪エロイーズ(1101-64)の家庭教師を住み込みで行うことになった。
 この時アベラールは40歳、これに対してエロイーズは22歳下の18歳で、出会った当初は師弟のみの関係であったが、やがて2人は相思相愛の仲となり、エロイーズは妊娠した。このため彼女は伯父フュルベール氏の家を出てアベラールの親戚がいるブルターニュで男子を産んだ。

 フュルベール氏はこの一件を黙殺し、二人の結婚を認めた。しかし学校生徒と教授との結婚はスキャンダル・ゴシップの種となり、さらにアベラールは教授としての名声を確保するため、世間に知られず極秘結婚で貫こうとし、公式には結婚の事実を否定した。これがフュルベール氏を怒らせることになった。その後フュルベール氏はエロイーズへの加虐が進行したため、翌1120年、遂にアベラールはアルジャントゥイユの修道院にエロイーズを連れて行き、彼女を修道女として同院に身を置かすようにした。フュルベール氏らエロイーズ側の親族は、彼女を修道女としたのは、エロイーズが邪魔になって修道院に送り込んだというアベラールの咄嗟の処置と思いこんだ。フュルベール氏は、遂に残虐な手段でアベラールを去勢した。去勢者は当然神の怒りに触れるとして、アベラールは大聖堂からの追放処分を受け、地位と名声が地に墜ち、遂にはパリを離れてサンドニ修道院に入り、エロイーズと別々に修道生活を送ることとなった。

 この後、自身の学説"唯名論"によって、信仰よりも理性が先立つことを主張したアベラールだったが、ソワソン公会議で異端宣告を受け、サンドニ修道院も追われた。1128年、彼はブルターニュにてサンジルダス修道院長に任命されたが、1133年、今度は修道士からの嫌悪によって危うく殺されかけたため、修道院長を辞任した。1136年パリに戻って哲学を講じるものの、1141年のサンス公会議で再度異端とされ、翌1142年失意のうちに没した。

 アルジャントゥイユの修道院に入ってからのエロイーズは、その後、修道院長にまで昇りつめて、多くの修道士に愛されたが、アベラールが没して22年後、実にアベラールと同年齢で没したのである(享年63歳)。また1120年に修道生活が始まってからアベラールが没する1142年までの22年間、会えない辛さを『愛の往復書簡』の執筆で交わすことによって、お互い心で触れ合い、死後、念願がかなって二人はついに"再会"し、アベラールの遺骸はエロイーズと合葬され、現在パリのペール=ラ=シェーズ墓地に改葬されている。

 かつてアベラールが参じた普遍論争は、13世紀になって、イタリアのドミニコ会士トマス=アクィナス(1225頃-74)によって一応の解決をみた。トマスは穏健な実在論者であったが、理性と信仰がどちらが先立つかではなく、統一することが大事であると説き、それに含めて自然と超自然の調和、哲学とキリスト教神学の統一を求めた。ここでいう哲学とは古代ギリシャの哲学者アリストテレス(B.C.384-B.C.322)のそれであり、結果トマスは、神や普遍の在り方とは、個々の事物と離れて存在するのではなく、個々の事物に内在していると説いたのである。

 キリスト教文化が勃興した中世ヨーロッパを舞台に、一人のスコラ学者・アベラールにスポットを当てて紹介しました。実際、アベラールとエロイーズの不運のお話はほとんどといっても良いぐらい入試問題には出題されず、残念でなりませんが、学習ポイントとしては、アベラールはスコラ学者としてその内容を知ってもらいたいと思います。

 スコラ学は教父アウグスティヌスが出発点ですが、体系を整えたのはアンセルムス以降でしょう。普遍論争は入試では頻繁に出ますのでご注意下さい。内容が難しければ、実在論はアンセルムス(11C)、唯名論はアベラール(12C)、これを解決したのがトマス=アクィナス(13C)、これだけでも覚えておけばなんとか大丈夫ですよ。"天使博士"と呼ばれたスコラ学の集大成者・トマス=アクィナスの著書も知っておきましょう。2冊あるのですが、『哲学大全』は出題頻度は低く、よく出るのはもう1冊の『神学大全』です。

 神や普遍の実在に関して、繰り広げられた普遍論争ですがとりあえずトマス=アクィナスによって普遍論争は一度は解決しました。しかし13世紀のイギリスのスコラ学者ドゥンス=スコトゥス(1266頃-1308)や14世紀のイギリスのスコラ学者ウィリアム=オヴ=オッカム(1290頃-1349頃)らが、唯名論の立場から、哲学と神学、理性と信仰をもう一度分離区別する方向をみせました。スコトゥスはトマスの学説を批判して、哲学を厳密な学問とし、論証を重視して、理性より意志が優位だと説いています。これは近代思想の先駆となり、経験論などに影響を与えました。2人の唯名論者の名前、余裕があれば知っておいて下さい。またイギリスのスコラ学者ロジャー=ベーコン(1214頃-94)も有名です。イスラム科学の影響を受けて、観察・実験によって経験重視を主張するという、ここにおいても経験論の傾向がみられます。

 ベーコンといえば、イギリス=ルネサンス期に帰納法(きのう。個々の具体的事実から、共通の事柄を発見して、普遍的な原理を導き出す方法)を使って経験論を確立したイギリスの哲学者フランシス=ベーコン(1561-1626)がいますので、混同しないように。どちらもベーコンで、どちらも経験論ですので。ちなみに帰納法の反対語は演繹法(えんえき。普遍的な原理から理性的推理によって論証で個々の具体的事実に到達する方法)といい、感情・感性を重視する経験論とは真逆の合理論(理性論。合理主義哲学)に使用されました。合理論者として有名なのは、すべての存在を疑って、その疑う自分の存在を確信するという"コギト エルゴ スム(われ思う、ゆえにわれあり)"の言葉で有名なフランスの哲学者デカルト(1596-1650)でしょう。フランシス=ベーコンとデカルトは、ともに絶対主義時代の文化の単元で登場します。

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