世界史の目−Vol.44−

 ツァーリズム政権終焉社会主義政権誕生

 クリミア戦争(1853-56)の敗色が決定的となり、近代化した西欧列強に遅れをとっていることを実感したロシア・ロマノフ朝1613-1917)皇帝・アレクサンドル2世(位1855-81)は、"上からの近代化"をモットーに、ロシア資本主義的「大改革」を行うことを決めた。それは鉄道建設、陪審裁判の導入、地方自治ゼムストヴォの設立、一般義務兵役制度、工場建設などの実施であるが、その中で最も近代化に弾みをつけようとしたのが1861年農奴解放令の発令であった。しかし現状では、自由権を無償解放で得た農奴も、有償解放となった土地の借金に苦しみ、しかも、たとえ土地を購入しても、その土地は農村共同体(ミール)に属するため、真の所有地とも言えなかった。こうした状況から、発令後も生活改善は進まず、しかもポーランドでの反露独立を叫ぶ農民反乱(1863。反露ポーランド反乱)が勃発し、アレクサンドル2世が反動化支配に転じたため、ロシアの西欧に対する近代化の遅れは、王朝の専制体制に問題があるとして、革命主義を訴える人々があらわれる。彼らは体制から疎外された進歩的貴族や、新興市民の子弟などが主であり、西欧的知識・教養を身に付けて、専政支配に対して一貫して戦う知識人階級、すなわちインテリゲンツィア(インテリ)であった。

 専政王政から来るロシアの後進性の批判は何もアレクサンドル2世の時代からではなく、前々皇帝のアレクサンドル1世(位1801-25)の時代から続いていたことであった。当時のロシアは"ヨーロッパの憲兵"とも言われ、ツァーリズム(専制)の立場から、ウィーン体制保全による"神聖同盟1815)"を提唱して、対外の自由主義者を抑圧していた。またナポレオン戦争に参加して自国の後進性を意識した青年貴族将校らは、アレクサンドル2世の父にあたる前皇帝ニコライ1世(位1825-55。アレクサンドル1世の弟)が即位した頃、ロシア反動体制に批判してデカブリスト(十二月党)を結成して反乱(1825)をおこしている。こうした経緯から、インテリゲンツィアの発生をうみ、変革の先頭を担うようになっていくのであった。

 インテリゲンツィアは、アレクサンドル2世の大改革によって引き起こされたロシア資本主義を痛烈に批判した。彼らは作家ゲルツェン(1812-70)の思想から、ロシアを再生する出発点は農村共同体のミールであり、西欧とは異なる独自の道を歩みうる"農民社会主義"の実現に努めることに集中した。1873-4年頃になって、この思想は青年・学生を広くとらえ、彼らをナロードニキと呼び、農民の啓蒙からくる蜂起に期待して、"ヴ=ナロード人民の中へ)"を叫んで農村に入った。しかし官憲の弾圧をまねき、もともと農民もナロードニキ運動には無関心ということもあって、結果的には失敗に終わった。
 革命の挫折によって、希望を失ったナロードニキたちの一部には、アナーキズム(無政府主義。Vol.28サッコ・ヴァンゼッティ事件参照)やニヒリズム(虚無主義)に走り、全ての国家権威や絶対的真理を否定してく者も現れた。作家トゥルゲーネフ(1818-83)が1862年に発表した『父と子』では、農奴解放令発令後のロシアが舞台となっており、やがて来るニヒリストの新時代をとらえており、また1877年発表の『処女地』では、70年代のナロードニキを描写している。さらに、政治的手段として暗殺・暴行(テロル。テロ)を行うテロリズム(暴力主義)も70年代から横行しはじめ、立憲制を求めて、アレクサンドル2世を暗殺する計画を立てた。1881年、ナロードニキの中の"人民の意志"派のテロリストは、ロマノフ朝の首都ペテルブルク(後のレニングラード。現サンクト=ペテルブルク)にて、憲法草案に同意の声明を行おうとしたアレクサンドル2世に爆弾を浴びせ、殺害した(アレクサンドル2世暗殺)。

 その後ロマノフ王室からはアレクサンドル3世(1845-94)が父2世を継いで即位した(位1881-94)。彼は、「専制護持の詔書」を発して反動の1880年代を強調した。この頃ロシアは経済不況に瀕していたが、フランスから資本導入があったことでロシア資本主義を進展する方へむかい、やがて工業生産が著しく上昇した。鉄道生産も発展し、1891年に起工したシベリア鉄道の建設は、東アジア進出に対して、絶好の利用価値となった。フランスの支援は、露仏同盟の結成(1891-94)によるものである。当時のフランスは、ドイツ首相・ビスマルク(任1862-90)の外交で孤立化していた。その時ロシアはドイツと独露再保障条約(1887-90)を結んでいたが、ドイツではビスマルクの下野と皇帝ヴィルヘルム2世(位1888-1918)親政といった政権交代があって、再保障条約は破棄され、1891年フランスと露仏同盟を結び、当時ビスマルクが結成したドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟(1882-1915)と対抗していた。またイギリスとの間にもイラン問題・アフガニスタン問題などで対立を深めていた(やがて両国の対立緩和により、1907英露協商を協定。露仏同盟、1904年の英仏協商、そしてこの英露協商によって対ドイツ包囲体制が整った。すなわち、三国協商である)。

 外交には成功したアレクサンドル3世だが、国内では相変わらず革命運動が各地で起こっていた。工業の飛躍的発展で労働者が増大するとともに、労働の改善を求める運動が起こり、皇帝のツァーリズムに批判するようになった。やがて皇帝の資本主義経済の進展を否定し、社会主義思想が広がり始めた。1894年、アレクサンドル3世は没し、長男ニコライ=アレクサンドロヴィッチ=ロマノフ(1868-1918)が皇帝ニコライ2世として即位するのだが(位1894-1917)、彼自身、皇位の価値観も低く、政治教育が乏しかったために、統治意欲が薄かったものの、結局は父のツァーリズムを継承する方向をみせていく。

 ニコライ2世がまだ皇太子の頃、シベリア鉄道の起工式(1891。前述)のためウラジオストックに向かう途中、訪日したことがあった。ところが5月11日、滋賀県大津市で、警備の巡査津田三蔵(つだ さんぞう。1854-91)がニコライの頭部を斬りつけ負傷させる事件が起こった(大津事件ロシア皇太子傷害事件。湖南事件)。日本政府のみならず国民にも衝撃を与えたこの事件で、ロシアの報復を恐れた日本は、明治天皇(位1867-1912)はみずから、13日の京都宿所に、19日の神戸での露艦出航時に、それぞれ見舞って陳謝の念を表し、事態の収拾に努めた。ニコライは即位後、日本とは三国干渉1895)・日露戦争1904.2-05.5)などで関わっていった。
 ニコライ2世には1894年に結婚した気強い皇后アレクサンドラ(ドイツ出身)がおり、4人の娘と、末子の長男アレクセイ(1904-1918)という恵まれた家族構成だったが、実は皇后には血友病の遺伝があった。血友病は男性に発現し、アレクセイは生後まもなく血友病を発症した。皇后は次期皇位継承者となるアレクセイを治癒させるために宗教家ラスプーティン(1871-1916)を宮廷に招聘した(1905)。"怪僧"の異名を持つラスプーティンはシベリアの貧しい農家の出で、盗癖があったため村を追われて各地を遍歴、修道士となり、巧みな話術と催眠術を使って評判を得た後、上層部に認められ、「グリーシカ(=予言者)」と呼ばれた。宮廷に出入りしてからは、祈祷によってアレクセイの発病を緩和させたことでニコライ2世と、とりわけ皇后アレクサンドラに絶大なる信任を得た。その後ラスプーティンは、皇后の寵臣という立場を武器に、収賄を犯し、酒に溺れ、享楽主義に耽るなどの醜態行為であったが、ニコライ2世と皇后は、彼の行為を黙認し、逆に彼を国政に参与させるようになり、反ラスプーティン派の議員は容赦なく更迭されていった。当時首相に就任したばかりのストルイピン(任1906〜11)も手を焼いていたほどである。

 その間国内では、特に工場労働者を中心に、ニコライ体制におけるロシア資本主義を批判し、社会主義の思想が流行していた。マルクス(ドイツ。1818〜83)が大成した科学的社会主義は、ロシアの国民に広く受け入れられ、プレハーノフ(1856-1918)、マルトフ(1873-1923)、レーニン(1870-1924)、クルプスカヤ(レーニン夫人。1869-1939)ら革命家・政治家が中心となってマルクス主義運動を推進していく。やがて、彼らによりロシア社会民主労働党(RSDRP)が1898年に結成された。同党には、のちに台頭するスターリン(1879-1953)も所属していた。
 しかし、ロシア政府は彼らの運動を制圧、彼らは一時的に国外へ亡命する始末となった。亡命中レーニンは同志と党機関紙「イスクラ(火花)」を創刊し、『何をなすべきか』を著述した。
 1903年ロンドンにて、第2回の党大会が開催され、党綱領の決定によって、レーニンが指導する党内左派と、マルトフ・プレハーノフらが指導する党内右派の2派に分裂した。マルトフ派は、党組織の指導のもと、党に協力する者を党員とするという規約案を通過させたが、指導部の選出ではレーニン派より人数が少なく、レーニンら党内左派は多数派、マルトフら党内右派は少数派と呼ばれるようになった。レーニンら党内左派はボリシェヴィキ(ロシア語で"多数派"の意味。のちのロシア共産党)といい、労働者や農民を基礎として、全党員が前衛的組織に属して革命的に活動すると主張した。一方マルトフ・プレハーノフら党内右派はメンシェヴィキ("少数派"の意味)と呼ばれ、広く大衆に基礎をおいて、中小商工業者や小地主ら中産階級とも妥協して、漸進的に活動すると主張した。ブルジョワジーを中心として民主主義的な議会制を支持していった。
 これら以外でも、農民や労働者、インテリゲンツィアらナロードニキ系無産者の革命サークルを基盤として、直接行動(テロ)を重視し、ツァーリズムの打倒、土地の均等化を推進しようとする社会革命党(エスエル党。SR)が1901年に結成された。また1905年10月には政治家ミリュコーフ(1859-1943)を中心として、地主ら有産階級を基盤に、ロシア自由主義の立場から立憲君主政確立を目指したカデット党(立憲民主党)も生まれた。

 国内情勢がこうした中、聖職者ガポン(1870-1906)がでて、モスクワの保安部長長官であるズバートフに接近した。ズバートフは警察監督下の合法的労働運動を推進していた社会主義者で、ガポンはズバートフから人脈と資金を得たらしく(真相不明)、1903年ペテルブルクで、工場労働者の組合を組織した。やがてこの組合は生活難にあえぐ労働者の拠り所となっていった。
 折しもこの頃は労働条件の改善を求めて大規模なストライキがおこされていた。また日露戦争も勃発したことも重なり、ガポンは労働者の窮状を皇帝ニコライ2世に示すため、労働条件の向上化と戦争中止における平和を請願することを決意した。
 そして、1905年1月22日の日曜日(ロシア暦9日)、「プラウダ(=正義、真実)」を求める請願書を持ったガポンは家族と、ストライキ中のプチロフ工場の労働者を率いて、ペテルブルクの宮殿にむけて示威行進した。見物者も多く詰めかけた冬宮広場にガポンら行進者が集まったところ、宮問警備隊は彼らに対し、突如、無差別発砲を行った(血の日曜日事件)。行進者だけでなく見物していた民衆も犠牲となり、2000名をこえる死傷者が出(うち死者は100人以上)、冬宮広場は流血の惨状と化した。"1905年の革命ロシア第一次革命)"の勃発である。
 事前に内相との打合せがあったにもかかわらず、民衆を巻き込む大惨事となったこの事件で、ガポンは現場を逃れ、ロンドンに亡命した。これを機に、ストライキは全国的に広がっていき、また日露戦争においても中国の租借地である旅順(りょじゅん)を占領され(1904.6-05.1)、南満州の奉天(ほうてん。現・瀋陽。しんよう)で敗戦(奉天会戦。1905.3.10)、海ではロシア・バルチック艦隊が日本の連合艦隊によって壊滅させられ(日本海海戦。1905.5.27-28)、小国日本に連敗を喫した。特にバルチック艦隊の壊滅は水兵にも悲嘆や政府への怒りをもたらし、1905年6月、黒海艦隊所属の戦艦ポチョムキン号内で水兵による暴動が起こり、政府は戦争続行を断念し、9月に講和した(ポーツマス条約)。講和では、ロシアの全権代表に元蔵相のヴィッテ(1849-1915)が務めた。
 10月にはゼネストが決行された。鉄道・郵便・電話の機能が停止する中、ペテルブルクである大会が開かれた。これは、革命勃発以降、労働者と兵士が自発的に形成した評議会であり、"ソヴィエト(労兵会。「会議」の意味)"と呼ばれる。労働者と兵士の代表選出機関で、ボリシェヴィキ派が特に刺激を受け、これが後に重要な機関となっていくのである。

 ソヴィエトが結成されてから、ニコライ2世の反動体制は徐々に批判の色を強めた。1905年10月、ニコライ2世は「十月勅令(十月宣言)」をヴィッテに起草させて、これを発した。内容は、立憲政治の必要から憲法の制定と、ドゥーマ(国会)の開設を約束し、翌年ドゥーマが開会され、憲法が発布された。これにて第一次革命は終結の方向に向かった。しかしドゥーマは開設されても、代表は地主貴族ばかりで、ニコライ2世の反動支配体制はあまり変わらなかった。またヴィッテは首相となったが(任1905-06)、数々の自由主義改革を断行したことにより、ニコライ2世の怒りを受け翌年解任され、ストルイピンを首相に任命させた(任1906-11)。

 ストルイピン首相は革命派を次々と弾圧する反動政治を行った。さらに農村を中心に土地改革を行い、ミールを解体して(1910)分与地を私有地に変えて農民に与えるなど、自作農育成を推進した。しかし、この農村を軸としたロシア資本主義の展開は、農民の貧富の差を余計に増長する形となり、社会不安が高まった。この結果、ストルイピンはキエフでの観劇中に暗殺されてしまう(1911)。

 やがて、第一次世界大戦(1914-1918)が、三国同盟の同盟軍とロシアが参加する三国協商の連合軍との間で開戦した。ロシアは8月1日開戦したが、29日のタンネンベルクの戦いでヒンデンブルク将軍(1847-1934)率いるドイツ軍に大敗した。また予想外の戦争の長期化、相次ぐ新兵器(戦車・潜水艦・飛行機・飛行船・毒ガスなど)の登場に国内での武器供給が追いつかず、敗退を重ねた兵士の士気は低下した。さらに外国資本ひきあげ、農業生産の低下、輸送麻痺などで首都ペトログラード(開戦時、ペテルブルクを改称)の物資も欠乏して生活不安が高まり、とりわけ労働者の低条件化によってストライキが続発したが、それでもなお戦争続行を主張するニコライ体制に不満の声が上がっていった。

 この不穏な情勢の中でも、内政に無関心なニコライ2世は第一次世界大戦中、自ら最高司令官となって戦線に赴き(1915)、内政はアレクサンドラ皇后と怪僧ラスプーティンに委ねていた。皇后はドイツ出身のため、ドイツと戦うロシア国民からは嫌がられ、またラスプーティンと皇后が愛人関係となり、ドイツのために講和を策動しようとしている噂が流布された。ニコライ2世は軍を指揮して戦争続行を主張しているのにもかかわらず、この噂は宮廷・政府に対する国民の信用を失墜させた。噂であれ戦時中の現状から見るとかなりの真実味を帯びたため、ますます批判が強まっていった。
 やがてラスプーティンは、1916年12月、皇帝政治の浄化を主張する皇族や右翼議員に憎まれ、遂に暗殺された。彼は青酸入りの飲料物を飲んでも死なず、ピストルを数発被弾しても息があったとされ、最終的に全身を殴打され、ネヴァ川に投げ込まれたという。アレクサンドラ皇后によって手篤く葬られたが、翌年に怒る民衆に掘り返され、焼き捨てられた。

 首都ペトログラードでは、食糧危機の不安によって、大規模な労働者ストライキが激化し、1917年3月8日(ロシア暦2月23日)、労働者や兵士はソヴィエト(労兵会)を大々的に結成した。ロシア三月革命(ロシア暦二月革命)の勃発である。
 革命勃発で、帝政は崩壊し、戦線にいたニコライ2世は退位させられ、ウラル地方のエカチェリンブルク(現スヴェルドロフスク)にて、家族とともに幽閉された。これにより、ミハイル=ロマノフ(位1613-45)が開基し、ピョートル1世(位1682-1725)・エカチェリーナ2世(位1762-96)といった名君主を誕生させたロマノフ王朝は300年の歴史をもって終わりをつげ(ロマノフ朝滅亡)、ドゥーマに基礎を置いた、自由主義勢力の立憲民主党・社会革命党・メンシェヴィキらによる臨時政府が誕生し(1917.3-11)、立憲民主党リヴォフ公(1861-1925)を首相において、戦争続行を主張、ソヴィエトと対立することとなる。法相には社会革命党右派ケレンスキー(1881-1970。のち陸相)が、7月には最高軍事司令官は、元日露戦争時の参謀コルニーロフ(1870-1918)が任命された。

 臨時政府が誕生しても、社会不安はぬぐえなかった。しかも、ソヴィエトの勢いは鎮まらず、政府とソヴィエトの二重権力状態が続いた。この時、亡命先のスイスのジュネーヴで三月革命を知ったレーニンは、戦争停止を主張するため、ロシア帰国を決意したが、大戦中で交戦国を通過するのは困難であったため、帰途、革命宣伝を行わないよう外部接触を禁じた"封印列車"を、ドイツから提供されて帰国する形となった(1917.4)。帰国直後、"すべての権力をソヴィエトへ"といった方針を掲げる「四月テーゼ」を発表し、戦争の即時中止をうったえ、臨時政府ではなくソヴィエトに支持することを表した。これは社会主義による政権を確立させるための主張で、ボリシェヴィキ・レーニンの反撃が始まったのである。

 7月、臨時政府はケレンスキーを首相に任命した。戦争続行を主張するケレンスキーは、軍事力を基礎とし、共和政を名目に執政者の独裁をおく政府を理想としており、それはかつてのナポレオン(1769-1821)を意識していた。ボリシェヴィキは武装蜂起したが、当時は党員の数が少なく、あえなく鎮圧された(七月蜂起)。

 ボリシェヴィキの転機が訪れたのは9月である。軍部は臨時政府の戦争続行をかかげるも、財政悪化傾向によって軍の拡大供給がままならないことから、軍部は政府と対立していた。政府内の社会革命党も8月頃から党内左右の対立が深まり、左派はボリシェヴィキを支持する方向に出た。9月7日、七月蜂起後に最高司令官になったコルニーロフ将軍は、臨時政府に対するクーデタをおこすべく、前戦部隊をペトログラードへ進軍した(コルニーロフの反乱)。軍部が敵となり、鎮圧に苦しむケレンスキー内閣は、やむを得ずボリシェヴィキに援助を要請して反乱を鎮圧し、コルニーロフは逮捕された。これにより、ボリシェヴィキへの民衆の支持がにわかに高まっていき、さらに有能なユダヤ人の革命家トロツキー(1879-1940)がボリシェヴィキに入党、レーニンと意気投合し、中央委員兼ペトログラード=ソヴィエト議長に就任した。

 11月7日(ロシア暦10月25日)、レーニン、トロツキーらボリシェヴィキは、再度武装蜂起した。ケレンスキーは女装して冬宮を脱出、フランスへ亡命、無血で臨時政府打倒に成功した(ロシア十一月革命。ロシア暦十月革命)。翌8日、全ロシア=ソヴィエト大会がペトログラードで開催され、メンシェヴィキ、社会革命党左派らが出席し、ボリシェヴィキも勝者として会議に出席、新政府・人民委員会議が発足された。議長にレーニン、外務人民委員にトロツキー、民族人民委員にスターリンが選出された。ここにソヴィエト組織による社会主義政権が誕生した。

 同日、新政府は対外に"平和に関する布告"を発し、全交戦国に無併合・無賠償・民族自決の平和を提案し、対内には"土地に関する布告"を発し、地主所有地を無償で没収して生産手段を公有にする、社会主義政策の第一歩となる提案を出した。ドイツはこれに応じて12月から休戦して交渉に入るが、連合国側はこれを黙殺した。このためレーニン率いる新政権は、ロシア旧政権の秘密外交文書を次々に公表して列強の併合・賠償を繰り返す帝国主義の有り様を暴露した。戦争目的を指摘された各列強は、その場を取り繕い、同時にロシア新政権への打倒を図ることになる。

 その後ボリシェヴィキが先頭に立って、鉄道・銀行などの主産業の国有化、地主制度の廃止、外債破棄などの政策を実施した。
 ところが11月25日、ロシア最初の憲法制定議会の普通選挙が、比例代表制で行われ、結果、社会革命党413議席、ボリシェヴィキ183議席、立憲民主党17議席、メンシェヴィキ16議席となり、ボリシェヴィキではなく社会革命党が第一党になった。さらに選挙後の12月には反革命を取り締まるため、警察機関である全ロシア非常委員会(チェカ)を設立した。
 翌1918年1月18日憲法制定議会が開会された。ボリシェヴィキは全労働者への人権擁護案を提出するが、議会がこれを否決したため、全ボリシェヴィキ議員は退場した。翌19日、レーニンは議会を武力閉鎖し、議会を解散させ、他の全政党を禁止した。これにより、事実上のボリシェヴィキによる一党独裁が実現した(プロレタリア独裁ボリシェヴィキ独裁)。また同月の第3回ソヴィエト大会で、レーニンは、ロシアは"ロシア社会主義ソヴィエト共和国"であるとの宣言を行った。 

 3月3日、ポーランドのブレスト=リトフスクで、昨年から和平交渉に入っていたドイツと講和条約を遂に締結した(ブレスト=リトフスク条約)。ソヴィエトは、旧ロシア領だったフィンランド・ポーランド・バルトのリトアニア・エストニアなど、約320平方キロメートルの領土をドイツに割譲することになり、賠償金支払いを約した。"平和に関する布告"の無併合・無賠償の効果はなかったが、ロシアは連合国軍から離脱し、第一次世界大戦から手を引いた。その後の11月、ドイツ革命(1918.11.3-1919.1)の勃発とドイツの大戦の降伏(11.11。大戦終了)で、ブレスト=リトフスク条約は破棄された。

 同年3月、ボリシェヴィキ政府はロシア共産党と改称して、19日には首都をモスクワに遷都した。その後、憲法を採択し、全国にソヴィエトを設置した。さらに、もともと十一月革命直後に労働者・兵士らが集まり、赤衛軍を結成していたが、これを再編成して、労農赤軍(せきぐん)を組織した。赤軍は、ソヴィエト政府に反対する地主・帝政派の貴族・将校、社会革命党らが結成する白軍反革命軍)と激しい攻防を繰り広げた。

 内紛が起こっている最中、外債破棄、"平和に関する布告"時でのレーニンの秘密外交文書暴露に怒った連合軍(アメリカ・イギリス・フランス・カナダ・日本ら)は、革命の拡大阻止のため、反革命軍を支援してソヴィエト政権を倒すことを合意した。4月にまずイギリス軍がムルマンスクに上陸してソヴィエト領に侵入した。ここにソヴィエト政権打倒をめざす、連合国の対ソ干渉戦争が宣戦もなしに勃発した(1918.4-22末)。実は、大戦中に大量のチェコ兵士が、ロシアに投降、捕虜となっていたのだが、1918年5月、極東の港から西部戦線に向かうためにシベリア鉄道で移動中に反乱を起こし、全線を占領して反革命軍を支持した。連合軍はこのチェコ兵救出を口実として反革命軍を支援していった。

 7月、連合軍に支援された反革命軍が、エカチェリンブルクに接近した。エカチェリンブルクは、ニコライ2世とその家族が幽閉されている場所である。レーニンは反革命軍が、ニコライ2世を解放して帝政復活を図ることを予想して、ある決意を行った。
 7月16日、レーニンは、ニコライ2世と夫人アレクサンドラ、さらに4人の娘と末子の長男アレクセイの処刑を決め、彼らは同日、銃殺刑に処された。ニコライは50歳で、妻アレクサンドラは46歳で、長女オリガは23歳で、次女タチアナは21歳で、三女マリアは19歳で、四女アナスタシアは17歳で、末子の長男アレクセイは14歳で、それぞれ生涯を終えた。

 8月には対ソ干渉戦争の一環として、日本軍を主力に行われたシベリア出兵が実施された。不安な情勢の中、政権から一掃された社会革命党の残党はテロ主義の復活となり、8月レーニンを狙撃、レーニンは重傷を負い、ソヴィエト政権は危機に陥った。このため、世界革命を意識して各国に共産党を成立させるため、翌1919年、その統一機関であるコミンテルンを組織した(1919.3。共産主義インターナショナル)。その後、領土拡大を目的にポーランドと戦争し(ソヴィエト−ポーランド戦争。1920-21)、勝って干渉戦争を終わらせようとしたが、結局は敗退した。
 さらに戦場と化したロシア内では生産手段がそろわず、経済状況の慢性的悪化に拍車をかける結果となったため、中小工場の国有化、賃金の現物支払、農民からの穀物強制徴発による食糧配給などを強行する戦時共産主義を掲げた。しかしこうした政策も失敗に終わり、多くの餓死者を生みだした。レーニンは経済政策の転換をおこなうべく、1921年3月に開催された第10回共産党大会で、国有化の緩和や農民による強制徴発の廃止などを行い、幾分自由な路線を導入して私企業の経営や農地経営を認めた。これを新経済政策(NEP。ネップ)というが、ロシア資本主義の復活をとげるものとして批判もあった。同月、イギリスと通商協定を結び(英ソ通商協定)、資本主義国との最初の国交を回復した。さらに1922年4月、大戦の敗戦国ドイツとラパロ条約を結んで国交を回復した。

 ソヴィエト政府が他国に認められていきながら、干渉戦争は徐々に下火になった。ロシア以外にも白ロシア社会主義ソヴィエト共和国、ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国・ザカフカース社会主義ソヴィエト共和国というように、各地でソヴィエト共和国が成立、1922年12月、ついにソヴィエト社会主義共和国連邦ソ連。United of Soviet-Socialistic Republics。U.S.S.R.)の樹立が宣言された。1924年ソヴィエト社会主義憲法が制定され、ロシア共産党も全連邦共産党からソ連共産党(KPSS)に改称された。ネップの効果で、生産水準が徐々に復活を遂げ、、同1924年にはイギリス・イタリア・フランスが、1925年には日本が、1933年にはアメリカがソ連を承認した。こうしてソ連の国際的地位は段を踏んで上がっていった。

 ソ連が承認されていく中で、レーニンは1921年末から症状が急転し、テロ襲撃の傷も治らず、また脳血栓を患った。1924年、モスクワ近くのゴーリキー村で没し(レーニン死去)、ペトログラード市民は彼の名に因んで市名をレニングラードと改称して、クレムリン宮殿の「レーニン廟」に安置された。

 レーニンの死後、ソ連の後継者はスターリンが指揮をとり、1953年に死ぬまでスターリン独裁が続けられていく。

 非常に長いお話でした。実際ロシア革命のお話ならば、中学の時に習った1917年の勃発からでいいのかというと、高校世界史はそうはいかなくて、実際血の日曜日事件が起こった1905年が真の勃発年となります。過去もいろいろ劇的な革命シリーズをお話ししましたが、ロシア革命も他国に負けない大革命でした。前半はロシア皇帝を中心に、後半はレーニンを中心に政情が動いて、とりあえずレーニンが没するまでを今回ご紹介させていただきましたが、実は、レーニン没後政権をとるスターリンも、非常にスリリングな展開なので(なにせ冷たい戦争の主役ですから)、機会あれば今後お話ししたいと思います。

 ロシア革命は全世界にも影響をもたらした大変革といえます。本編にも登場したドイツ革命(1918.11)もその1つで、直接の発端はキール軍港で水兵さんがおこした反乱ですが、革命でドイツ共和国が誕生したあと、ドイツ共産党(スパルタクス団)が社会主義革命を起こすところは、まさにロシア革命の影響を受けてますね。共産党指導者のローザ=ルクセンブルク(1870-1919)やカール=リープクネヒト(1871-1919)らは革命に失敗して殺害されています。
 ドイツ革命以外にも、ロシア革命に影響を受けて、社会主義運動や独立運動、反帝国主義運動が起こりました。立ち上がったものといえば、ハンガリーのベラ=クン(1886-1937)による社会主義革命(1919.3)、エジプト民族主義政党であるワフド党の反英独立闘争(1919.3)、トルコ革命(1922.11-23.10)、イラン軍人レザー=ハーン(レザー=シャー=パフレヴィー。1877-1944)のクーデタ(1921.2)、インド・ガンディー(1869-1948)の反英不服従運動(1919.3)、中国共産党の成立(1921.7)、日本共産党の成立(1922.7)、モンゴル人民共和国の成立(1924.11)、インドシナ共産党の成立(1930.1)などが挙げられます。共産政党の設立は、コミンテルン結成の影響も大きいですね。

 さて、今回の学習ポイントですが、ロシア暦というカレンダーが出てきました。ロシア暦は古いユリウス暦で、13日追加するとグレゴリ暦となります。グレゴリ暦は西欧諸国で用いられた暦です。詳しく覚える必要はないですが、三月革命はロシア暦二月革命、十一月革命はロシア暦十月革命だけでも覚えておきましょう。そういえばフランス革命の時も革命暦ってのがありましたね。"テルミドール"とか"ブリュメール"とか。あと、まぎらわしいのですが、二月革命は、ウィーン体制を崩壊に導いたフランス・二月革命(1848)もあり、三月革命もまた、フランス二月革命の影響を受けてオーストリアとプロイセンを擁したドイツの三月革命(1848)もあり、ウィーン暴動やベルリン暴動などが展開されます。

 暦以上にまぎらわしいのはたくさん出てきた政党とその所属者ですね。おさらいしていきましょう。まず、最初にできたのがロシア社会民主労働党で、マルトフ・プレハーノフ・レーニンらが所属していました。これが、マルトフ・プレハーノフらの漸進的なンシェヴィキ(数派)とレーニンらの急進的なルシェヴィキ(数派)に分裂します。ボ多メ少(ボタメシ)って覚えましたけどね。あと、ナロードニキ系が集まってはテロ行動を行う社会革命党(エスエル党。ケレンスキーがいました)、ブルジョワジーの議会主義を主張する立憲民主党も大事です。あと、スターリンとトロツキーはボリシェヴィキに属します。ボリシェヴィキはロシア共産党→ソ連共産党というように変わっていきます。

 皇帝に目を移しましょう。アレクサンドル1世→ニコライ1世→アレクサンドル2世→アレクサンドル3世→ニコライ2世の順番は覚えておいた方が良いです。みんな専制反動支配を形成して、歴史上ではあまり人気がありませんので、この人たちのまわりには戦争や反乱だらけです。アレクサンドル1世の時はウィーン体制下の"神聖同盟"、ニコライ1世の時はデカブリストの乱とクリミア戦争、アレクサンドル2世の時は反露ポーランド反乱とクリミア戦争と農奴解放令実施、さらに本人もテロで暗殺、アレクサンドル3世の時は大津事件、露仏同盟成立、シベリア鉄道起工があります(3世自身の出題は薄いですが、露仏同盟やシベリア鉄道は有名なので必ず覚えましょう)。そしてニコライ2世は革命の渦中ですから日露・第一次大戦など戦争ばかりのボコボコの状態です。

 特にニコライは日本史でも大津事件で有名ですね。ここで日本史のポイントですが、当時イギリスと条約改正をめぐって交渉にあたっていた外相青木周蔵(あおき しゅうぞう。1844-1914)はこの事件によって交渉が頓挫して辞任しています。また本編に登場した津田三蔵の裁判で、明治天皇の脚を運ばせるほどの大事件にまで及んだことで、当時の政府・松方正義内閣(まつかた まさよし)は当然死刑を要請しました。しかし当時の司法権行使の最高機関は大審院といい、大審院長の児島惟謙(こじま いけん。こじま これたか。1837-1908)は謀殺未遂罪として無期徒刑判決を判事らに下させたことで、"司法権の独立"を守った判決とされています。

 ニコライ2世の最期はとても悲劇的でしたが、皇位を継ぐ運命にあったため、このような結末になるのは実に気の毒です。ところで彼の周りは問題だらけの人物ばかりですね。気の強そうなアレクサンドラ皇后や怪僧ラスプーティンに振り回されて、本当はニコライ2世は退位後、弟に譲位するのですが、拒否されたため、結局ニコライ2世でもってロマノフ王朝が終わります。ただ最近になって、処刑された家族のうち、子ども2人の遺骨が未発見であることが分かり、家族全員が完全に処刑されたのかどうかが疑問視されるようになりました。

 あと、ペテルブルクという名称ですが、第一次世界大戦の勃発でペトログラードになり、レーニン没後にレニングラードとなり、現在はサンクト=ペテルブルクという名称です。中国史でも北京(大都など)や南京(建康、建業、金陵など)の名称が変わるのと同じですね。テーマ史などで出題されることもありますので、注意が必要です。

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