世界史の目-Vol.46-

アヘン戦争(1840-42) 

 17世紀ごろからポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどと通商を行っていた中国・朝(1616-1912)は、朝貢貿易(ちょうこう。対外君主が、中国皇帝に物を貢いで敬意を表す貿易。相手国には返礼品を与える)の体制を貫くため、海関(かいかん。税関のこと)を広州(広東。カントン)など4つの開港場に設けるなどして、海外貿易の統制を行った。中国皇帝は、海外貿易の観念とは常に朝貢であり、相手国は中国従属のもとでの貿易のみによるものだととらえていたため、海外の対等貿易は消極的であった。

 18世紀になると、貿易相手国の中ではイギリス東インド会社を持つイギリスが台頭して、中国貿易を独占する形となった。それは中国茶・絹・陶磁器を輸入し、代価を新大陸からので支払う一方的な片貿易であった。このため中国では大量の銀が国内に流入することになる。当時の中国は、康煕帝(こうきてい。位1661-1722)・雍正帝(ようせいてい。位1722-35)・乾隆帝(けんりゅうてい。位1735-95)といった繁栄の治世下にあったが、貿易による経済安定が大きな要因であった。
 しかし乾隆帝は、朝貢貿易主義を貫き、海外貿易を広州1港に制限し(1757)、王室が指定した少数の特許商人組合・公行(コホン。通称広東十三行。カントンじゅうさんこう)が取り仕切ることになり、イギリスにとっては厳しい制限貿易となった。さらにこの片貿易は、イギリスの輸入超過が進む非常に不利な貿易であり、さらにアメリカが独立してから(1776)、新大陸の北米植民地喪失によって銀の供給が苦しくなった。

 このため、片貿易をやめて、イギリス本国、イギリス支配下のインド、そして中国の三角貿易を開始した。まずイギリス本国の綿製品をインドへ、インドで生産したアヘン(阿片。ケシの乳液からつくる麻薬。中国では古くから、鎮痛の妙薬として知られた)を中国へ、中国産の茶・絹・陶磁器をイギリス本国へ、それぞれ輸出する形をとった。

 この貿易は成功すると見込んだイギリス・ハノーヴァー朝(1714-1917)国王ジョージ3世(位1760-1820)は、制限貿易撤廃と広州以外の開港数増加を求めて、1793年、上院議員だったジョージ=マカートニー(1737-1806)をイギリス最初の全権大使として中国に派遣させ、マカートニーは熱河(ねつか。現・河北省承徳。皇帝の離宮がある)、で乾隆帝に謁見した。乾隆帝は謁見に際し、マカートニーに朝貢国使節としての"三跪九叩頭礼(さんききゅうこうとうれい。3度ひざまずき、そのたび3回ずつ頭を床につけ拝礼する、皇帝に対して臣下が行う儀礼。結局頭は9回下げなければならない)"を求めた。マカートニーはこれを拒否し、片膝をつき、乾隆帝の手に接吻する妥協案を提示したことで、乾隆帝はイギリス人を「無礼な野蛮人」とみなし、三跪九叩頭なしで謁見を許可した。当然制限貿易の撤廃、広州以外の開港、対等国交の樹立はすべて拒否され、翌年帰国した。次の嘉慶帝(かけいてい。位1796-1820)の時もまた、1816年にウィリアム=ピット=アマースト全権大使(1773-1857)が派遣され、マカートニー同様三跪九叩頭を拒否し謁見にのぞんだが、今度は謁見も許されず、むなしく帰国した。

 乾隆帝の晩期から、清朝は大きく揺れ動き、衰運が見え始めていた。特に嘉慶帝の時代では、官僚の腐敗、土地・食糧の不足、反体制宗教団体である白蓮教徒の反乱(びゃくれん。1796-1804)など、事態は悪化の一方を辿っていった。さらにかつて雍正帝の時代にアヘンがオランダから持ち込まれて吸引が流行したために吸引禁止令(1729)を発していたにもかかわらず、貿易によるアヘン流入で中毒者が増加する傾向にあった。

 次の清朝8代・道光帝(どうこうてい。位1820-50)の頃になると、アヘン吸引の悪習は年々増加し、政府が公式にアヘンを輸入しているにもかかわらず、闇ルートが多く発生し、密輸量も増加した。1834年、イギリス本国では、国内の産業資本家が自由貿易を訴えたことで、東インド会社中国貿易独占権が議会で廃止され、イギリス商人の自由貿易が活発化し、アヘンはより大量に中国に流入した。これにより中国はイギリスに対して輸入超過に転じ、大量アヘンの代価としては、中国茶などの輸出品だけでは足りないため、これに加えを支払った。これまでとは逆に、銀は中国からイギリスへ流入ようになった。中国における銀の大量流出は実に深刻であり、特に1830年代末には国家歳入の80%の銀が流出した。これまで片貿易による銀の流入で安定していた清朝財政を転落させる結果となったのである。

 中国は明朝(1368-1644)の時代から銀で税を徴収した。明時代の税制は一条鞭法(いちじょうべんほう)といい、地税地銀。土地税)と丁税丁銀。人頭税。成年男子対象)を両方とも銀納による徴収制度であった。清朝もこれを継続していたが、やがて領土拡張により人口が増加すると、壮丁(そうてい。成人)の把握が困難となり、康煕帝は1711年の壮丁人数を基準に、それ以降に生まれて増加した人口を盛正滋生人丁(せいせいじせいじんてい)として丁税の賦課対象から除外することを決め、これまで税を逃れていた壮丁以上の年齢層に戸籍登録を行わせた。これにより人口は爆発的に増加し、丁銀の固定化がはかられた。雍正帝の時には、戸籍と土地が完全に整理されたことで、丁銀を地銀に繰り込むのが可能となり、一括して払う地丁銀(ちていぎん)制度にとってかわった。乾隆帝には全国に拡大し、地税のみで税制を確立した。
 地丁銀制度は納税額を銀価によって決められており、銀何両という形で指定された。銀1両は銅銭1200文の交換であったが、アヘン貿易による銀の大量流出によって、銀価が倍に高騰したことで、銀1両につき、最大で銅銭2000文の交換となった。当時の農民は作物を売って受け取る銭貨は銅銭であり、納税の際には銀貨に交換する必要があった。よって、支払う税金も倍に跳ね上がり、農民は納税の負担に苦しみ、生活が圧迫された。

 こうした情勢下、宮廷では、アヘン厳禁論とアヘン弛禁論(しきんろん)が揺れ動いていたが、道光帝は、アヘン厳禁論を取り上げ、湖広総督で功績をあげていた林則徐(りんそくじょ。1785-1850)を起用し、アヘン禁輸にふみきる決意をした。こうして林則徐は、道光帝から、特命による欽差大臣(きんさ)の任命を受けた(1838)。翌1839年、林は広州に赴き、3月、イギリス領事や英米のアヘン商人を商館に監禁して、所有アヘンの引渡を強要、英米商人のアヘン2万箱分を没収して焼却、そして商館区の封鎖を強行し、イギリスに対してアヘン貿易停止をうったえた。イギリスは、この強引な処置を不当として、武力で清朝に圧迫をかけようと決意、1840年、イギリスは中国に軍艦16隻を含む40数隻の遠征軍を派遣し、ついにアヘン戦争が勃発した。

 開戦当初、イギリス全権エリオットはイギリス艦隊を北上させ、北京の外港・天津(てんしん)に迫った。林則徐は、"一歩退けば、敵は一歩踏み込む"と主張して持久ゲリラ戦を展開して抗戦した中国愛国者だったが、西洋の近代兵器でもって、戦局を優勢に展開するイギリスの優秀性にも着目していた合理主義者であった。しかし艦隊が天津に迫る恐怖のあまり動揺した道光帝は停戦和平交渉をはかろうとしたため、林則徐は欽差大臣を免職された。
 1840年11月、両国の停戦交渉は広州で行われたが、イギリスは武力行使をおこなって広州を攻撃し、結局交渉は実を結ばなかった。また広州攻撃による清軍降伏直後の1841年5月、広州郊外の三元里(さんげんり)の住民が憤激、武装自衛団(平英団。へいえいだん)を組織してイギリス軍を攻撃した(三元里事件)。

 1841年7月、後任の全権ヘンリ=ポティンジャーは、廈門(アモイ)・舟山(チョウシャン)・寧波(ニンポー)を占領、翌42年乍浦(チャープー)・上海(シャンハイ)・鎮江(チェンチャン)を攻略して南京に迫った。清朝はついに敗北を認め1842年8月29日、南京で、イギリス全権ヘンリ=ポティンジャーと清朝全権耆英(きえい)・伊里布(イリフ)によって、南京条約(江寧条約。こうねい)が調印された。
 この条約で、五港の開港(広州・上海・寧波・福州・廈門)・公行廃止による貿易自由化・香港割譲(ホンコン)・林則徐が廃棄したアヘンの原価600万両補償・イギリス側軍事費1200万両の賠償などが約された。翌1843年6月に条約が批准されると、イギリスはこれに基づき、同月末に五港通商章程を清と締結して、イギリスの領事裁判権を認めた。さらに10月8日、広州の虎門寨(こもんさい)で虎門寨追加条約を締結し、先の五港通商章程・輸出入税率・領事裁判権・最恵国待遇などが規定された。さらに開港場でイギリス人が土地(租界。租借地)を借り入れ(租借)、行政権や警察権、司法権などの行使を可能にすることも認めさせた。これは名目上独立国であっても、実質は植民化された状態(半植民地)を意味し、のち19世紀後半に展開される列強の中国分割の原点となった。また清朝は、翌1844年にはマカオ郊外の望廈(ぼうか)で、アメリカ望廈条約を、広州郊外の黄埔(こうほ)でフランス黄埔条約をそれぞれ南京条約・虎門寨追加条約と同様の内容で結ばされた。1845年には上海で、イギリスによる初めての租借地がつくられた。

 戦争原因になったアヘン貿易については触れられず、一方的な最恵国待遇治外法権領事裁判権)・関税自主権の否認という内容が織り込まれた条約の締結は、明らかに清朝にとって不平等条約であった。、アヘン戦争以降、さらなる列強の激しい進出によって、中国政府を内外に揺れ動かしていく。

 今回は中学校の社会の教科書にも登場する有名なアヘン戦争のお話です。惨憺たる開国によって、中国は今後欧米列強の侵略の渦に巻き込まれていき、国内では太平天国の乱(1851-64)、対外的には第2次アヘン戦争とも呼ばれるアロー戦争(1856-60)といった反乱・戦争が展開されます。
 話は違いますが、アヘン戦争が起こった時のイギリスは、ハノーヴァー朝の国王は当時21歳のヴィクトリア女王(位1837-1901)でした。そして、アヘン戦争が勃発した1840年に、従弟のアルバート公と結婚しています。この時代のイギリスは第1回選挙法改正(1832)に不満な労働者が、"人民憲章(People's Charter)"を掲げてチャーティスト運動を起こしていました。

 さて、今回の学習ポイントを見ていきましょう。三角貿易の仕組みは頻出事項です。イギリス・インド・中国のそれぞれの輸出品は覚えておいて下さい。とくに中国が本国に輸出する三大産物(茶・絹・陶磁器)は重要です。
 続いて、アヘン戦争の勃発年(1840)と終戦年(1842)も知っておきましょう。終戦年は南京条約締結の年です。私は、"アヘンはいやよ死にますよ"と覚えました。勃発の原因をつくった欽差大臣・林則徐も重要ですが、漢字の間違い(○徐 ×除、○則 ×即)にも気をつけて下さい。
 南京条約以降の全条約(虎門寨追加条約、アメリカとの望廈条約、フランスとの黄埔条約)も重要です。開港場の名前や、公行廃止といった内容は覚えて下さい。そして何よりも不平等条約に欠かせない①最恵国待遇②治外法権(領事裁判権)③関税自主権放棄は、その言葉の意味を理解しておきましょう。

①最恵国待遇・・・他国に最も良い待遇を与えていれば、これと同等の待遇を条約相手国にも与えるという意味で、普通は相互間に最恵国待遇を与えるものだが、清や、日本の日米修好通商条約などは、一方的に相手に与えるため、不平等であった。
②治外法権・・・中国に居住する外国人は、中国の裁判権に拘束されない。イギリス人が犯罪を犯せば、犯罪者の裁判権は中国に駐在するイギリスの領事がもつ(領事裁判権)。
③関税自主権放棄・・・清朝は関税率を定める権利が認められず、条約相手国との合意が必要となる。普通は自国の関税は自主的に規定できる自主関税で、今回の条約はそれを放棄して、両国の合意による協定関税だった。

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