世界史の目-Vol.47-

メアリ=ステュアートの生涯(1542-87)

 11世紀、ケルト系スコット人によって統一が完成したスコットランド王国では、その後イングランドとの抗争が続いたが、民族的英雄とされるスコットランド王ロバート=ブルース(位1306-29)は、スコットランドの独立を主張して、イングランド・プランタジネット朝(1154-1399)のエドワード2世(位1307-27)と戦い、1314年、バノックバーンの戦いで勝利を収めて、1328年、独立が承認された。

 1371年、ロバート=ブルースの孫によって開基されたスコットランドのステュアート朝は、イングランドでも開基され(第一次1603-49。第二次1660-1714)、1603年以降はイングランドとスコットランドの同君連合となり、1707年、イギリスのアン女王(位1702-14)の時、同君連合の関係から、合併となってグレート=ブリテン(大ブリテン)王国となる。次のハノーヴァー朝(1714-1917)が開基されるまで、ステュアート家の治世となる。

 16世紀のイングランドでは、宗教改革が勃発してイングランド国教会が成立した(1534)。もともとスコットランドはカトリック国で、時のスコットランド王ジェームズ5世(位1513-1542)は、旧教国フランスに接近し、フランス王フランソワ1世(位1515-47)の娘と結婚するなど、カトリックを堅持していた。しかし、スコットランド国内では、徐々にカルヴァン派の新教徒プレスビテリアン長老派)も増えつつあった。スコットの宗教改革社ジョン=ノックス(1505-72)によって、司祭を置かない、信徒の長老と牧師で教会を推進する長老教会主義を主張し、やがて1560年にはスコットランド国教会を成立させていく。カトリックと、イングランド国教会双方とは一線を画し、対立を深めた長老派は、これを機に信者を増やした。

 1542年、ジェームズ5世が没し、その後継として選ばれたのが、生後6日目を迎えた、王娘のメアリ=ステュアート(1542-87)だった(位1542-67)。メアリはフランスに赴いて、スコット国内は皇太后が摂政となり統治した。メアリは1548年、フランス皇太子フランソワ(1544-60)と婚約、10年間フランス宮廷で養育され、カトリック教義も身に付けた。美貌に恵まれ、文芸・芸術のみならず数々の語学力に長けた才女であった。1558年(17歳)、遂に結婚し、翌年皇太子はフランソワ2世(位1559-60)としてフランス王位に就き、メアリ=ステュアートはフランス王妃を兼ね、順調に向かうものとされた。
 しかし、メアリに最初の不運が起こった。フランソワ2世の早世である(1560)。メアリはフランスを離れることを決意して翌61年、スコットに帰国し、同国を統治することとなった。帰国したメアリが見たものは、スコットランド国教会だった。メアリは祖国復帰を歓迎されるどころか、カトリック女王として批判された。

 この間、イングランド・テューダー朝(1485-1603)では、メアリ1世(位1553-58)の治世となった。メアリ1世はヘンリー8世(位1509-47)と最初の王妃キャサリン=オブ=アラゴン(カザリン。1485-1536)との間に生まれたが、男子を産まないキャサリンとの離婚を強行して、ローマ教皇と訣別、イングランド国教会の設立という経緯の中で、メアリ1世は冷遇され、1534年、王位継承法により庶子と宣言されたことがあった。王位継承権を回復してからは、旧教派救済とローマ教皇との関係回復を目指した。1553年メアリ1世として王位に就き、カトリック教会を復活させ、旧教国スペインの皇太子フェリペ(のちのフェリペ2世)と結婚、徹底的に国教徒を弾圧・処刑していった("ブラッディ・メアリ"・"血のメアリ")。このため、スコットランドでは、イングランドの宗教問題に乗じて、スコット国内の非カトリック派に対して懐柔策を行い、イングランド国教徒の保護をはかり、イングランドの国力弱体化を望んだ。
 ところが1558年メアリ1世が没し、エリザベス1世がイングランド国王として即位した(位1558-1603)。エリザベス1世はイングランド国教会の確立を目指しており、1559年統一法を発してカトリック教会を再び廃し、イングランド国教会を保護し始めた。これによりスコットランドは、懐柔策を捨て、新教徒弾圧に転じた。メアリ=ステュアートはそうした中での祖国復帰だったわけである。

 その後も、メアリ=ステュアートは新教徒の反発を受けながらもカトリック政策を強行し、1565年、テューダー朝の創始者ヘンリー7世(位1485-1509)の曾孫ダーンリー卿と結婚した。ダーンリー卿は熱心なカトリック教徒で、この結婚により新教貴族の反乱を招いたが、その後反乱は鎮圧された。しかし、メアリは妊娠中にもかかわらず、性格上の不一致などからダーンリー卿との愛情が急速に冷め始めていった。その後、メアリは男子ジェームズ(1566-1625)を産んだ。
 1567年、スコットランドの都エディンバラで、ダーンリー卿が暗殺された。これと同時、メアリ=ステュアートは、熱愛したボズウェル伯との結婚を強行した。ボズウェル伯は新教派だったが、反イングランド国教派であった。また彼は、ダーンリー卿暗殺の首謀者であり、メアリ=ステュアートとの共謀とも噂され、カトリック教徒のみならず、新教派からも猛反発を受けた。結婚して1ヶ月を経ずして結婚反対派貴族の反乱が起き、メアリは王位を剥奪、幽閉され、ボズウェル伯は国外亡命となった。

 メアリ廃位にともない、1568年、子のジェームズがジェームズ6世(位1567-1625)として、1歳でスコットランド王として即位したが、宮廷ではジェームズ6世に対して、非カトリックの教育が進められていった。
 同年、メアリ=ステュアートは幽閉先から脱走し反逆に出るが、失敗してイングランドに逃亡し、イングランド女王・エリザベス1世に保護を求めた。しかし、メアリは女王としてのプライドを捨てられず、元夫ダーンリー卿がヘンリ7世の曾孫であることから、テューダー朝の王位継承権を主張したことによりエリザベス1世の怒りを買い、19年間の終身禁固を余儀なくされ、各地を転々とした。

 監禁されている間、メアリは自身の解放を実現すべくエリザベス暗殺計画の陰謀をめぐらして告発された。1572年、議会が招集され、処刑が要求されたが、エリザベス1世の拒否で一度は免れたものの、1587年、イングランド国内のカトリック教徒が、カトリック国スペインと共謀してメアリ=ステュアートの擁立とエリザベス1世暗殺を企てたとして、メアリ=ステュアートも連座したとの疑いを受け、反逆罪として斬首された。数奇な運命を辿ったメアリ=ステュアートは、遂に45年の生涯を終えたのである。

 独身を通したエリザベス1世は、1603年没した。これによりテューダー朝は断絶し、ヘンリー7世の血を引くジェームズ6世が、イングランドに呼ばれ、ジェームズ1世としてイングランド国王となった(位1603-25)。イングランドにおける第一次ステュアート朝が開基されたのである。王権神授説を熱く語って議会を無視し、国教会の統一を重視していくことによって、カトリックのみならず新教徒カルヴァン派のピューリタン(清教徒)も圧迫されていく。圧迫されたピューリタンの逆襲は子チャールズ1世(位1625-49)に降りかかっていき、チャールズは処刑されて清教徒革命(1642-49)となっていくのである。こうしてメアリ=ステュアートの子孫は、舞台がスコットランドからイングランドに移っても、彼女と同様に多くの反発者と対峙する、波瀾に満ちた生涯を強いられていったのであった。

 イギリス絶対王政下でのお話は宗教改革と6人の王妃以来となります。今回はスコットランドでのお話も含むため、これらを大別するために"イギリス"を"イングランド"と、厳密に称しました。

 実際、高校世界史では、スコットランドを含む事項は本編紹介よりも後の時代で登場します。3つだけ覚えてください。まず1つ目。チャールズ1世がスコットランドにイングランド国教会を強制しようとしてスコットランドの長老派の反発を受け、1639年に反乱が起きました。このスコットランドの反乱によって国費を散財し、軍事費捻出のため、議会との闘争から発展して清教徒革命がもたらされることになります。
 2つ目は革命達成後、議会派のオリヴァー=クロムウェル(1599-1658)が1649年、アイルランドに続いてスコットランドを征服しています(スコットランド征服)。ここでのポイントは、征服内容の特徴にあります。アイルランド征服はカトリック系が多く、征服地をイングランド人で分けて、アイルランド人はイングランド人不在地主の小作人にされるなど、残忍な統治を行ったため、のちのアイルランド問題の起源となりましたが、スコット征服に関しては、クロムウェル軍と協力して王党派と戦ったことで、アイルランドよりは優しく征服したことが重要でしょう。
 最後の3つ目は、本編でも登場した大ブリテン王国誕生によって同君連合から合併に変わったことです。1707年のお話でアン女王の時代です。スコットランドはこれだけ覚えておけばいいでしょう。

 さて、今回の主役はメアリ=ステュアートです。エリザベス1世やジェームズ6世の分野で登場することが多く、旧課程でも多めの頻度数で載っていましたが、新課程では彼女の項が見あたりませんので、おそらく入試では出題されないと思います。でもイギリス史では重要人物に値しますので、知っておいた方が良いかもしれませんね。スコットランド女王名を答えさせる問題があれば、十中八九メアリ=ステュアートだと思っておけば大丈夫です。"女王"でなければ、ジェームズ6世(イングランド王ジェームズ1世)の可能性がありますが...
 彼女は全生涯の半分近くが軟禁生活でしたが、父の顔も知らず、フランスで、幼いゆえまだ自分で何も決められなかった頃から旧教徒教育を受け、カトリック信者となった事が、そもそもの悲運のはじまりだと思います。その後宗教問題をはじめとする国内外での複雑な情勢と絡んで、難しい統治を迫られ、恋愛も国王という立場から上手くいかず、最後には死ぬ運命まで定められるという本当に悲惨な人生でした。持って生まれた運というのは、恐ろしいものです。

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