世界史の目−Vol.48−

十字軍・前編

 1054年以降、キリスト教会は、コンスタンティノープル総主教がローマ教皇庁と訣別し、ローマ=カトリック教会ギリシア正教会とに分裂した。そもそもローマ帝国は330年にコンスタンティノープル(当時の名はビザンティウム)へ遷都し、392年にテオドシウス帝(位379-395)の時代に国教化され、以降カトリック教会はローマコンスタンティノープルアンティオキアイェルサレムアレクサンドリア五本山が有力であった。しかしローマ帝国はテオドシウス帝の死後東西に分裂、さらに西ローマ帝国滅亡(476)に際し、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国ビザンツ帝国。395-1453)では、コンスタンティノープル総主教は、ビザンツ皇帝を後ろ盾に、ローマ教会の首位性を否定し、コンスタンティノープルでの教会発展を推進していった。こうして、西のローマ=カトリック教会と東のギリシア正教会は対立の方向を深め、互いにその首位性を主張し始めるようになった。布教者増大にむけて聖像崇拝を容認したローマ=カトリック教会に対し、皇帝の中央集権力を強めていたビザンツ帝国では、ギリシア正教会において聖像崇拝を禁止していたが、これはビザンツ皇帝レオン3世(位717-741)が726年に発布した聖像崇拝禁止令によるもので、東西教会の対立を決定的とした。

 西ヨーロッパでは封建社会が成立していき、また修道士の必死の布教によって、ローマ=カトリック教会は、国王や諸侯から土地の寄進を受けるなどして、徐々に勢力が増大し、教皇・大司教・司教・司祭・修道院長というヒエラルキー(聖職階層)も成立していった。基本的には政教分離形態で、ビザンツ帝国のように、皇帝が教会を支配下におく政教一致の皇帝教皇主義とは異なったが、農奴から十分の一税を負担させるなど財政にも着手する一面も見られた。このようにローマ=カトリック教会は、ローマ教皇を中心に権威を高めていった。
 しかし、ドイツ皇帝とローマ教皇が聖職叙任権で闘争が起こり、皇帝と教皇が対立したが、1077年のカノッサの屈辱事件によって、教皇権はキリスト教国の皇帝・国王の権威を凌ぐ形となった。それ以来、ローマ教皇は、引き続き教皇権の絶対的な確立へむけて、東方・ビザンツ帝国におけるギリシア正教会の首長・コンスタンティノープル総主教を抑えて正教会を統合することを目指した。

 11世紀、ローマ教会の発展に伴って、聖地巡礼ローマイェルサレムサンティアゴ=デ=コンポステラの"三大巡礼地"を中心に、次第に増加の傾向を辿った。特に十二使徒ヤコブの墓があるとされたサンティアゴ=デ=コンポステラはイベリア半島西北端に位置するガリシア地方の都市だが、イベリア半島は、711年、トレドを都に持つゲルマン国家・西ゴート王国(415-711)がイスラム国家・ウマイヤ朝(661-750)に滅ぼされて以降、イスラム勢力が増大し、後ウマイヤ朝時代(756-1031)でもスペイン南部のコルドバでイスラム文化が栄えた。11世紀半ばになると、北アフリカの原住民ベルベル人ムーア人。主にハム・ネグロ・セム系の混血)が急激にイスラム化し、マグリブ地方(現モロッコ・アルジェリア・チュニジア)のマラケシュに都を定めたムラービト朝(1056-1147)、ついでムワッヒド朝(1130-1269)を建設し、イベリア半島にも進出してきた。
 しかし、半島北部のキリスト教徒らによる国土回復運動レコンキスタ)が活発化して、カスティリャ王国(1035-1479)やアラゴン王国(1035-1137)といったキリスト教国が誕生し、イスラム勢力を駆逐していった。こうした中で行われたサンティアゴ=デ=コンポステラへの巡礼熱は高まりをみせた。

 さて、中央アジアに目を向けると、10世紀、遊牧民族トルコ人がイスラム化し、マムルークと呼ばれるトルコ人奴隷兵を親衛隊として組織していた。そしてイラン東部ホラサーンでトゥグリル=ベク(995-1063)がセルジューク族を率いて自立、1038年、スンナ派のセルジューク朝をおこした(1038-1194)。トゥグリル=ベクは1055年に穏健シーア派イラン人の軍事政権・ブワイフ朝(932-1062)に迫った。ブワイフ朝は946年のバグダード入城後、それを都に持つカリフ国アッバース朝(750-1258)に迫って"大将軍"(アミール=アル=ウマラー)の称号を受け、イスラム法施行権を掌握した。トゥグリル=ベクはセルジューク軍を率いてそのブワイフ朝を駆逐(1055)、バグダードに入城して、アッバース朝カリフより称号・スルタン("支配者")を授けられ、初代スルタンとなった。教権保持者カリフによる神権政治は衰退し、スンナ派国家君主スルタンのイスラム世俗的支配による統治が始まり、セルジューク時代が到来した。

 第2代スルタンのアルプ=アルスラーン(位1063-72)は、宰相ニザーム=アルムルク(任1063-1092)と共に国家体制を整えた。そして1071年、遂にセルジューク朝とビザンツ帝国が、小アジアのマンジケルト(マラーズギルド)で激戦を交わした(マンジケルトの戦い)。戦力はビザンツ軍には及ばないものの、マムルーク隊の活躍でビザンツ帝国ドゥカス朝(1059-81)皇帝・ロマノス4世(ディオゲネス帝。位1068-71)を捕虜、小アジアのニケーアを都として分国ルーム=セルジューク朝(1077-1308)をおこした。またエジプトにカイロを建設した過激シーア派(イスマーイール派)のカリフ国ファーティマ朝(909-1171)からシリアとパレスチナを獲得し、同年イェルサレムを領有した。セルジューク領イェルサレムはファーティマ朝総督治下のもとで管理され、第3代スルタン・マリク=シャー(位1055-92)の時代、セルジューク朝は安定した全盛期を迎える。

 イェルサレムはユダヤ教の聖地でもあり、イエス=キリスト(B.C.7/B.C.4?-B.C.30?)が同地郊外のゴルゴダで十字架刑に処され、3日後に復活したとされることから、キリスト教の聖地でもあった。それにイスラム教聖地(イェルサレムは、メッカ・メディナに次ぐ第3のイスラム聖地とされる)として加わり、三つの一神教の都として同地では混乱が続いた。キリスト教徒のイェルサレム巡礼熱が高まり行く中、イスラム教徒による巡礼者の迫害は増え続けた。特にファーティマ朝のカリフ・ハーキム(位996-1021)の時代、迫害は激化していた。
 ルーム=セルジューク朝の誕生によって危機をつのらせたビザンツ帝国・コムネノス朝(1081-1185)のアレクシオス1世(位1081-1118)は、1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世(位1088-99)へ、イェルサレム巡礼者迫害を織り込んだ内容を含む、セルジューク朝のキリスト教世界への進攻による危機的状況を、書簡にして送った。

 アレクシオス1世より書簡を受け取ったウルバヌス2世は、聖職叙任権を皇帝と争っているさなか、教皇の権威絶対化が確立できるのと同時に、ビザンツ帝国のギリシア正教会を吸収して東西教会を統一させる絶好の機会とみなし、同1095年、フランス中部のクレルモンにて教会会議を召集した(クレルモン公会議。1095.11.17-11.27)。ウルバヌス2世は、教会改革案を議題としてあげていき、閉会終了日、東方教会や聖地イェルサレムが異教徒により苦しめられており、団結して聖地を奪回することを発表、さらに、これらはすべて神の指導によるものであり、「神の兵士」として、正義のためにためらわず戦うことを協力すれば、これまでの罪は許され、莫大なご褒美が期待できると告げ、会議参加者は"神、それを欲したまう"と叫んだという。
 教皇ウルバヌス2世は各国に使節を派遣して、免罪の贖宥特権の付与を約束して、軍を集めた。神の兵士の証拠に、集まった軍人は十字架の印を与えられた。こうして教皇の提唱により、聖地イェルサレム奪回を目的とする大遠征軍が組織され、十字軍(Crusades)が結成されたのである。ただ、アレクシオス1世の目的はセルジューク朝戦に対する援軍補充であり、聖地奪回ではなかった。ウルバヌス2世の演説には"東方の豊かさ"を強調したこともあり、志願兵の中では、領土拡大・財貨獲得の欲求もあったとされる。指揮官ボエモンもその1人であり、封建制度下の植民精神のあらわれであった。

 時のドイツ・ザリエル朝(フランケン朝。1024-1125)の国王はカノッサの屈辱を味わったハインリヒ4世(位1056-1106。神聖ローマ皇帝在位1084-1106)であり、再度の破門中であった。さらにフランス・カペー朝(987-1328)の国王フィリップ1世(位1060-1108)、イギリス・ノルマン朝(1066-1154)の国王ウィリアム2世(位1087-1100)も破門中であったため、結成当時は、フランスとドイツの諸侯や騎士が中心であった。またフランス・アミアンの修道士ピエール("隠者のピエール"。1050-1115)も大量の農民や下層市民らを集め、正規の十字軍とは別に民衆十字軍を結成した(1096-97)。これにて、翌1096年8月、第1回十字軍(1096-99)の遠征が、フランス諸侯・ロレーヌ伯のゴドフロワ=ド=ブイヨン(1061?-1100)を先鋒として始まった。

 遠征は陸路東進の方針で行われた。コンスタンティノープルに結集後、ビザンツ軍と小アジアを渡ってニケーアを都とするルーム=セルジューク朝軍と戦った。十字軍はニケーアを占領し、ルーム=セルジューク朝はイコニオン(現・コンヤ)に退いた。一方ピエール率いる民衆十字軍は数万の軍勢ながらも、軍力に乏しかったがためにセルジューク軍に一掃され、ピエール以外は全滅し、その後ピエールのみ帰還した。
 シリアに進出した十字軍は、かつてのセレウコス朝(B.C.312?-B.C.63)の首都であり、教会五本山の1つであるアンティオキアにおいて、ボエモン率いる部隊が略奪や殺戮が行われ、多数の同地住民が殺害された。アンティオキア侯領(1098-1268)建国後、その北西にはエデッサ伯領(1098-1146)も建国され、ここで早くも聖地奪回の目的とかけ離れ始めていた(また1102年にはアンティオキア侯領の真南にトリポリ伯領も成立させている)。1099年、さらに南下した十字軍はイェルサレムに進出、7月に占領した。聖地奪回直後、ローマ教皇ウルバヌス2世は没した。

 十字軍は民族の浄化を理由に、現地にいる大量のユダヤ人やイスラム教徒らが、老婦女や子ども問わず暴行・虐殺された。聖地回復後、ゴドフロワ=デ=ブイヨンを国王とするイェルサレム王国が誕生したが(1099-1291)、ゴドフロワは初代国王に推されたものの、"聖墓守護者"とのみ称し、ゴドフロワは翌1100年、イェルサレム南部・アスカロンの戦いで陣没、事実上ゴドフロワの弟が後継者となり、国王の称号を持った。イェルサレム王国では、聖地巡礼を保護・防衛のために騎士と修道士を兼ねた騎士修道会(宗教騎士団)が組織され、テンプル騎士団聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)、後にはドイツ騎士団が誕生した(三大宗教騎士団)。

 もともと独仏両諸侯間には出発当初から対立があり、十字軍とビザンツ軍との間にも相互の不信感があったために、遠征者の多くは王国に残らず、帰途についた。このために残留した諸侯や騎士、封土を与えられた平民の数は少なく、軍事力・生産力の欠乏に悩まされ、アンティオキア侯領・エデッサ伯領・トリポリ伯領を有しても"十字軍国家"は物足りなく、内部対立は少なくなかった。こうした中、仲間を殺され、領土を奪われたイスラム軍の報復が始まる。

 十字軍の登場です。十字軍の歴史はおよそ200年ほどですが、西欧・東欧・西アジアと舞台が広域に渡っていること、キリスト教世界とイスラム世界の情勢を見る必要があること、さらにはローマ教皇とキリスト教国王・皇帝との関係も含まれることなどからお分かりのように、非常に内容の濃い分野のため、Vol.14-16のフランス革命以来、久々に2部構成でご紹介します。

 11世紀から12世紀にかけて、ヨーロッパは激動の時代となりました。封建制度下の西ヨーロッパでは、鉄製の重量有輪犂(すき)による牛馬耕などの普及によって生産量が高まりました。これによって人口も増加し、外へ向かっての行動が、干拓や植民の傾向となってあらわれます。ドイツのエルベ川以東のスラヴ系居住地への植民(東方植民)や、オランダの干拓(地理分野に登場する"ポルダー"の始まり)、アルプス耕地の開墾、フランスのシトー派修道会の大開墾などがその例です(大開墾運動)。またレコンキスタや巡礼の増加などもこうした運動と相まって起こっており、こうした激動の時代の極めつけとなったのが十字軍でした。

 実は十字軍の登場は後世のルネサンス到来に大きな意味を持っています。これは後編でもお話ししますが、それだけに十字軍は歴史的にも大きな意味を持っているのですね。

 さて、今回の学習ポイントをお話ししましょう。まず、ローマ=カトリック教会とギリシア正教会との対立についてですが、これは西ヨーロッパとビザンツ帝国との違いを理解することに等しいですので、整理してみましょう。
 西ヨーロッパは@封建国家Aローマ教皇を中心とするローマ=カトリック教会B政教分離C公用語はラテン語Dピサ大聖堂に代表されるロマネスク式建築11-12C。半円筒アーチ。重厚・荘重)と、ケルン大聖堂(独)やノートルダム大聖堂(仏)などといったゴシック式建築13-14C。大窓・尖塔ステンドグラス)E荘園を中心とする自給自足の自然経済
 一方のビザンツ帝国は@中央集権国家(軍管区制・屯田制)Aコンスタンティノープル総主教を中心とするギリシア正教会B政教一致の皇帝教皇主義C公用語はギリシア語Dセント=ソフィア大聖堂に代表されるビザンツ式建築円屋根モザイク)E貨幣経済

 今回はイスラム世界が数多く出てきました。アッバース朝以降の内容は"歴史のお勉強"ではまだ登場していませんでしたので、軽く触れてみましょう。アッバース朝(750-1258)・後ウマイヤ朝(756-1031)・ファーティマ朝(909-1171)の3国の君主は、全員カリフの称号を用いて対立しました(「カリフ」についてはVol.3正統カリフ時代を参照)。このためイスラム世界の分裂を促し、カリフの権限は縮小していきます。本編に登場したブワイフ朝の"大将軍(大アミール)"取得によって、アッバース朝は衰退していき、セルジューク朝に与えた称号"スルタン"によってカリフの権力はいっきに低下しました。余談ですがセルジューク朝の誕生年1038年は、タングート族の西夏の建国と同年(1038-1227)であることにも注目しておきましょう。
 アッバース朝全盛期のカリフはハールーン=アッラシード(位786-809)で、首都はバグダード。後ウマイヤ朝全盛期のカリフはアブド=アッラフマーン3世(位912-961)で、首都はコルドバ。ファーティマ朝に関しては全盛期のカリフは覚えなくて良いのですが(ムイッズ。位953-975)、首都カイロは絶対に覚えておきましょう。ファーティマ朝は過激シーア派、別称イスマーイール派の名前も知っておいた方が良いでしょう。

 セルジューク朝については、スンナ派であること、スルタンの称号を授かったこと、マリク=シャー時代が全盛期であること、本編に触れなかったものでは、イスラム式封建社会を形成するイクター制を導入したこと、ニザーム=アルムルク宰相がスンナ派学問所であるニザーミ−ヤ学院を創設したことなども知っておきましょう。

 十字軍のポイントは後編で説明させていただきます。さて、その後編ですが、聖地奪回に成功したものの、イスラム勢力の反撃にあい、第2回、第3回と十字軍が遠征します。遠征を重ねる内に宗教的価値観に大きな変化が起こって純粋な理想が失われ....中世最大のローマ教皇インノケンティウス3世、英国王リチャード獅子心王、イスラムの名君サラディンなどといった人物が登場します。続きは後編で、では今回はこれにて。

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