世界史の目-Vol.55-

ある忠臣の憂国詩

 古代中国の春秋時代(B.C.770-B.C.403)では、有力な諸侯が尊王攘夷によって、(しゅう。B.C.11C-B.C.256)の王室を維持させて大陸制覇を目指していた。しかし、王室の衰退にあわせて各諸侯は自身の勢力拡大に目覚めていき、結局は王室の権限を利用しながら、実際には他諸侯との覇権争いに転じていった。斉(せい。B.C.386-B.C.221)・宋(そう。?-B.C.286)・晋(しん。?-B.C.376)・魯(ろ。?-B.C.249)といった諸侯が黄河中下流域の中原(ちゅうげん)に割拠し、西方には秦(しん。B.C.8C-B.C.206)、北方には燕(えん。?-B.C.222)、南方の長江中流には(そ。?-B.C.223)、下流には呉(ご。?-B.C.473)や越(えつ。?-B.C.334)が勃興していたが、B.C.403年、晋に内紛が起こって韓(かん。B.C.403-B.C.230)・魏(B.C.403-B.C.225)・趙(ちょう。B.C.403-B.C.222)の3国に分割すると、下剋上による戦乱が激化、戦国時代(B.C.403-B.C.221)となり、諸侯も王を自称した。やがて、のいわゆる戦国の七雄が勝ち残り、王室を授かる周は洛邑(らくゆう。現・洛陽。らくよう)という繁都をもちながらも、結果諸侯以下の小国に成り下がってしまっていた。そしてB.C.350年頃、七雄の中から秦が勢力を上げ、秦の君主孝公(こうこう。位B.C.361-B.C.338)のもとで、首都を咸陽(かんよう。渭水北岸。いすい)に遷都して富国強兵を目指し、強大化していく。

 秦の強大化に対応するため、他の6国も軍国体制をしいて、対立はますます激化した。戦国時代には、縦横家(しょうおうか。じゅうおうか)と呼ばれる諸子百家の1学派がいて、巧みな話術・遊説と大きな野心を持って諸国の為政者に取り入った政略家・謀略家が出た。これは『戦国策』に記録されている。洛邑出身の縦横家蘇秦(そしん。?-B.C.317?)は、最初秦に赴いて遊説を行ったが受け入れられず、その後他の6国へ向かい、6国の同盟を結成して秦に立ち向かうべきとする合従策(がっしょうさく)を説くと、趙の王に認められ、一時は6国の宰相に任じられた。前漢(B.C.202-A.D.8)の歴史家司馬遷(しばせん。B.C.145?-B.C.86?)が完成させた紀伝体作品『史記』の『蘇秦列伝』には、「臣聞く、鄙諺(ひげん)に曰く、寧ろ鶏口(けいこう)と為るも牛後(ぎゅうご)となる無かれ」とあり、強国である秦に付き従うより、6国がたとえ小さくても頭となるべきだと蘇秦は説いている。
 しかし、魏からでた張儀(ちょうぎ。?-B.C.310/B.C.309。魏出身)という縦横家は、各国が単独で秦と同盟(和睦)する連衡策(れんこうさく)を説き、蘇秦の合従策を破って、張儀は秦の恵文王(けいぶんおう。位B.C.338-B.C.311。孝公の子。初の王号使用)の信頼を受けた。一方の蘇秦は、その後、斉により暗殺されている(実はこの史実は疑わしく、蘇秦は張儀よりも後にでてきた人物で、斉の湣王(びんおう。B.C.300-B.C.283)に仕えて隣国の燕や宋などを征服する外交をたてた人物ではないかという説もある。しかしいずれにしろ、当時の諸子百家が生まれる世から考えてみても合従策を説いた人物がいたことは確かである)。

 張儀は秦に取り入れられるまでの諸国遊説の間、で宰相の財宝を盗んだとして鞭打ちの刑に処されたことがあった。無実の罪に着せられた張儀は"舌さえあれば大丈夫"と豪語したことで知られる、まさに弁舌の謀略家であった。その楚という国であるが、他の諸侯、特に中原の諸侯とは風俗・言語を異にしていた。また周という王室がありながら、早くから王号を使用しているのも特徴である。楚の懐王(かいおう。位B.C.329-B.C.299)の時代、張儀の連衡策は、楚にも伝わってきた。国内の王室では、連衡策を説く親秦派と、合従策を説く親斉派に分かれて対立していたが、その中で、新斉派を強く主張していた人物がいた。楚の王族で、屈の姓を持つ一族からでた屈原(くつげん。B.C.343?-B.C.277.5.5?)という政治家である。

 屈原は博識で文筆にも長けていた人物であり、政治能力も他臣より優れていたとされ、諸侯との外交、また内政では法令原稿の作成に活躍、とりわけ懐王より厚い信任を得ていた優秀な忠臣であった。このため、彼の才能を嫉妬する親秦派の同僚もいた。同僚は、屈原の作成した法令原稿に関して、屈原が同僚に作成した起草文を、無能な他者には作れまいと自慢していると懐王に告げ口をしたことで、屈原は懐王の怒りを買い、信任を失って失脚させられた。
 この頃、秦は張儀を楚に送り、親秦の連衡策を薦めた。親斉派の第一人者屈原の失脚後、親秦派にかたむいた懐王は、斉と断交することを宣言した。これに対し屈原は、秦は"虎狼(ころう)"のごとく、貪欲で残忍にほかならない国であるから信用できないと、必死に懐王に説得したが、受け入れられなかった。B.C.313年、屈原の必死の進言もむなしく、懐王は張儀の謀略にあい、秦へ怒りの進軍を実行したが、敵地深く攻め入ったことが災いして敗北を喫し、国力は減退した。

 懐王は屈原の進言に反したことを悔やみ、再び屈原を家臣に任じて斉との和睦をはかろうとした。一方の秦では、B.C.311年に恵文王が没したため張儀も失脚し、祖国の魏に逃れてすぐ没したことで、懐王の子である親秦派・子蘭(しらん)は秦側から求めてきた会盟に応じるべきだと父王に勧告した。屈原は懐王が再度秦に赴くことを抑止しようと、必死に説得にあたったが、これを振り払った懐王は、秦に赴いた。しかしこれも謀略であり、幽閉された懐王はB.C.296年、秦で客死した。屈原の著した叙情・叙事詩の大作『離騒(りそう)』では、憂愁に満ちた心情で君主や国のことを歌い上げている。懐王を敵国から救済してわが王室に帰したい気持がありながらも、忠臣と不忠の臣を見分けることのできない暗君(あんくん。判断ミスで国力を減退させるなど暗愚な君主)をどうすることもできなかった。屈原は子蘭を非常に憎んだが、B.C.298年、楚では新たに立てられた太子が頃襄王(けいじょうおう)として王位に就いた。宰相に任じたのは、最も信任した親秦派の子蘭であった。子蘭は、邪魔である屈原を陥れるため、頃襄王に讒言した。怒った王は屈原を江南に追放する(B.C.286)。以前、屈原は同僚によって讒言され、懐王によって退けられたが、今回は形式は同じくも、状況・心境は全く異なるものとなっていた。

 財産・地位すべてを失った屈原は、湘江(しょうこう。湘水。シャン川。湖南省の川)の畔を歩いていた。そこで1人の漁師と出会い、会話が交わされた。屈原は"世を挙げて皆濁れるに、我ひとり清めり。世を挙げて皆酔へるに、我ひとり醒めたり"と、儒家的思想による屈原自身の孤高さを保ちながら国を治めようとする言葉に対し、"知恵の光を和らげ隠して俗世間に交われ"と漁師は道家的思想で教え説く。これまでと今後の生き方を漁師から責められたが、屈原は潔白な身体に汚いものを身に付けることはできないと言い、そうするくらいなら"寧ろ湘流に赴きて、江魚(こうぎょ)の腹中に葬られん(いっそ湘江の流れに身を投じて、江魚の腹中に葬られよう。「魚腹(ぎょふく)に葬らる」の故事。水死の意)"と言って水中に身を投じて魚の餌になることを決意、汨羅江(べきらこう。湖南省北東部に流れる川)から身を投じて入水自殺した(B.C.277?/B.C.288?/B.C.290?)。この日は5月5日とされているが、後の人々は屈原を弔うため、毎年5月5日に、竹筒に餅米を入れて川に投じるようになった。しかし、いつの日か三閭太夫(さんりょたいふ。屈原が政界にいた時の役職)を名乗る男が現れて、「毎年祭ってくれるのはありがたいが、投げた食物は蛟竜(みずち。蛇の妖怪)がみな盗んでしまうので、今後は蛟竜の怖がる楝(おうち。栴檀(せんだん)の古名の落葉高木。樹皮は駆虫剤となる。別称アミノキ)の葉で包み、糸でくくって投げてほしい」と言った。この三閭太夫を名乗る男は屈原の霊ともされているが、これ以降、人々はこの言葉に従って餅米を楝でくるみ、川に投じた。これが、粽(ちまき)の由来で、端午(たんご)の節句の風習として残っているのである。

 その後楚は、B.C.278年、都であった郢(えい。湖北省)を秦に陥落させられ、その後も各地に遷都を続けるもB.C.223年、遂に秦によって滅ぼされてしまう。屈原の『離騒』、そして漁師との対話を交わした件(くだり)は『漁父の辞』として残され、これらをまとめたのが、揚子江域文学の祖とされる『楚辞(そじ)』である。屈原の他、彼の弟子である文学者の宋玉(そうぎょく。B.C.290-B.C.223)の作品や、漢代の数家のものも含まれ、前漢末の学者劉向(りゅうきょう。B.C.77?-B.C.6)が編集した。『楚辞』は中国最古の詩集とされる『詩経(しきょう)』の黄河域文学とともに、古代中国の辞賦文学の代表とされている。

 秦は、周と、楚を含む6国を次々と討ち破り、秦王(せい。位B.C.247-B.C.210)の時であるB.C.221年、中国史上初めて、天下を統一した(中国統一)。諸王の王となった政は、"光り輝く(皇)、天の支配者(帝)"、を表す"皇帝"の称号を用い、始皇帝(B.C.221-B.C.210)となった。これ以降、皇帝を中心とする中央集権体制王朝が展開されていくのである。

 今回の世界史は、久々の中国古代史です。実は今回、春秋・戦国時代とその頃活躍した、孔子を中心とする諸子百家にスポットをあてようとも思ったのですが、私が高校時代に愛用していた『国語便覧』を最近読んでいましたら、『楚辞』のことが記載されており、気になって急にこれを取り上げたくなりました。

 楚が台頭してきたのは春秋の五覇の1人とされた荘王(そうおう。位B.C.613-B.C.591)が出てきた頃からですが、B.C.606年、異民族を討って洛邑に入り、周の定王(ていおう)の使者王孫満(おうそんまん)に兵威を示してねぎらいを受けました。このとき、夏王朝(か)の時代から長きにわたって王室に伝わる宝器である9つの鼎(かなえ。3足の容器)の大きさや重さを尋ねて、名目上の統治者である周王の権威を軽んじた。この故事にもとづいて「鼎の軽重を問う(かなえのけいちょうをとう)」という言葉が生まれました(『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』)。このように楚の国から出た名言は数多く残されているのですね。
 ちなみに春秋の五覇とは、春秋時代に、夷狄(いてき。異民族)を退けて周の王室を守り(尊王攘夷)、諸侯の同盟を指導した5人の覇者(はしゃ)で、うち2者は斉の君主・桓公(かんこう。位B.C.685-B.C.643)・晋の君主・文公(ぶんこう。位B.C.636-B.C.628)とされているが、残りは、前述の楚の荘王をはじめ、呉の王・闔閭(こうりょ。位B.C.514-B.C496.)、その子の夫差(ふさ。位B.C.495-B.C.473)、越の王・勾践(こうせん。位B.C.496-B.C.465。夫差との合戦は"臥薪嘗胆"の故事で有名)、宋の君主・襄公(じょうこう。位B.C.659-B.C.637)、秦の君主・穆公(ぼくこう。位B.C.659-B.C.621)からの3人とされていて、まだ確定には至っていません。ただ入試には、春秋五覇の事項はよく出ますので、全員の名前は知っておいた方が良いでしょう。

 楚に登場する人物と言えば、屈原以外にも秦末にでた項羽(こうう。B.C.232-B.C.202)が有名です。B.C.202年、項羽が後に前漢の初代皇帝となる劉邦(りゅうほう。高祖。B.C.247-B.C.195)と戦乱を交えた時、垓下(がいか。安徽省霊璧県南東)で劉邦の漢軍に包囲され、四方の漢軍の中から故郷の楚の歌声が上がり、楚が漢に降伏したことに絶望した故事から生まれた"四面楚歌"もよく知られています。項羽の愛姫である虞姫(ぐき。虞美人。?-B.C.202)のお話も有名ですね。

 お待たせしました。今回の学習ポイントです。戦国の七雄は呪文のように斉楚秦燕韓魏趙(せいそしんえんかんぎちょう~♪)と何度も繰り返して覚えておきましょう。この時代は、牛耕農法鉄製農具が普及しました。商業では貝貨(ばいか。子安貝を使用)とともに青銅貨幣が流通した時代でもあります。刀銭(とうせん)は燕と斉で、布銭(ふせん)は晋および趙・魏・韓で、まるい環銭(かんせん)は魏で用いられました。また今回の主役の楚は、昆虫のアリ(蟻)の鼻に似ている(?)と言われます蟻鼻銭(ぎびせん)が使われました。蟻の鼻といっても、楕円形の銭貨ですけどね。
 本編で覚えるところは、縦横家の蘇秦と張儀でしょう。合従連衡は必ず覚えておいて下さい。あと北方文学の『詩経』、南方文学の『楚辞』は非常に重要です。戦国時代の縦横家の謀略の言辞を国別に集録した『戦国策』も有名です。これも本編に登場した劉向の編成です。有名なことわざ"漁夫の利"は『戦国策』から来ています。

 さて、屈原ですが、入試では名前はよく見あたるのですが、残念ながら『楚辞』に詩が入っていることぐらいしか出題されません。『離騒』や『漁父の辞』、他にも『九歌』など、傑作もたくさんあるのですが。むしろ漢文・漢詩などでお目にかかることが多いと思います。ですので、世界史学習の分野では"屈原の詩は『楚辞』に収録されている"とだけ知っておいて下さい。懐王、子蘭、頃襄王といった周囲の人物は入試に登場しないに等しく、張儀や蘇秦は諸子百家の分野で登場します。

 その諸子百家ですが、本来は本編でもってとりあげるべきなのですが、とりあえずは覚えるべき事だけ載せておきます。太字は重要です。

儒家・・・五経(「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記」)。①孔子(こうし。B.C.551?-B.C.479。(ろ)の曲阜(きょくふ)出身。春秋末。)②孟子(もうし。B.C.372?-B.C.289?。性善説戦国時代)③荀子(じゅんし。B.C.298?-B.C.235?。性悪説)。
道家・・・無為自然(老荘思想。道教成立の基盤)。①老子(ろうし。B.C.579頃-B.C.499頃)②荘子(そうし。B.C.4C頃。)
法家・・・①商鞅(しょうおう。?-B.C.338。秦の孝公に仕える)②李斯(りし。?-B.C.210。秦の始皇帝に仕える)③韓非(かんび。?-B.C.233)
墨家(ぼくか)・・・兼愛説(無差別平等愛)と非攻説(戦争反対)①墨子(ぼくし。B.C.480?-B.C.390?)
陰陽家(いんようか)・・・雛衍(すうえん。B.C.305-B.C.240)
兵家(へいか)・・・①孫子(そんし。孫武(そんぶ。生没年不明)と孫臏(そんひん。生没年不明)の2人の総称)②呉子(ごし。呉起。ごき。B.C.440?-B.C.381?)
名家(めいか)・・・①公孫竜(こうそんりゅう。B.C.4C-B.C.3C?。)

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