世界史の目-Vol.56-

百年戦争・勃発への道程
~フランス王家の伸張とイギリス王の反撃~

 フランス・パリ伯のユーグ=カペー(位987-996)が開基したカペー朝987-1328)の時代では、成立当初は封建社会による支配体制は確立するも、王権が弱体なために有力諸侯の台頭を招いた。しかし7代目国王で、尊厳王フィリップ2世(位1180-1223。vol.32vol.49参照)の時代になると、中央集権化に努め、イギリスと争って王領拡大を目指し、諸侯を抑えて王権強化を図った。

 11代目国王、フィリップ4世(位1285-1314。ル=ベル。美王)は、国家統一を最初に実現、王政絶対化を目指す活動に乗り出した。王国基本法を策定して中央集権力を伸ばし、婚姻(後の英王エドワード2世(位1307-27)は、フィリップ4世の娘イザベルの婿)や相続によってシャンパーニュ、ナヴァール、フランシュ・コンテ(フランス東部)などの領土を獲得した。そして、イギリスから羊毛を輸入しているフランドル地方(仏名。蘭名はフランデレン。英名はフランダース。現ベルギー西部。9Cに伯領)、またイギリスへ葡萄酒を輸出しているイギリス領のギュイエンヌ地方(ギエンヌ。フランス南西部。中心都市はボルドー)の獲得を目指し、1302年出兵して、イギリス・プランタジネット朝1154-1399)の国王エドワード1世(位1272-1307)と争ったが、過剰な戦費負担によって財政難におちいり、結局両地方の王領化は失敗した。

 この間、財政政策の一環として、フィリップ4世は1296年、無断で聖職者・修道院への課税を強行していた。ローマ教皇ボニファティウス8世(位1294-1303)は、教会法に反したとしてフィリップ4世を激しく非難したが、折しも教皇権が衰退していた時期であり、かなわなかった。また1301年、ボニファティウス8世は、エドワード1世のスコットランド遠征に対して干渉したことで、英国議会からも非難された。さらに同年、フィリップ4世におくった使節が横柄な言動をおこしたため、国王は使節を逮捕し、教皇が抗議した教書を歪曲して発表した。フランス国民は、反教皇に向かい、国王統治下におけるナショナリズムを刺激した。国内勢力を味方につけたフィリップ4世はこれに乗じて、1302年、パリに身分制議会(聖職者・貴族・市民代表)である全国三部会を召集した。これに対し教皇ボニファティウス8世は教書「ウナム・サンクタム(唯一の聖なるもの)」で教皇の権威を主張したが、すでに三部会の支持を集めていたフィリップ4世は、1303年9月、国王顧問ギヨーム=ド=ノガレと教皇の敵対者シアナ=コロンナを使って、大軍を用いて教皇の故郷であるローマ東南のアナーニに急襲、教皇を捕囚した(アナーニ事件)。教皇は、アナーニ市民の反撃により解放され、ローマに帰還したが、教皇が国王に捕囚されたという屈辱はぬぐえず、10月憤死した。その後フィリップ4世はローマ教皇ベネディクトス11世(位1303-04)にも圧力を加えて、「ウナム・サンクタム」の撤回とアナーニ事件の赦免を認めさせた。次に選ばれたローマ教皇はボルドー大司教出身のクレメンス5世(位1305-14)で、国王と教皇との対立激化にともなう枢機卿たちの妥協的な選出となった。
 フィリップ4世の教皇への攻撃はおさまらず、教皇庁をローマからアヴィニョン(南フランス)に遷し、以後教皇はフランス出身者が7代に渡って、フランス王家の監視下に置かれ、教皇庁従事者は徐々にフランス人に染められた(1309-77)。これを古代ユダヤ民族がバビロニアに強制移住させられた故事になぞらえて、"教皇のバビロン捕囚"と呼んだ。教皇庁は1377年にローマに戻されたが、その後もアヴィニョンとローマで教皇が両立され、教会大分裂(大シスマ。1378-1417)を引き起こすなど、教皇権は完全に失墜した。フィリップ4世はこの間もユダヤ人迫害(1306)、テンプル騎士団の解散(1307-14)を決行し、騎士団領を没収した。

 フィリップ4世死後(1314)も、長子ルイ10世(偏窟王。位1314-16)、その子ジャン1世(位1316)、フィリップ4世の次子フィリップ5世(長身王。位1316-22)とカペー王家の権威は続行された。そして、フィリップ4世の第3子シャルル4世(端麗王。1322-28)が即位した。
 シャルル4世はギュイエンヌ地方をめぐって英王エドワード2世と戦ったが、1325年、エドワード2世の王妃イザベル(前述。イサベラ。シャルルの妹にあたる)が英王と不和になってフランスへ逃れた。これに乗じたシャルル4世は、1327年、イギリスに軍を送り、エドワード2世を捕らえて殺害、次のエドワード3世(位1327-77。エドワード2世とイザベラの子)から多額の賠償金を獲得した。シャルル4世は翌1328年没したが、遺子は2女のみで、後継となる男子がいなかったため、カペー王家は断絶した。これにより、フィリップ4世の弟シャルル=ド=ヴァロワに始まるヴァロワ伯家に王位を譲り、シャルル=ド=ヴァロワの息子フィリップ6世(位1328-50)がフランス王についた。ヴァロワ朝の誕生である(1328-1589)。

 一方、当時のイギリス(イングランド王国)は、1328年に独立を勝ち取ったスコットランドと抗争中であった。フィリップ6世は、これに乗じてスコットランドから亡命した国王を支持し、英領ギュイエンヌ地方を侵略、1337年、ギュイエンヌ公領の没収を宣言した。これに憤慨したエドワード3世は、対抗策に乗り出した。
 エドワード3世の母イザベラはカペー家出身である。つまり、エドワード3世はフィリップ4世の孫にあたることから、同1337年、ウェストミンスター・アビィ(教会堂)においてフランス王位継承者であることを宣言した。

 同じ頃、毛織物生産の盛んなフランドル地方で、ガン(ゲント。ヘント)市が反乱を起こし、ブリュージュ(ブリュッヘ)市など他のフランドル諸都市も加わって、同1337年フランドル伯を追放する事態が起こった。エドワード3世は、大軍を率いて大陸に上陸、その後フランドル諸市と結んで同諸都市に軍をしいた。そして、1339年、北フランスに侵入、フランスのフィリップ6世も出陣し、遂に英仏開戦となった。これが百年戦争の勃発の瞬間である(1339-1453)。戦場はすべて大陸で行われ、休戦、決戦を繰り返しながらも、戦乱は長期化していく。西欧が中世から近世へと移る過渡期における、世紀の大戦争の始まりであった。

 これまではいろんな所で百年戦争の名前を出してきましたが、ようやく本編にてメイン紹介することができました。今回は戦争が勃発するまでのイギリスとフランスの王室の状況、とくにいろいろ事件のあったフランスを中心にご紹介いたしました。フィリップ6世とエドワード3世の対立はフィリップ4世とエドワード1世時代から対立を引き継いでいますが、歴史の流れを学習するにはその時代から見ておかなければなりませんので、アナーニ事件や教皇のバビロン捕囚の話も合わせてご紹介しました。

 百年戦争の原因は、以下の4つをおさえておくと良いと思います。

①ギュイエンヌ公国の英仏間の争奪による対立
②フランドル地方の英仏間の争奪による対立
③スコットランドのフランス支持
④エドワード3世の王位継承宣言

 ③を除く①②④は穴埋め問題などに出題されるケースが多いので重要です。①②はフランス大陸に入ってきた英領をめぐる争いがメインですが、「vol.32英国議会の誕生」の学習ポイントの項でもご紹介しましたとおり、プランタジネット朝と、その前のノルマン朝では、イングランド内の領土ではフランス王と対等の国王として統治することができますが、アンジュー伯爵家領や、今回のギュイエンヌ公国など、フランス内にあるイギリスの領土ではフランス王の臣下でした。ですので、エドワード3世がフランス王位継承で立ち上がった時、これをフィリップ6世から無視されたばかりでなく、ギュイエンヌ公国でのエドワード3世はフィリップ6世の臣下を強要されていたのです。ですから余計に対立は深まりますし、イギリスにとって、公国領をフランスと完全に対等な立場でプランタジネット王家の統治下におく必要がありました。フランスにおいても大陸と地続きのため経済上有効に働き、イギリスの大陸領でのイギリス王はフランス王の臣下となるわけですから、ぜひとも必要です。そのうえギュイエンヌ・フランドル両地方が帰属すれば、羊毛・毛織物産業、葡萄酒産業など莫大な利益が見込まれます。このため両地方は争奪の的となったわけです。③においては、スコットランドはその後もイギリスと抗争を深めていきます(「vol.47メアリ=ステュアートの生涯」を参照)が、スコットランドとイングランドの争いはエドワード1世の頃から起こっていますが、この事態をフランスのフィリップ6世がうまく介入して、スコット国王を支持していきます。支持と言っても、スコット国王はフランスに亡命してフィリップ6世に救われているのですから。王位継承も無視され、スコットがフランスに依るという散々なエドワード3世は、フランスとの対立が極致に達した事態のままスコットにも手を出さなければならない状態でした。イギリス側から宣戦布告するのも無理ありませんね。
 実はこの宣戦布告ですが、高校世界史では、百年戦争の勃発年は1339年となっていますが、エドワード3世がフランス王位継承を宣言した1337年とする説、英軍がフランドルに上陸し、同地を抑えた1338年とする説があります。でも、高校で学習する場合は1339年で覚えておきましょう。

 百年戦争以外の学習ポイントでは、やはり、アナーニ事件1303)・教皇のバビロン捕囚1309-77)・教会大分裂1378-1417)の教皇関連3事件でしょう。権力が、教皇からフランス王にうつった象徴的な事件のオンパレードです。ローマ教皇では、アナーニ事件のボニファティウス8世を覚えておきましょう。余裕があれば、クレメンス5世も知っておくと便利です。
 あと、三部会ですが、全国三部会においては、計60回開かれました。1302年フィリップ4世時代の召集(1308年のテンプル騎士団解体事件の時もトゥールに召集)以外では、ルイ13世(正義王。位1610-43)の時代に、ブロワで召集された1614年に三部会でもっていったん終止符をうち、翌1615年ルイ13世は三部会召集停止宣言をおこなって三部会は解散しています。これ、非常に大事なので知っておいて下さい。これにより、フランス絶対王政は伸展していき、次の太陽王ルイ14世(位1643-1715)でフランス絶対王政の最盛期を現出するわけですからね。次に三部会が開かれるのは、そのフランス絶対王政に反対するフランス革命期で、1789年5月5日です(ヴェルサイユ)。

 さて、次回、遂に百年戦争の戦況をご紹介する時が来ます。イギリスではエドワード3世の子エドワード黒太子、ランカスター朝ヘンリ4世、ヘンリ5世、ヘンリ6世らが、フランス王では善良王ジャン2世・賢明王シャルル5世・最愛王シャルル6世・勝利王シャルル7世らがそれぞれ登場します。戦闘は激化し、それぞれの国内での情勢と絡まって、二転三転します。どちらが勝利をもたらすのか?詳しくは次回にて。

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