世界史の目-Vol.57-

百年戦争・開戦と混乱
~イギリス王朝の変遷とフランス王家・諸侯の動揺~

「百年戦争・勃発への道程」を読むにはこちら→

 1339年、遂に英仏百年戦争(1339-1453)が勃発した。イギリス・プランタジネット朝(1154-1399)のエドワード3世(位1327-77)の開戦によって、フランス・ヴァロワ朝(1328-1589)のフィリップ6世(位1328-50)と戦いを交えることになり、フランスにおける大陸を舞台に、断続的ながら110年におよぶ長い戦争となっていった。

 イギリスは1340年、フランドルのスロイス沖(現オランダ国内。ライン川河口。エクリューズ)での海戦で、フランス艦隊を破って大勝、これによりフランス軍は英仏海峡の制海権を失った。1346年、イギリス軍は再び上陸、ノルマンディ近くのクレシー(現ピカルディー地方北西)で、イギリス・エドワード3世軍は、自軍よりもはるかに大軍であるフランス・フィリップ6世の率いるジェノヴァ人傭兵中心の重装騎士隊を撃破した(クレシーの戦い)。石弓を用いた、従来の石弓隊(いしゆみたい。弩弓隊。どきゅうたい)を編成したフランス・フィリップ6世の軍隊に比べ、イギリス・エドワード3世は長弓を武器とする新しい軍隊を編成しており、翌年ドーバー海峡に臨むフランスの海港都市カレーを占領した。エドワード3世は、市民の皆殺しを要求したが、結局6人の市内著名人が人質となることで、市民の命は救われた。後に彫刻家ロダン(1840-1917)は、この事件を題材に「カレーの市民」を作製した。
 直後、フランスは黒死病ペスト)が大流行し、人口が激減した。同様にイギリスにも伝播し、英仏とも人口の約3分の1が感染死したといわれている。兵士の大量死によって、両国はローマ教皇の仲介によりいったん休戦協定(1347-55)を結んだが、そのさなかの1350年にフィリップ6世が没し、子のジャン2世(位1350-64。善良王)が王位に就いた。

 クレシーの戦いで、父王エドワード3世の長弓隊に従軍したのが、長子エドワード黒太子(Edward,the Black Prince 1330-76)である。黒い甲冑を着用したことで"黒太子"と呼ばれた彼は、1356年、南フランスの現ポワトゥー・シャラント地方に位置するポワティエ市付近に乗り込み、長弓隊と歩兵の混成軍を率いて、戦闘を再開、フランス・ジャン2世の騎士隊と戦った(ポワティエの戦い)。黒太子はここでも善戦し、フランス軍に打ち勝った。投降したジャン2世は捕虜となり、ロンドンに連行された。

 度重なる連敗で、荒廃したフランスは動揺が起こった。折しもペスト流行、経済破綻、飢饉発生、重税賦課などの因から暴動が相次いでいた。ポワティエの戦いから戻ってきた傭兵は結局無給となり、その反動から村荒らしが始まった。このため農民は、しばしば農民一揆(農民反乱)が起こり、北フランスでは1358年、ギヨーム=カルル(?-1358)を指導者として蜂起し、地区ごとに結社して領主の城館を襲撃した(ジャクリーの乱。ジャックリーの乱。土百姓の"ジャク"に由来)。反乱はシャンパーニュ・ピカルディー地方にも広まり、しかも同じ頃にはパリでも商人エティエンヌ=マルセル(?-1358)を中心とする市民反乱も起こった。しかしジャン2世の王太子シャルル(1337-80)がカルル、マルセルらの逮捕、処刑に成功し、各地の反乱は鎮定化した。

 シャルルは1360年、ローマ教皇の仲介でイギリス・エドワード3世とパリ南西のブレティニで和約を結び(ブレティニ=カレー条約)、結局エドワード3世のフランス王位継承権破棄を条件に、ギュイエンヌや、アキテーヌ地方などといった領土をイギリスに割譲した。1364年に父ジャン2世が没し、シャルルはシャルル5世として王位に就任した(賢明王。位1364-80)。将軍デュ=ゲクランを起用して軍政と経済の発展に努めた。シャルル5世は1380年に食中毒で没し、子シャルル6世(最愛王。狂王。位1380-1422)が王位に就いた。フランス・シャルル6世は即位当時まだ11歳で、その頃はシャルル6世の叔父にあたるヴァロワ家系ブルゴーニュ公らが摂政となったが、悪政をしいていた(1380-82)。戦乱時代であったが故、国内ではすぐ反乱が触発され、政府の悪行に際し条件的に反乱が頻発した。さらに国内諸侯も、国王派のオルレアン公ルイ(シャルル6世の弟。ルイ=ドルレアン)を中心とし、赤いスカーフを身に付けたアルマニャック派と、これに反する緑の頭巾をかぶったブルゴーニュ派との間で対立を深めていった。1388年、オルレアン公の賛同で、シャルル6世は親政を始め、政体安定化につとめようとしていた。

 一方のイギリス・エドワード3世は、エドワード黒太子に命じて、大陸のアキテーヌ、ガスゴーニュの統治を任せた(1363-70)。黒太子は、戦費負担による財政破綻を恐れたアキテーヌの貴族の反対をおしてスペイン・カスティリャ王国(1035-1479)にも侵攻(1366)したが、このためアキテーヌの貴族反乱を招いた。これに介入したフランス前王シャルル5世は1369年、エドワード黒太子から大陸のイギリス領の没収を宣言して、同1369年から75年までの間に、イギリスから、数地点を残した大部分の領土を奪還することに成功した。その後エドワード黒太子は父エドワード3世に先んじて1376年に重病で没し、エドワード3世も翌1377年没した。このように、この頃のイギリスはフランスよりも劣勢になっていた。
 1377年、エドワード黒太子の子リチャード2世(位1377-99)が即位した。リチャード2世は1381年、煉瓦工ワット=タイラー(?-1381)の農民一揆(戦費調達のための重税賦課に反対した農民一揆)を鎮圧するなど功があったが、次第に議会を無視して専制化していったため、議会や諸侯の反発を招いた。この頃エドワード3世の四男で、リチャード2世の甥に当たるジョン=オヴ=ゴーント(1340-99)という人物がいた。彼は1362年、ランカスター家の娘ブランシュと結婚してランカスター公位を継ぎ、リチャード2世がプランタジネット朝の国王として即位してからは、ジョン公が実質の権力を握っていた。前述のワット=タイラーをはじめとする農民一揆や、スペイン外交の処理、貴族対立緩和などに力を注いだ人物であった。したがって、その後の国王による議会無視などからくる専制化は、ジョン公の働きによるものでもあったのである。しかし、長男ヘンリ(1367-1413)は議会重視派で、1392年、従兄リチャード2世の不在を利用して実権を掌握し、シャルル6世との英仏休戦に関する会談を執り行った。ヘンリは、いったんリチャードに追放されてパリに逃れたが1399年、ジョン公が没後、イギリスに戻ってリチャード2世に廃位を迫り、彼を幽閉、ランカスター朝(1399-1461)を開基、ヘンリ4世として王位に就いた(位1399-1413)。系統は続いたが、プランタジネット朝としては245年で終焉を迎えた。ヘンリ4世は、その後も議会権力を伸ばす形をとっていった。

 英仏会談をおこなった1392年は、シャルル6世が突然狂気的に発作をおこし始めた年で、ブルターニュ地方の遠征の時に発狂、政務不可能となり、統治の主導権をめぐって、ブルゴーニュ公側と、国王派のアルマニャック伯側(オルレアン公)との間に内紛が起こった。ブルゴーニュ派はブルゴーニュ公ジャン=サン=プール(無畏公。公位1404-1419)、アルマニャック派はアルマニャック伯ベルナール7世とその女婿シャルル=ドルレアンがそれぞれ中心となっていった。1407年、シャルル6世の弟ルイ=ドルレアンがブルゴーニュ派によって殺害され、これを機に対立が一気に激化し、大規模な内戦へ突入した。
 この情勢を見ていたイギリスは、1413年ヘンリ4世没後王位に就いたヘンリ5世(位1413-22)のもと、フランスの諸侯内戦に乗じて軍を率い、ノルマンディーに侵入し、英仏戦の再開となった。しかもイギリスは国王派のアルマニャック伯に対抗しているブルゴーニュ派と手を組むことを決め、ブルゴーニュ公ジャン=サン=プールはこれを承諾した。結局シャルル6世側にいたアルマニャック派は1415年、アザンクール(ノール=パ=ド=カレー地方)で敗れた(アザンクールの戦い)。その後ジャンは暗殺されたが、ブルゴーニュ公はフィリップ=ル=ボンが公位についた(位1419-1467)。そして1420年のトロワ条約(シャンパーニュ=アルデンヌ地方)で、ヘンリ5世はシャルル6世の王女カトリーヌを妃とするフランス王位継承権の承認、北仏全域・南仏一地域を服属を約した。これに対抗したアルマニャック派は、シャルル6世の王太子シャルル(1403-1461)を王位継承者として擁立を企てた。しかし、ヘンリ5世、シャルル6世が相次いで没し(1422)、トロワ条約にもとづいて、ランカスター朝のヘンリ5世の子ヘンリ6世(1421-71)が1歳の時、イギリス・フランス両国の王として即位した(位1422-61,1470-71)。一方アルマニャック派のシャルル=ドルレアンらによってフランスの王位継承者とされていた王太子シャルルは、イギリス・ランカスター朝やブルゴーニュ派の抵抗を受けていたため、非合法の王として即位していた(シャルル7世。勝利王。位1422-61)。こうした体制をもとに、ロアール川(ロワール川)を境界として、イギリスに近いフランス北部はヘンリ6世によって、また東部はブルゴーニュ公によって、それぞれ支配され、ヴァロワ系統のフランス国王を支持したフランス南部は、シャルル7世によって支配された。シャルル7世は、ロアール川以南のサントス地方(オルレアン、ブールジュなど)を拠点とし、1428年にはオルレアンをイギリス軍に包囲され(オルレアン陥落)、一時ポワティエに宮廷を置くなど、限定された勢力範囲で、兵力・財力を欠乏させた。しかもシャルル7世自身は問題意識も危機感もなく、安逸を貪る日々が続くなどして、フランスの敗色を濃くするばかりであった。イギリス・エドワード3世のフランス王位継承権(当時はカペー王家)をかけてフランスと戦い始め、まさに実現可能となる中、カペー王家11代目フィリップ4世(位1285-1314。ル=ベル。美王)からはじまったフランス国王の絶対中央集権化の完全崩壊は、まさに刻一刻と迫ってきた。

  *

 百年戦争が勃発してから終了間近である1428年のオルレアン陥落までをお話ししました。ここまでは終始イギリス軍が有利ですね。終戦の1453年までの25年というのは意外にも内容が濃いため、次回にまわさせていただきました。また、戦争終結後もイギリスでとんでもないことがおこりますので、あと2回分はこの時代を載せたいと思います。

 実際、百年戦争は1339年の勃発年からブレティニ=カレー条約が結ばれた1360年までの時代でまず一区切りされ(初期)、シャルル5世政権からスタートする1364年から1420年のトロワ条約までが中期となります。そしてヘンリ6世・シャルル7世が即位する1422年から、終戦の1453までが後期として区切られます。では、前期と中期の学習ポイントを見ていきましょう。

 前期では、エドワード3世・黒太子親子の活躍で、長弓隊を率いてクレシーの戦い、ポワティエの戦いにおいて、イギリスがフランスに大勝したこと、フランスではペスト流行、ジャクリーの乱など、内部での動揺も甚だしいです。ここでは、エドワード3世、黒太子親子、ペスト流行、ジャクリーの乱を覚えましょう。余裕があったら長弓隊、クレシー、ポワティエの用語も覚えておきましょう。ポワティエはどちらかといえば732年のフランク王国がイスラム軍と戦ったトゥール=ポワティエ間の戦いが有名ですね。

 中期では、フランスのシャルル5世の台頭と、エドワード3世・黒太子親子の衰退とリチャード2世時代のワット=タイラーの一揆といったイギリスの動揺による絶妙のタイミングで、一時的にフランス優勢になります。でも次のシャルル6世が即位した頃はフランス諸侯同士(アルマニャック派とブルゴーニュ派)の内紛が発生してこちらも動揺します。イギリスはランカスター朝に代わって議会権力が伸び、ヘンリ4世、ヘンリ5世、ヘンリ6世といった名君が登場します。結局トロワ条約でフランスはイギリスのいいように支配されていくのですね。ここでは、国王はランカスター朝の3人のヘンリと、ヴァロワ朝の2人のシャルル(5世・6世)が登場しますが、教科書にはあまり登場せず、覚えるのはイギリスにワット=タイラーの一揆があったことぐらいでいいと思います。

 というわけで、次のシャルル7世が即位した頃は、勢力範囲も小さく、兵力も財力も支持力も少ないままで、フランスはこの戦乱時代、いいところがなく終わってしまうようですが、この続きは、次回にて。次回の百年戦争、大いなる山場を迎えます。そこで、あの少女の登場です!!

世界史の目に戻る

Copyright (C) KOBE MANTOMAN SHIDOU SENMON GAKUIN All Rights Reserved.