世界史の目−Vol.58−

百年戦争・奇跡の終戦(1453)
〜中世から近世への過渡期〜

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 英仏間で起こった百年戦争(1339-1453)は、これまでイギリス軍優勢に動いており、イギリス・ランカスター朝(1399-1461)・ヘンリ6世(位1422-61,1470-71)は1420年のトロワ条約にもとづいて、イギリス国王がフランス国王として王位継承者をフランスに認めさせ、ヘンリ6世はフランス国王として、ロアール川を境とする以北フランスを中心に権力を広げた。またシャルル6世(位1380-1422)時代に起こったフランス貴族諸侯の内部対立(アルマニャック派ブルゴーニュ派)もおさまらず、ブルゴーニュ派はイギリスと提携してフランス東部に勢力を広げていた。このため、ヴァロワ王家の国フランスが危機的状況に陥り、ヴァロワ朝(1328-1589)のシャルル7世(1403-61。勝利王。位1422-61)は、ヘンリ6世がフランス王を継承しているが為に、非合法なフランス王となっており、ローマ教皇による戴冠式も行えず、正式な国王ではなかった。しかもロアール川以南の地方のみに勢力を狭められて(拠点はブールジュ)、その一部オルレアン(ロアール川中流の要衝)もイギリス軍により包囲(1428秋)され陥落、フランスは敗戦がほぼ決まりつつある窮地に立たされていた。

 オルレアンは、アルマニャック派のシャルル=ドルレアン公がロンドンで捕虜となっていたさなかの包囲であったため、オルレアン市民は憤慨して徹底的に抵抗し、持久戦の様相を呈した。そもそもアルマニャック派・ブルゴーニュ派間の内戦は、1407年、シャルル6世の弟ルイ=ドルレアンがブルゴーニュ派によって殺害されて内戦が拡大したものであった。この内戦にイギリスが介入して百年戦争の継続をはかり、イギリス支持のブルゴーニュ派をとりつけ、ヴァロワ王家支持のアルマニャック派の制圧とフランス全領土の支配権掌握を得ることを目標に掲げていたのである。その砦となっていたのがオルレアンであった。

 イギリス軍によって徐々に奪われていくフランス領土を、シャルル7世は何もできないでいた。安逸な日々を送る国王に対し、支持者も少しずつ離れていく状況であった。まさにフランスは敗戦寸前の状態にまで追いつめられていたのである。そこに登場したのがフランスの愛国少女、ジャンヌ=ダルク(1412-31)であった。

 ロレーヌ地方の小村ドンレミ(ドムレミー)の中農の家に生まれたジャンヌは(5人兄妹の4番目)、生来信仰心の深い温厚な性格であった。1424年のある日、13歳になったジャンヌは、初めて「オルレアンを解放せよ」「フランスを救え」という神の声("お告げ")を聞いた。1428年、ジャンヌは神の"お告げ"に従い、ドンレミ近傍のヴォークールールの守備隊長に会ってオルレアン解放とフランス国王救援を説得した。守備隊長は必死にすがるジャンヌの説得に理解を得、翌1429年2月、ジャンヌに援助を与えた。わずかな従軍を率いたジャンヌは男装して500kmの道程を、シャルル7世が布陣するシノンに向かった。
 ジャンヌは遂にシャルル7世と面会した。シャルル7世は現時点での実質の国王はランカスター朝のヘンリ6世であり、自分は王太子シャルルの立場にすぎないことを話した。ジャンヌはシャルルより9歳年下だったが、シャルルはジャンヌから神の"お告げ"の話を聞き、彼女を信じた。

 ヘンリ6世は、幼少であるためにフランス王としての戴冠式を行っておらず、これが絶望感が漂うフランスの、形勢逆転の唯一の機会であるとジャンヌは悟っていた。歴代のフランス王は、戴冠式で宝冠を授かることによって、フランス国王の証となっていたのである。奮起を促したシャルルは、ジャンヌを信じた代償として、数千の軍をジャンヌに与え、ジャンヌは軍隊を率いてオルレアンにむかい、ついに包囲を破ってオルレアンをイギリス軍の手から解放したのである(オルレアン解放。1429.4-5)。
 この勢いは、そのまま北東へ突進した。向かうは、ランス大聖堂(シャンパーニュ・アルデンヌ地方)である。かつて、メロヴィング家のクローヴィス(フランク王国。位481〜511)が聖レミ司教からアタナシウス派キリスト教の洗礼を受けて以来、歴代フランス王の戴冠式はここで行われていた。
 ジャンヌはシャルルを連れてランスへ突撃した。イギリス軍を制圧しながら、遂にランスを陥れ、同1429年7月、ランス大聖堂で、シャルル7世として戴冠式を実現させた。フランス国王として宣言を発したシャルル7世は、名実ともにフランス国王となったのである。この功績で、ジャンヌとその2人の兄は、王によって貴族に列せられた。ジャンヌは、宮廷内の反発者を一掃してフランスの完全解放・国難脱出という愛国主義を強調していった。そして、次の目的はパリの奪還であった。

 ここで、劣勢な立場にさらされたのが、反シャルル派のブルゴーニュ派であった。トロワ条約で、フランス東部を支配していたブルゴーニュ公は、イギリスに味方して、百年戦争を優勢に導いていたが、ヘンリ6世が単なるランカスター朝国王に戻った今、居場所を無くしていた。ジャン=サン=プール(無畏公。位1404-1419)のあとブルゴーニュ公位に就いていたフィリップ=ル=ボン(善良公。位1419-1467)は、ヴァロワ朝シャルル7世との和約について話し合いの時機をうかがい始めた。

 シャルル7世にとってもブルゴーニュ派との和睦が得策と考えていた。これを機に、武力でフランスを解放しようとするジャンヌ側との間に嫌悪感が生まれてきた。1430年5月、ジャンヌはブルゴーニュ派に包囲されていたコンピエーニュ(ランスから北西)の救援に赴くが、ブルゴーニュ軍に捕らえられた。ブルゴーニュ派はシャルル7世に対して、身代金を要求したが、シャルル7世は支払わなかった。身代金を支払ったのは、イギリス軍であった。イギリス軍はジャンヌの身柄を確保し、パリ大学神学部は、ジャンヌが神の声を聞くということで異端の嫌疑をかけ、宗教裁判(異端諮問)を要求した。

 宗教裁判とは教会の法廷で、異端者を発見し、諮問、処罰する裁判である。1431年1月、パリ大学の裁判の要求は、イギリスも同調、同国が占領するノルマンディのルーアン(ルアン。セーヌ川沿い)で、ジャンヌの宗教裁判が行われた。そして、男装・男髪の容姿をしていること、聖職者の仲介なく神と交流し、その声を聞き存在を示したこと、親を見捨てシャルルに王国再建を約束したなどの12ヵ条におよぶ罪状が読まれ、結果、"異端の魔女"としてジャンヌを破門並びに火刑を宣告した。
 1431年5月30日朝、ルーアンのビュー=マルシェ広場で、ジャンヌの火刑は執行され、19年の短い生涯を閉じた。

 シャルル7世は、その後ブルゴーニュ公フィリップ=ル=ボンと会談した。1435年9月21日、シャルル7世とフィリップ公との間で、フランドルのアラスで和約を締結(アラス和約)、同時にブルゴーニュ派はアルマニャック派と長きにわたった内紛に終止符を打ち、イギリスと訣別した。これにより、シャルル7世はフランス東部を回復した(ブルゴーニュ公領)。
 勢力が拡大し始めて以後のシャルル7世は、以前よりも増して積極的になった。内政ではブールジュの商人の家から出たジャック=クール(1395?-1456)を財務監督官(1435-50)に採用し、商工業や貿易などの経済改革を進め、また1445年には常備軍を創設して官僚制を整備、教皇権介入・聖俗諸侯の抑制につとめ、1438年にはフランスの司教権を教皇権の支配外に独立させ(ガリカニスム。フランス国家教会主義)、徐々に絶対主義国家と国民国家の形成に尽力した。
 外政では、1430年から入城していた首都パリを1437年に回復させ、1450年にはノルマンディを回復、そして1453年7月17日、アキテーヌのカスティヨンの戦いで、ギュイエンヌを回復した。指揮官を失ったイギリス軍は遂に全軍撤退を決め、フランスはカレー市を除く全国土を奪取し(カレーの奪還は1558年)、イギリス軍は大陸から追い払われて、百年戦争はここにおいて終結の日を迎えた(百年戦争終結)。まさにフランスは、奇跡の大逆転勝利であった。

 途中王太子ルイ(後のルイ11世。1423-83)との不和や、愛妾アニェス=ソレル(1422-1450。女性として初めてダイヤモンドを身につけたとして有名)の政界介入などもあって苦しんだが、シャルル7世は、長く心残りであったジャンヌ=ダルクの復権において、1455年、勅命によってジャンヌ復権裁判を開かせることにした。これにより、翌1456年ルーアンで、ローマ教皇カリクストゥス3世(位1455-58)は、1431年のジャンヌ宗教裁判の無効を宣言、無罪と復権の判決が出、ジャンヌは名誉を回復した(時が経ち1920年にはローマ教会で、ジャンヌを聖女に列し、フランス国民の英雄として讃えられたのであった)。

 百年戦争が終結した1453年、大逆転負けを喫したイギリス・ランカスター朝はイングランド王国の統治に入った。しかし、国内王室は揺れ動いていた。フランス国王になれず、敗北を喫しランカスターの王権が失墜し、もともと病弱なヘンリ6世は王妃にも振り回される始末であった。こうしたなか、ランカスター王家に、王室簒奪という魔の手が忍び寄っていく。

 遂に英仏百年戦争が終結しました。114年という長きに渡った戦争でした。日本では1338年足利尊氏(あしかがたかうじ。在職1338-58)が征夷大将軍となって室町時代が幕開けとなり、8代将軍足利義政(よしまさ。在職1449-73)の時代にあたります。イギリス優勢とみたこの戦争は、途中フランスを敗北寸前にまで追いやりながら、あと一歩のところで勝利を逃すという結末でした。フランスにとっては奇跡に近い戦勝でした。戦時中は「奇跡だ」「大逆転だ」などと酔いしれる暇などないかもしれませんが、ともあれ、稀に見る非常にドラマティックな出来事だったと思います。

 さて、百年戦争がひとまず終結ということで、大事なポイントを見ていきましょう。前期・中期は「百年戦争・開戦と混乱」の学習ポイントを参照してください。後期は、シャルル7世ジャンヌ=ダルクといった、百年戦争に出てくる人気人物が登場しました。この2人の名前を覚えることはもちろんですが、ジャンヌが行ったオルレアン解放(1429)、カレー市を除く全国土からイギリス軍を駆逐したことは、入試頻出の語句ですので、必ず覚えておきましょう。
 本編に登場した内容で、入試に出題されるのはそれぐらいですかね。余裕があれば、シャルル7世に仕えたジャック=クールは用語集に記載されていますので、覚えておいた方がイイかもしれません。

 百年戦争でさらに大事なのは、十字軍以来没落しつつありました封建諸侯は衰退して、王権強化が伸びたこと。そしてこれによって常備軍や官僚制を整備して国王の中央集権化、つまり絶対主義王政の基礎ができあがったことが大事です。「Vol.33 西欧封建社会」の事項でも説明しましたが、戦術の変化(火器)によって騎士階級が没落したことも重要です。

 ちなみに、百年戦争が終結した1453年とは、首都コンスタンティノープルが陥落したビザンツ帝国(東ローマ帝国。395-1453)の滅亡した年でもあります。陥落させたのはオスマン帝国(1299-1922)で、7代目スルタンのメフメト2世(位1444,51-81)は同地をオスマン帝国の首都として遷し、名をイスタンブルとしています。有名な街ですが、現トルコ共和国(1923- )の首都はアンカラです。お間違えのないように。

 百年戦争はこれでひとまず終了しましたが、戦後の英仏、とくにイギリスを中心に次回は進めていきます。百年戦争の影響ははかりしれないほど大きなものであったことが理解いただけると思います。中世の西欧史における最後の大舞台です。お楽しみに!!

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