世界史の目−Vol.6−

唐の興亡(建国618年〜統一628年〜滅亡907年)

 隋の部将だった李淵(りえん)が首都大興城(だいこうじょう。唐代の長安)を占領して建国した王朝。李淵は初代皇帝・高祖(位618〜626)となる。その子李世民(りせいみん)は太宗(位626〜649)として周辺民族を服属して天下統一を完成させ、貞観(じょうがん)の治(627〜649)という充実した国力で繁栄した。太宗の子・高宗(位649〜683)はさらに領土拡大を狙って高句麗などを滅ぼし、領土最大となった。

 唐といえば、律令国家体制である。中央官制では、三省六部(りくぶ)・一台に分けた。まず、三省は中央政府の最高機関にあたり、それぞれ宰相が2人づつ任用された。中書省(王の詔勅の立案起草)・門下省(詔勅の審議)・尚書省(詔勅の実施と六部管轄)の3つの省から成り立っている。つづいて、六部は吏部(官吏選任)・戸部(財政)・礼部(教育・祭祀)・兵部(軍事)・刑部(司法)・工部(土木)からなり、一台は御史台(ぎょしだい)という官吏の監察機関であった。官吏は魏晋南北朝時代の九品中正にかわって、科挙(学科試験)を使用した。

 制では、時代前半は均田制租庸調制を使用。均田制は21歳以上男子(丁男=ていだん)と16〜20歳の中男に、永業田(子孫に世襲させる土地)と口分田を与えた。租庸調制も均田制に対応して丁男に課す税制で、粟2石(租)・年20日の労資(庸)・絹や麻(調)、さらに年4,50日の土木事業(雑徭=ぞうよう)などから成る。土地を支給された農民は府兵制により徴兵も命じられた。これらの制度は、時代後半にはやがて崩壊していく(後述)。

 高宗の死後、子の中宗が帝位についたが(位683〜684)、高宗の皇后だった則天武后(そくてんぶこう)は、高宗が病床についた頃から、政権の指揮をとっており、中宗の皇后・韋后(いこう)に対する警戒から、中宗を帝位から降ろし、その弟睿宗(えいそう)を帝位につかせた(位684〜690)。この則天武后の専横は唐王朝の簒奪(さんだつ)をうかがわせ、周辺にも不満をもたらしたが、武后はものともせず、反対派の皇族・貴族数百人を殺害した。結局、睿宗は皇太子に改めさせて、武后自身が皇帝となり指揮をとった(位690〜705)。中国史上唯一の女帝である。この間、国名は"周(武周)"となっている。武后没後は中宗が復位(位705〜710)したが、中宗の皇后である韋后は、則天武后のような女帝政権の願望からか、夫の中宗を毒殺し、帝位につこうとした。しかし睿宗の子である李隆基(りりゅうき)がこれを阻み、韋后は殺されて、睿宗が復位した(位710〜712)。睿宗はやがて子の李隆基に帝位を譲って隠退し、李隆基は玄宗となった(位712〜756)。彼が28歳のときである。

 玄宗は治世の前半は開元の治(712〜741)といわれる善政で、貴族文化の黄金時代を築き上げた。しかし、国の発展は人口増加をもたらし、商業・産業の発達により農民の貧富の差も広がっていった。一方貴族は多くの荘園を所有し、没落した貧農を小作人として使用したため、土地の支給・返還や、税収がうまくいかず、均田制と租庸調制は崩壊した。らに府兵制として選ばれた丁男も武器や衣服は自弁のため、負担が大きいことから、兵を募集する形に代替した。これを募兵制という。さらに玄宗は異民族の侵入にそなえ、辺境に節度使を設置して募兵集団の指揮をとらせた。しかし、751年、部将高仙之(こうせんし)が率いる唐軍がイスラム大帝国のアッバース朝と戦って大敗を喫し、戦費も散財した(タラス河畔の戦い)。西トルキスタンの覇権を失い、国力は衰退傾向となる。

 玄宗は長期間政権を執るも、飽きが来はじめ、宰相の人選を誤ってからは朝政が乱れ始めた。60歳の時、自分の皇子の妃を後宮に入れ、貴妃とした(745年)。この人が楊貴妃(ようきひ)で、その時彼女は26歳であった。これ以来玄宗は朝政には怠慢で、楊貴妃の族兄で、無学のならず者・楊国忠(ようこくちゅう)を宰相にしたため、楊氏一族は権力におごった。そのとき楊氏一族に不満をもった節度使安禄山(あんろくざん705〜757)が立ち上がり、755年洛陽を占領し、翌年自国を建て、さらに国都長安を陥れ、玄宗は退位する。これが安史の乱の勃発である。756年、楊貴妃や楊国忠は四川に逃れる途中、軍隊に殺された。安禄山は楊国忠と常に対立しており、玄宗が楊国忠を宰相にしたことにただならぬ不満をもっていたようである。また安禄山は体重が100キロを越えた巨漢で、大酒豪だったとされる。やがて禄山は眼病のため狂暴になり、最も信頼を受けていた宦官(かんがん。天子の側近。後宮に仕えた。)によって殺された。息子の安慶緒(あんけいちょ)の陰謀によるともいわれるが、安禄山の死後は、彼の部将、史思明(ししめい。?〜761)が受け継いだが、彼も子の陰謀で殺された。結局唐朝は節度使の増兵、ウィグル族の援助で盛り返し、763年、安史の乱は唐の軍隊によって鎮圧された。

 安史の乱によって律令制度は凋落し、国王権威の衰退や貴族の没落、宦官の台頭が相次ぐ中、節度使は権力を上げ、ひとつの軍事機関になっていった。財・民・兵の3権を握り、軍閥政権をかたどった。これを藩鎮(はんちん)という。この情勢下に、山東の塩密売商人の2人、王仙芝(おうせんし)と任侠好きで何度も科挙を受け失敗した黄巣(こうそう)が、圧政・飢饉の反発で大農民反乱を起こした。この黄巣の乱875〜884)で長安は陥落、穀倉地帯は壊滅し、江南地方は荒廃した。藩鎮は、突厥(とっけつ)族の援助で反乱を鎮圧させ黄巣は自殺、王仙芝は敗死した。これにより藩鎮勢力は独立していった。やがて節度使朱全忠(しゅぜんちゅう)が、黄巣の乱を鎮定した功績で901年梁王となった。梁王は宦官勢力・門閥貴族など、唐の残党を残らず一掃したあと、唐の最後の皇帝である哀帝に禅譲(ぜんじょう。政権の譲渡)を迫り、帝位について太祖(位907〜912)となり、後梁を建国し(五代十国時代の始まり)、ついに唐王朝を滅ぼした。907年のことである。

 ”歴史のお勉強”始まって以来の大作です。中国史初登場ということで、スペシャルとして、一国の盛衰をすべて話してしまいました。

さて、中国史の中でも出題傾向の強い唐王朝ですが、まず、中国史全般において、@建国年A統一年B滅亡年C建国者D首都E滅亡の原因、の6つは最低限おぼえる必要があります。唐では@618年A628年B907年において、"いやにやつくくれないの唐"という覚え方があります。さらに、唐王朝では、建国者李淵高祖)、統一者李世民太宗)、領土最大にした高宗は知っておいた方がよろしいでしょう。

 本文では触れなかったところで重要なところを幾つか説明します。タラス河畔の戦いで唐は大敗しましたが、この時イスラム軍に捕らえられた紙すき工が、唐朝の製紙法を伝えていることも重要。また、均田制と租庸調制の崩壊、安史の乱による税収激減から、徳宗(位779〜805)の宰相楊炎(ようえん)の建議により、780年を境目に、本籍地ではなく現住地での実際使用している土地や資産の額に応じて、夏秋の2期に税金を徴収するという両税法を施行しているのも大事な項目です。杜甫李白など、文化史においても、この時代には優れた名人が多く出てきております。李白と杜甫は安史の乱の時代に生きた人であることに注目。仏教布教の玄奘(げんじょう。三蔵法師)は陸路でインドへ渡り、『大唐西域記』を著し、同じく布教者の義浄(ぎじょう)は海路でインドへ渡り、『南海寄帰内法伝』を著しています。義浄の作品に"海"の文字があるので海路ですね。

 覚え方は他に安史の乱(755〜763) では"安史ゴーゴー無惨に敗北"、黄巣の乱(875〜884)では"いやなこった黄巣"があります。また、初代皇帝を、漢(前漢)や唐では"高祖"と呼ばれていますが、五代十国以降は"太祖"と呼ばれていることが多いです。2代目皇帝は"太宗"と呼ばれていることが多いですね。(例:高祖→前漢の劉邦(りゅうほう)。太祖→遼の耶律阿保機(やりつあぼき)、金の完顔阿骨打(わんやんあぐだ)、宋の趙匡胤(ちょうきょういん)、清のヌルハチなどなど。)

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