世界史の目−Vol.60−

魯迅(ろじん。1881-1936)

 中国・清王朝(1616-1912)の徳宗・光緒帝(とくそう・こうしょてい。位1874-1908)と摂政・西太后(せいたいごう。1835〜1908)の時代、中国・浙江(せっこう。チョーチアン)省紹興(シャオシン)にて、後の中華民国1912.1.1-1949)の初期時代に文学者として活躍する人物が生まれた。魯迅(ろじん。本名"周樹人"。しゅうじゅじん。1881-1936)である。魯迅が誕生した頃は、西太后ら保守派の権力が強く、また外交においても日本や朝鮮との間で緊張が張りつめていた時代であった。

 1885年には後に兄と同じ文学者となった弟・周作人(しゅうさくじん。1885-1967)も生まれ、高級官僚の祖父によって家庭は裕福であった。しかし1893年、祖父は、職務上の過失により入獄となり、父親の重病もあって周一家は急速に没落した。このため周樹人は質屋と薬屋の往復に3年間費やすことになったが、それもむなしく、父は没した。周樹人は学費のかからない官立の学校に入学、卒業後、留学生試験に合格した。

 日清戦争(1894-95)で敗北した清朝は、その後も戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)→列強の中国分割→義和団事件(ぎわだん。北清事変。ほくしん。1900-01)→ロシアの満州占領といった動揺が続き、中国は半植民地化されていった。1902年、22歳の周樹人は弱体化する中国には革命が必要であるとして、留学先を日本に決めた。日本の明治維新(1868)は、これまでの封建体制から天皇を中心とする中央集権体制を実現させ、欧米の資本主義化を軸としておこされた大革命であった。特に、西洋医学に端を発した革命であったことをふまえた周は医学者を志し、1904年、官費留学生として宮城県の仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)に入学した。

 この学校で周樹人が最も深い影響を受けたのが、恩師である解剖学教授・藤野厳九郎(ふじのごんくろう。げんくろう。1874-1945)であった。彼はまだ日本語が話せない周にマンツーマン指導を行い、学業面だけでなく生活面にも気を配り、強い精神力を投入していった。周は後に『藤野先生』を著して恩師に対する尊敬と感謝を主張した。
 しかし、周は思わぬ出来事に遭遇する。スライド映写(幻燈)を見ながらの講義の時、映された写真に周は絶句した。入学した年に勃発した日露戦争(1904-05)の内容であった。具体的には、スパイ容疑をかけられた健全そうで体格の良い中国人が、見せしめのために日本人に首を切断され、それをとりまいて見物している他の中国人も健全そうで立派な体格をしているというものであった。この幻燈事件に衝撃が走った周は、「いくら健全で立派な体格でも、弱い心を持っていては、他国の思うままである。中国人はまず何よりも精神を改造することが重要であり、身体の病を治すよりも精神の病を治して、強い心を持つべきである。」と考えるようになり、精神の強化の手段として、文学を志すようになった。そして、医学から文学への転向を決断した周は、1906年、学校を退学して一時帰国した。同年、弟の周作人も同行して再来日した周樹人は、東京で近代西欧思想を摂取して独自の文学観を切り開いていった。そして、筆名を「魯迅」として活動していくのである。一方、弟の周作人も立教大学に入学して西洋古典学や英文学を学んでいった。この頃、周作人は日本人女性と結婚している。

 1909年に帰国した魯迅は、その後中学校教員として郷里にいた。しばらくして1911年辛亥革命がおこり、清朝は滅んで翌年中華民国南京を首都に誕生し、魯迅と同じ浙江省出身の教育学者・蔡元培(さいげんばい。1868-1940)が中華民国教育部総長に就任した。蔡元培は、魯迅を招聘し、教育部に勤務させた。
 しかし、1912年3月、つまり中華民国の政権が孫文(そんぶん。1866-1925)から袁世凱(えんせいがい。1859-1916)に移ってからは、政局は首都南京ではなく袁世凱の拠点である北京に向けられるなど、袁世凱の専政が続いた。当然教育部も北京に移り、魯迅も北京に向かったが、袁世凱政権に反抗した蔡元培は、就任7ヶ月で退任させられ、彼は欧州へ旅立っていった。さらに日本の大隈重信内閣(おおくましげのぶ。1914.4-16.10)から中国の主権を無視した二十一ヵ条の要求を突きつけられ(1915)、反政府運動も中国各地で頻発した。翌1916年の袁世凱没後、中国は軍人勢力(軍閥。ぐんばつ)が分立・割拠する情勢となり、北京に移っていた政府は弱体化した。各地の軍閥は自己の権益・利益のために、政局を無視して帝国主義列強と手を結び、自分たちの国を、分裂・崩壊へと導いていった。
 力強い革命運動で皇帝支配体制を終わらせ、よりよい民主国家を目指して誕生したはずの中華民国が、軍閥と列強の進出によって形骸化し、この情勢をあからさまに見た魯迅は、深く失望した。

 弟・周作人は、辛亥革命の時に帰国し、故郷で教職に就いたが(1913)、1917年、ヨーロッパから帰国して北京大学の学長に就任していた蔡元培(任1916-26)に招かれて北京大学教授になっていた(1917)。蔡元培は進歩派の知識人を教職に就かせて大学を再建していき、周作人以外にも同大学の文科科長陳独秀(ちんどくしゅう。安徽省出身。あんき。1880-1942)をはじめ、胡適(こてき。こせき。1891-1961)や李大サ(りたいしょう。1889-1927)ら、個性豊かな教授陣が顔を並べた。陳独秀らが1915年9月に発刊した雑誌『青年雑誌』は翌年『新青年』と改称して、それ以降、儒教体制や、旧道徳の批判をうったえる啓蒙思想文学の代表として、知識人や学生を中心に広く知られるようになっていたが、これをさらに中国全土に浸透させ、後の革命をおこすきっかけを作ったのは、1917年『新青年』に発表した胡適の『文学改良芻議(すうぎ)』だった。
 周作人は胡適の作品が、古来の形式主義に則った文語体文学ではなく、これまで邪道とされた口語体文学であったことに感銘を受けた。中国では、口語のことを白話(はくわ)と呼び、胡適らによって白話文学の推進がおこされたのである(白話運動)。これが文学革命の勃発であった。

 革命がおこされてから、周作人は日本の白樺派(しらかば)の人道主義・個人主義・新理想主義を紹介し、外国文学の翻訳を行うなど、文学革命の参加者として目的を追求していった。

 一方、兄・魯迅はこうした白話運動に始まる文学革命には勃発当初は期待が薄いとみて軽視していたが、友人のすすめにおいて、文学革命を通じた中国の救済を深く考えるようになり、徐々に呼応して文学革命に参加するようになった。旧道徳・旧封建の軍閥勢力の打倒と、旧形式文学を打ち破って新しい文学を切り開こうとしているこの革命運動とを、メタファー(隠喩)としてつなげたのである。

 魯迅がおこした最初の革命運動は、処女作を白話文学として『新青年』に発表したことであった。これが1918年発表の『狂人日記』である。『狂人日記』は、ロシアの劇作家ゴーゴリ(1809-52)の作品からヒントを得たとされ、狂人が書いた日記という体裁をかり、古来の儒教道徳、封建体制を鋭く批判したもので、知識人や学生に広く読まれるようになった。中国の近代文学の幕開けであった。
 その後、1919年には『孔乙巳(コンイーツー)』、1921年には『阿Q正伝(あきゅうせいでん)』を著し、旧体制下における人々の苦悩を描いて、当時の中国の腐敗した社会体制を告発していった。この期間の間、パリ講和会議1919)で二十一ヵ条の要求撤廃の認可がおりなかったことで、北京を拠点として学生中心の反日運動が勃発した。世に言う五・四運動1919.5.4)であり、この運動も白話運動による文学革命と合体して、次第に反帝国主義・反封建主義・軍閥打倒として拡大した。政府は事態収拾に苦悩し、ヴェルサイユ条約調印拒否を決めて、運動に参加して逮捕された学生を釈放させたことで、運動は徐々に鎮められていった。胡適は五・四運動以降、革命の急進化を恐れて革命運動から退き、一方陳独秀は李大サとともに中国共産党(1921)を結成、1922年7月、『新青年』は廃刊となった。

 魯迅は1923年、同じ『新青年』で活躍していた弟・周作人と家庭内の事件で不仲になり、1926年に会ったのを最後に完全に訣別し、魯迅は北京を離れ廈門大学(アモイ)や広州の中山大学で教鞭をとった。翌1927年、教え子の許広平(きょこうへい。1898-1968)と結婚した魯迅は、 ある事件に遭遇する。中国国民党蔣介石(しょうかいせき。1887-1975)が上海でおこした反共クーデタである(上海クーデタ。四・一二クーデタ。1927.4.12)。魯迅は弾圧されていく共産党員をみて、抗議をおこすも受け入れられず、同年大学教授を辞職した。上海に留まった魯迅は1930年、文学による革命を終わらせまいと、「中国左翼作家連盟」を結成して民族統一を主張しながら、執筆活動を続けていった。しかし、その民族統一(第2次国共合作。1937.9)が実現する1年前、民族統一戦線の結成をめぐる論戦中に病没した(1936)。享年56歳であった。魯迅の葬儀委員の中には、蔡元培の名もあり、その死を深く嘆いた。

 魯迅の死後、弟・周作人は、日中戦争が勃発(1937)して以降、汪兆銘政府(日本の傀儡政権。おうちょうめい。1885〜1944)の教育部門に協力したことで(1939)、戦後、中国国民党政府によって"漢奸(かんかん)"として裁かれ、南京で投獄された(1946)。しかし1949年、中国共産党における中華人民共和国の誕生によって釈放され、北京で執筆活動を行ったが、文化大革命(プロレタリア文化大革命。文革。1966-76)が勃発、実権派(走資派。反毛沢東派)にかくまわれたことで非難を受け、1967年、失意のうちに病没した。

 中国における魯迅の影響力は文学のみならず、政治・社会にまで及んだ。時代の成り行きといえばそれまでだが、彼の革命における精神力の偉大さは、妻許広平が、魯迅が亡くなったときに読んだ弔辞においても表されている。

悲しみがあたりに立ちこめています。
私たちはあなたの死に対して、言う言葉もありません。
あなたはかつて私に言いました。
「私は"牛"のようなもの。食べるのは草で、しぼり出すのは乳、血」と。
あなたは、休息とはどんなものか、娯楽とはどんなものか、知らなかった。
仕事、仕事!
死の前にもなお筆をとり、
そうして今は・・・・・・
私たちはみな、心をひきしめてあなたのあとに続きます。
(第一学習社「新総合国語便覧」より抜粋)

 悩める中国を助けるため、みずからの身を虐め傷つけてまでも革命を遂行しようとした魯迅の姿は、1942年、毛沢東が著した『延安文芸座談会における講和(略称・文芸講話)』でも表現され、「私たちは魯迅を模範として、人民の"牛"として身を献じる」と記述している。徹底して社会悪の根源を追及し、献身的な革命運動を推進し、戦うために筆を執ってきた魯迅の精神は、現在でも多くの中国人民に敬愛され、中国近代文学の最高峰として、世界的に広く愛読されている。

 ※

 節目の60回目は、文学者として、さらには革命家として名高い魯迅の、激動の近代中国を駆け抜けた人生について、周囲の事件や、弟・周作人をはじめとする、魯迅を取り巻く歴史上人物の面々も織り交ぜながらご紹介しました。「Vol.13 国共合作・国共内戦」の時代とカブる箇所も少々ありますのであわせてそちらも参照して下さい。魯迅は周作人以外にも周健人(しゅうけんじん。1888-1984)という弟もいて、生物学者の肩書きを持っています。

 本編の時代の中心は、中国版ルネサンスともいうべき文学革命にあるといって良いでしょう。魯迅が最も目立った活動を行った時期ですね。この革命は、民族資本の成長や、西欧科学流入、民主主義的イデオロギーの広がり、教育の発達、といった内容を背景に、中国大陸が列強に、あるいは国内の軍閥勢力に巧みに利用・搾取されたことによって、中国国民、特に学生や知識人たちがナショナリズムを高揚させておこした革命だと思います。その拠点は北京大学で、学長蔡元培を中心に胡適、陳独秀、李大サら最進歩派の教授陣がいたころが、最も革命的な校風だったでしょう。後に続く五・四運動を文化や思想の面から準備したと言えます。文学革命や五・四運動など、知識人・学生・青年らによるこうした啓蒙運動を総称して、"新文化運動"とも呼ばれています。

 さて、本日の学習ポイントです。魯迅はこの新文化運動の時代にはよく出題される人物です。まず、『狂人日記』と『阿Q正伝』の2作品は必ず覚えておきましょう。とくに『狂人日記』は処女作であることが大事で、『阿Q正伝』よりも先に著されたことを知っておいて下さい。魯迅に関して試験に出されるのはそれくらいで、周作人や許広平に関する問題は、見たことがありませんし、用語集にも出てきておりません。
 文学革命期では、陳独秀、胡適、李大サの3人は知っておきましょう(余裕があれば北京大学学長・蔡元培も)。陳独秀は『新青年』を創刊した人として、胡適は白話運動の提唱者として覚えておいて下さい。大変重要です。そして本編での詳細はありませんでしたが、李大サは1918年、北京大学でマルクス主義研究会を設立した人であります。マルクス主義思想を取り入れた人物として知っておきましょう。
 五・四運動の原因である二十一ヵ条の要求の撤廃が、パリ講和会議で却下されたことは覚えておいて下さい。そして、ヴェルサイユ条約調印拒否につながります。1919年のことです。朝鮮の三・一運動とあわせて覚えておきましょう(「Vol.39 開国、内乱、占領」参照)。ちなみにインドでは、ローラット法制定やアムリットサル虐殺事件があった年でもあります(「Vol.54 約束の代償、抵抗と虐殺」参照)。

(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。蔣介石(しょうかいせき。"蒋"のへんが爿)。

ご連絡:2005年の"歴史のお勉強"は本日までであります。次回は1月下旬(おそらく21日(土)頃)に更新の予定です。少し間が空きますがご了承下さいませ。では、良いお年を!!

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