世界史の目−Vol.64−

リューリク朝の興亡

 北海・バルト海にある北欧スカンディナヴィア半島(現スウェーデン、ノルウェー)やユトランド半島(現デンマーク)を原住地としていた北ゲルマンのノルマン人("北方人"の意。ヴァイキング)は、8世紀から12世紀に各地に大移動を開始した(第2次民族大移動)。その中で、スウェーデン地方に現住するノルマン人をスウェード人と呼ぶが、彼らは、9世紀ごろからスラヴ人やフィン人と交易、さらには略奪・抗争を行うようになっていった。伝承によると、862年、東スラヴ人は、部族同士の抗争に苦しみ、スウェード人の一派であるルーシ族ルス族)のもとに使者を送り、東スラヴ人の支配者を求めた。ルーシの族長リューリク(?-879)は、兄弟でノルマン人を率いて海を渡り、現在のサンクトペテルブルク南方のイリメン湖畔にあるノヴゴロドで、ロシア最古の商業都市国家・ノヴゴロド国を建国し(862)、混乱をおさめたとされている。またルーシとは、"船の漕ぎ手"の意味を持つとされ、スラヴ地域に入ったノルマン人をスラヴ人が呼んだ名で、リューリクが招かれて支配した土地も同様に"ルーシ"と呼ばれ、この言葉が語源となって現在の"ロシア"になったとも言われている。

 一方インド=ヨーロッパ系のスラヴ人は、6世紀にはバルト海南部、ドニエプル川、ドニステル川に挟まれた辺りに定着していた。そこから東方に勢力を広げていったのが東スラヴ人である。やがてロシア人ウクライナ人の祖となる。

 リューリクは879年に没し、その死に際して彼は親戚オレーグ(?-912)に遺児イーゴリ(?-945)を奉じ、国の行く末を託したとされる。オレーグはイーゴリを引き連れて南下し、882年頃、ドニエプル川中流にある都市国家キエフ(現ウクライナ共和国の首都)を占領、キエフ公となった。オレーグは南北に領域を拡大して東スラヴ人の数ある小国家を統合、13世紀まで続くキエフ公国(9-13C。キエフ=ルーシ)が誕生した。その後イーゴリの子孫によってリューリク朝(862-1598)が受け継がれていくことになる。

 キエフ公国は征服した東スラヴ人小国家からの貢税や、黒海・バルト海での交易地として繁栄した。またオレーグ公は907年頃ビザンツ帝国(395-1453)のコンスタンティノープルにも遠征している。オレーグ公没後大公になったイーゴリ(公位912-945)、次のスヴャトスラフ1世(位945-972)の時代も外征を繰り返し、近隣国に脅威を与えた。そして、次の大公ウラディミル1世(聖公。位978/980?-1015)のとき、キエフ公国は転機を迎える。

 ウラディミル1世は父スヴャトスラフ1世とともにノヴゴロド公であったが、父没後、兄を討ってキエフ大公になった経緯がある。領土拡大と国境画定に努め、ルーシ族を各地に奉じて土着勢力を抑え、農奴制の基盤をつくった。ウラディミル1世の国家支配強化はこれだけではおさまらず、当時のビザンツ帝国マケドニア朝(867-1057)のバシレイオス2世(位963-1025)の妹アンナと結婚して(988)、ギリシア正教に改宗、そしてこれを国教化した(988,989)。国民には洗礼を受けさせ、ビザンツ文化を摂取し続けたキエフ公国は、ウラディミル1世の子ヤロスラフ(978-1054)がキエフ公に即位してからますます発展した(ヤロスラフ1世。位1019-54。賢公)。ヤロスラフ1世は、近隣の諸民族を制圧し、公国最大の領域をしたがえた。ギリシア正教とビザンツ文化が完全に根付き、ロシア最古の法典"ルースカヤ=プラウダ(ルス法典。ルーシのプラウダ(法)の意味)"を編纂するなど、文化的にも政治経済的にも盛時を迎えた。

 しかしヤロスラフ1世没後、領土は息子たちに分割相続され、やがて内乱が勃発、分裂状態になった(分領公)。よって大公の中央集権的統一は薄れ、諸公国の封建的傾向が強まったことで、農民の農奴化が進展していった。他民族の侵攻も激しくなり、中でも13世紀半ば、モンゴル帝国の軍隊を率いたバトゥ(1207-55。チンギス=ハンの長子ジュチの子)からの攻撃(1240バトゥの西征。1236-42)によってキエフを占領、同公国は国家統治並びに領土統一の機能を失い、バトゥの建国したキプチャク=ハン国(1243-1502。首都:サライ)に貢納を余儀なくされ、ウラディミル大公国など他のロシアの諸公国も同様にモンゴルに服属することとなる。キプチャク=ハン国のロシア間接統治が始まったのである。ロシアでは、キプチャク=ハン国の支配を"タタールの軛(くびき)"と呼び、ロシアの発展が遅れた原因とされた。

 14世紀前半のキプチャク=ハン国は、ウズベク=ハン(位1313-40)の時にイスラム教を採用し、ビザンツ帝国やマムルーク朝(1250-1517。首都:カイロ)との交流を通じて最盛期を現出したが、バルト東南岸地域で勢力を上げていたリトアニア大公国と友好関係を結んでいたトヴェリ公国(モスクワ北西)が台頭し、モンゴルの圧政に対して暴動が起こった(1327)。ウズベク=ハンの子はトヴェリの暴動に巻き込まれて虐殺された。

 やがて、ロシア諸公国の中で、ウラディミル大公から血を引くダニール公が1271年にモスクワに設立したモスクワ公国が地の利に恵まれて台頭していく。ウズベク=ハンに忠誠を誓っていたダニール公の子イヴァン1世(1301-40)がモスクワ公位に就いた頃は(位1325-40)、トヴェリ公国とウラディミル大公位(キエフ公国大公の血を引く。ロシア諸公国の優越権の象徴)をめぐって争い始めた。ウズベク=ハンはモスクワ公イヴァン1世に大軍を与え、トヴェリ公国を攻撃してこれを破った。この結果、モスクワ公イヴァン1世は、ウズベク=ハンに功を認められ、1328年、ウラディミル大公位を獲得した。イヴァン1世はモスクワ公からモスクワ大公となり、モスクワ公国はモスクワ大公国となった。イヴァン1世は主教(bishop。カトリックでは司教にあたる聖職。またはその聖職に就いている者)をモスクワに迎えて、府主教座をウラディミルからモスクワに移し、ロシア正教会の勢力の支援も確保した。こうしてモスクワ大公国は繁栄し始めていった。イヴァン1世のあだ名は"カリター"と言い、"お金の袋"を意味する。ウズベク=ハンの信任によって、キプチャク=ハン国のロシア諸公国に対する貢税徴収の取立・納入を担い、巨万の富を得たことに因んでいる。またモスクワはコンスタンティノープルに続く東欧の中心都市として"第2のコンスタンティノープル"と称された。

 ウズベク=ハン、イヴァン1世が没し(1340)、14世紀後半になると、キプチャク=ハン国のハン位は短期交代が激しくなり、政情が不安定化していった。それとは対照的にロシア勢力はますます強化され、同時に"タタールの軛"からの脱出を願うようになっていった。モスクワ大公ドミトリー(位1359-89)のとき、ドン川(アゾフ海に注ぐ大河。下流のヴォルガ=ドン運河でヴォルガ川と結合)流域のクリコヴォでドミトリー公のロシア諸公の連合軍(10万)とキプチャク=ハン国のママイ=ハンの率いるモンゴル軍(13〜15万)が衝突した(クリコヴォの会戦)。結果ドミトリー公率いるモスクワ大公国側がキプチャク=ハン国を撃ち破り、"タタールの軛"に対し、初めて勝利をもたらした。完全に解放とまではいかなかったものの、ドミトリー公は戦勝者としてロシア民から讃えられ、"ドン川"を意味する"ドンスコイ"と称された(ドミトリー=ドンスコイ)。キプチャク=ハン国はその後衰退、サマルカンドを首都においたティムール帝国(ティムール朝。1370-1507。開祖はティムール。在位1370-1405)の数度の攻撃を受けて弱体化し分裂、ハン国家は縮小化した。跡地では、西部にはカザン=ハン国(15C前半-1552)・アストラハン=ハン国(1466-1556)・クリム=ハン国(1430頃-1783)、東部にはトルコ系ウズベク人(現在ウズベキスタンなどに居住。ブハラヒヴァコーカンドの3ハン国を建設)やトルコ系カザフ人(カザーフ人。現在カザフスタンなどに居住)らの国、北部にはシビル=ハン国(1556-1600。"シベリア"の語源)らが独立していった。

 モスクワ大公国はイヴァン3世(位1462-1505)の時に急成長した。イヴァン3世はノヴゴロドなど諸公国を攻めてモスクワ大公国に併合(1471-78)、ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンディノス11世(ドラガシス。位1449-53)の姪ゾエ=パライオゴス(ソフィア)と結婚(1472)してビザンツ帝国(ローマ帝国)の皇帝の後継者、およびをギリシア正教の守護者を自認し、ローマ帝国の権力の象徴である紋章"双頭の鷲"と、ローマ皇帝の称号として使用された"カエサル(ユリウス=カエサル。BC100-BC44)"のロシア語形"ツァーリ("ツァーリズム"の語源)"を継承した。そして、1480年、侵攻してきたキプチャク=ハン国をウグラ河畔で駆逐、イヴァン3世はキプチャク=ハン国への貢納を拒否する宣言を発し、遂に250年に及ぶ"タタールの軛"から完全に解放された。キプチャク=ハン国はクリム=ハン国と結んだイヴァン3世の軍により、1502年、遂に滅亡した。

 モスクワはローマ、コンスタンティノープルに続く、世界を誇る大国家の首都として"第3のローマ"と称された。統一を達成したイヴァン3世は自称"全ロシアの君主"を宣言して貴族の権力を抑え、1497年には全国一律の「イヴァンの法令集」を制定して法典を整備、農奴制強化によって農民の移動を禁止して大公の中央集権力を伸ばし、後のロシア帝国の基礎をつくった。

 イヴァン3世の孫イヴァン4世(1530-84)がモスクワ大公に即位したのは1533年である。父である前大公ヴァシーリー3世(位1505-33)が没した年、イヴァン4世が3歳の時であった(公位1533-84)。当時は大貴族の権力が強く、大公も翻弄されたが、17歳の時親政を始め(1547)、この時公式に皇帝の称号とする"ツァーリ"を称した(雷帝。グロズヌイ。帝位1547-84)。野心旺盛な貴族を退けるために、貴族より下の戦士階級(ドヴォリャネ)を抜擢するようになった。

 イヴァン4世は、1552年にカザン=ハン国、1556年にアストラハン=ハン国を征服してヴォルガ川流域を支配下に入れ、シベリアやカスピ海へのルートを開いた。シベリア地方へは、コサック族(カザーク。コザック。もと流民。辺境の戦士集団。ドン、ヤイク、シベリアなど)の首領イェルマーク(?-1584/85。ドン=コサック族)に西シベリア地方を開拓させ(1581)、シビル=ハン国を襲撃して後の東方拡大計画の基礎をつくった。またバルト海では東岸一帯のリヴォニア地方の争奪をめぐり、晩年までスウェーデン、デンマーク、ポーランドらと戦った(リヴォニア戦争。1558〜1583)。

 内政では、ギリシア正教の総主教を兼任、貴族中心の会議を抑えて身分制議会を設け、地方行政を整理して中央集権化に努めた。その代表的な制度がオプリチニナ(近衛府)と呼ばれるもので(1565-72)、イヴァン4世が"雷帝(グロズヌイ)"と呼ばれた所以がここにある。
 まず農奴制の強化である。土地台帳管理を徹底させ、農民の移住を禁止して自由を奪った。そして貴族に対しては領地の強制没収、反抗するもと分領公出身の貴族を容赦なくテロリズムでもって粛清した。またツァーリに反対するノヴゴロドの住民を抹殺するなど、恐怖政治によって雷帝は暴君化していき、オプリチニナ廃止後も専制化を強め、ドヴォリャネを中心とする士族階級の利益を図った。しかしモスクワ大公国の領土は、徐々に荒廃の一途をたどっていった。

 雷帝は1581年(1582?)、不仲になった皇太子イヴァンを殺害してしまい、大公国の再建もかなわずイヴァン4世は失意のうちに没した。没後、皇太子イヴァンの弟フョードル(1557-1598)が即位した(フョードル1世。位1584-1598)。フョードル1世は病弱で公国再建の能力は備わっておらず、フョードル1世の妃の兄であるボリス=ゴドゥノフ(1552?-1605)が権力を握っていった。
 実は、溯ること15世紀中葉、この時代はビザンツ帝国がオスマン帝国(1299-1922)に滅ぼされるという劇的な事件があり(1453)、このため、陥落したコンスタンティノープルに置かれていた総主教の権威も喪失し、東方正教であるロシア正教会が総主教の相続者であるとの意識が高まっていた。時が経って1589年、結局ボリス=ゴドゥノフの尽力でモスクワにも総主教座が置かれ、東方教会におけるロシア正教会の首位性が強まった。

 こうしたゴドゥノフの偉業で、周囲の支持が集まり始めた頃、フョードル1世の時期ツァーリと思われた幼い実弟ドミトリー(1582-1591)が原因不明で没し、国内に衝撃が走った。さらにタタール貴族を祖先に持つ非リューリク系統のボリス=ゴドゥノフによる殺害説が浮上した(真相は謎である)。その後、コサック農民を中心に大反乱もおこり(1595-96)、政情不安定は深刻化、リューリク朝の余光にすがりついても、フョードル1世は打開策が出せず、解決にはほど遠かった。

 結局フョードル1世は、リューリク朝の後継者となる子が、流産と夭逝で最後まで恵まれず、1598年に没し、862年のノヴゴロド公国建国以来、血が絶やされず続いたリューリク家は遂に断絶(リューリク朝滅亡)、各地で分領公出身の貴族や農奴制に縛られた農民が息を吹き返して混乱が起こり、ロシア動乱時代に突入した。そんな中でボリス=ゴドゥノフがツァーリに選抜会議で選ばれ(帝位1598-1605)、ゴドゥノフ朝が開基されたが、農奴対策は失敗を重ねていき、混乱を収束することができなかった。ボリス=ゴドゥノフは動乱時代が終わることを知らずして没し、ツァーリ空位時代がおこった。ロシア帝国として安定期を迎えるのは、同じく非リューリク系統のミハイル=ロマノフ(1596-1645)がツァーリに選ばれ(位1613-45)、ロマノフ朝(1613-1917)が開基されてからであった。

 今回はロシアの初期王朝であるリューリク朝の栄枯盛衰をお話ししました。高校の教科書では、@ノルマン人の民族移動期、A東スラヴ人の地で強大化するモスクワ大公国の興亡期、そしてBイヴァン4世が没してミハイル=ロマノフが登場し、ロマノフ朝が展開される時代、という形で、だいたい3つの時代に分類されて記述されることが多いです。"リューリク朝"という表記はあまり教科書では使われてはいませんが、高校世界史の中でも非常に学習内容が濃く、入試でも必須の分野であることに変わりはなく、非常に重要な分野だと言えます。

 まず@ノルマン人の民族移動期ですが、ロシア関係で大事なことは、ノヴゴロド国とキエフ公国。ノヴゴロドは現在のサンクトペテルブルク(過去の名称:ペテルブルク、ペトログラート、レニングラードなど)の南にあり、モスクワからみると北西に位置しています。ノヴゴロドをまっすぐ南へ下っていくとキエフ市があります。現ウクライナの首都です。リューリク朝の生みの親であり、ルス(ルーシ)族の首長で、ノヴゴロド国の建国者であるリューリクと、ルーシがロシアの語源であることは超重要です。

 つづいてAの東スラヴ人の地で強大化するモスクワ大公国の興亡期についてですが、今回はこの分野が重点的であるといって良いでしょう。キプチャク=ハン国に支配されて、いわゆる"タタールの軛"状態から、モスクワ大公国として統一していくまでのお話です。この時代はキエフ公国が分裂して各地に公国が割拠していた時代ですが、その中でモスクワ公国が台頭していきました。そして、イヴァン1世の時モスクワ大公国となり、イヴァン3世の時にキプチャク=ハン国から独立して(1480)、イヴァン4世の時に中央集権化が促進されると言った具合ですが、イヴァン3世がキプチャク=ハン国から独立した1480年という年代は覚えておいて下さい。予備校時代に"一夜晴れ晴れイヴァン3世"という覚え方を教わりました。またツァーリを称したのもイヴァン3世、ただしツァーリを正式に使用したのはイヴァン4世であることもお忘れなく。イヴァン4世の治世ではドン=コサックの首領イェルマークがシベリア遠征を行って近世のロシアの東方進出のきっかけを作ったことも大事です。ちなみに他のコサック関係で大事なのは、本編より後の時代ですが、1670年から71年にかけておこったステンカ=ラージンの反乱、そして女帝エカチェリーナ2世(位1762-96)の治世下でおこったプガチョフの反乱(1773-75)が重要です。

 そして最後のBイヴァン4世が没してミハイル=ロマノフが登場し、ロマノフ朝が展開される時代ですが、イヴァン4世からミハイル=ロマノフまでの間にでてくるフョードル1世とか、ボリス=ゴドゥノフとかは有名な人物なのですが受験にはまず登場しません。しかしこの時代に総主教座がモスクワにおかれたこと、これによってロシア正教会の首位性が高くなっていったということ、さらにこのきっかけを作ったのが、ビザンツ帝国の滅亡であるということは、マイナー事項ですが知っておいてほしいです。そしてツァーリを使用し始めた頃からモスクワ大公国というよりもロシア帝国の意味合いが濃いのですが、実際はずっと後になって、ロマノフ朝の大帝・ピョートル1世(1682-1725)が「ツァーリ」を「インペラトル」と称した1721年頃で、"ロシア帝国"としての意味合いが強くなったと思います。

 それ以外でポイントといえば、キプチャク=ハン国が分裂した時に独立していったハン国(カザン=ハン国、クリム=ハン国、アストラハン=ハン国、シビル=ハン国)や、ウズベク族が築いたブハラ、ヒヴァ、コーカンドの3ハン国も知っておきましょう。本編でも承知のとおりシビル=ハン国はシベリアの語源であることも大事です。またクリム=ハン国の中心地となったところは、クリミア半島です。あと、紛らわしいですが、モンゴル帝国分割後にイラン地方で栄えたイル=ハン国(1258-1353。首都タブリーズ)の君主で、同国をイスラム国教化を実施したガザン=ハン(位1295-1304)と、本編に登場したカザン=ハン国とは無関係です。またキプチャク=ハン国の英主ウズベク=ハンと、ウズベク族が築いたブハラ=ハン国の別名ウズベク=ハン国とも無関係ですので注意して下さい。

世界史の目に戻る
参考文献

Copyright (C) KOBE MANTOMAN SHIDOU SENMON GAKUIN All Rights Reserved.