世界史の目-Vol.67-

西アジアの激動・その1~二重外交・委任統治~

 イェルサレムを中心都市とするパレスチナ(地中海東岸)。ユダヤ人(ヘブライ人)にとっては、ソロモン王(位B.C.961?/B.C.971?-B.C.922?/B.C.932?)の栄華時代の舞台であり、キリスト教徒にとってはイエス=キリスト(B.C.4?-A.D.30?)の生誕・死・復活の地である。パレスチナは、A.D.6年、ローマ帝国(B.C.27-A.D.395)の属州(ぞくしゅう。プロウィンキア。ローマの征服地で、総督が統治)となり、同地にいたユダヤ人は、総督に反抗して反乱をおこした(ユダヤ戦争。第1次A.D.66~、第2次131~)。反乱に失敗したユダヤ人は、イェルサレムから追放され、圧政を逃れて各地に分散していった。ユダヤ人はユダヤ戦争後、1948年のイスラエル建国まで、およそ2000年近く祖国を失った状態となる。ユダヤが立ち退いたパレスチナにはアラブ人が住みつき、7世紀イスラム教徒となり、イェルサレムはメッカやメディナに次ぐ第3の聖地となっていった。ユダヤ、キリスト、イスラムの3宗教の聖地イェルサレムをかかえたパレスチナは、その後十字軍をはじめとして、宗教的見解から様々な勢力興亡の舞台となった。

 1517年、スンナ派イスラム世界の盟主オスマン帝国(オスマン=トルコ。1299-1922)の9代目スルタンセリム1世(位1512-20)は、十字軍を敗ってイェルサレムを固守していた強力なイスラム帝国マムルーク朝(1250-1517)を遂に滅ぼした。マムルーク朝に亡命し、保護されていたアッバース朝(750-1258。スンナ派。アラブ人のカリフ国)のカリフから、カリフの称号を簒奪し、オスマン帝国におけるスルタン=カリフ制度が完成し、メッカとメディナ、それにイェルサレムの支配権を獲得してイスラム世界の頂点に立った(この頃は"カリフを兼ねたスルタン"とだけとどめ、実際にスルタン=カリフ制度と呼ばれるようになったのは18世紀後半とされている)。パレスチナはオスマン帝国の支配下におかれたのである。

 そのオスマン帝国は、1914に勃発した第一次世界大戦で、同盟国軍(ドイツ・オーストリアのもと三国同盟組と、ブルガリアを含め4国)のメンバーとして参戦し、連合国軍(イギリス・フランス・ロシアの三国協商組、セルビア・モンテネグロ・日本・ルーマニア・アメリカ・中国・三国同盟から脱退したイタリアなどを含め27国)を相手に戦うことになった。この時連合国側は、敵オスマン帝国に着目して、オスマン帝国の統治下で民族主義を訴えていたアラブ人を挑発させて、オスマン帝国に対して独立運動をおこさせ、オスマン帝国を分割する提案を挙げた。イギリス(連合国側)は、駐エジプトの高等弁務官に就いているイギリス軍人のアーサー=ヘンリー=マクマホン(1862-1949)が中心となり、この計画に動いた。マクマホンはメッカのサイイド(シャリーフともいう。ムハンマドの一族とされる者に対する尊称)であるフセイン=ブン=アリー(フサイン。1852/3/4?-1931)に対して書簡を送った(1915.7-16.3)。

 その内容によると、イギリスはオスマン帝国下のアラブ諸国に対して独立を承認し(マクマホン宣言)、さらにオスマン帝国に対するアラブ側の反乱を支援するというもので、アラブ諸国側からしてみれば、大国イギリスからの願ってもいない援助であった。フサインは、イラク・シリア・パレスチナを含むアラビア全土の大アラブ王国の構想を期待しながら、シリアの民族運動と連携し、マクマホンからの要求を受け入れ、書簡を返信した。この往復書簡により、アラブ側とイギリスとの間に「フサイン=マクマホン協定」が成立した。1916年6月、フサインはファイサル(1883/85?-1933)ら息子たちとオスマンに対する反乱を起こした(アラブ反乱)。ヒジャーズ地方を以前から仕切っていたフサインは、マクマホンとの協定によって「アラブ人の王」と自称し、アラブ反乱に乗じて、メッカを首都にヒジャーズ王国(1916-25)を建設した。

 ところが、アラブ反乱勃発の前月にあたる5月16日、イギリスはフランス・ロシアと秘密外交を結んでいた。外交官であるイギリス代表のマーク=サイクス(1879-1919)とフランス代表のジョルジュ=ピコ(1870-1951)が中心となり、オスマン帝国領(トルコ領)をイギリス・フランス・ロシア3国で分割することを協定し、シリア・イラクを勢力圏におき、パレスチナを国際管理地とする内容であった。このサイクス=ピコ協定は明らかにフサイン=マクマホン協定と矛盾していた。石油など、同地方の豊富な資源を確保する目的であった。

 こうした中でも、子のファイサル王子によるアラブ反乱は進み、1918年10月、シリアのダマスクスに歓喜の入城を達成したが(アラブ終戦)、これはイギリスの支援もあってのことだった。彼らアラブ人部隊を支援したのは、イギリス陸軍情報将校/参謀であるトーマス=エドワード=ローレンスロレンス。1888-1935)である。ロレンスは元来中東を主に研究する考古学者で、大英博物館でイラク発掘探検隊に参加したこともある。ロレンスは、反乱の勃発した1916年の10月にファイサル王子と会見し、アラブとの約束を軽視する傾向のある本国イギリスの姿勢に疑問を抱きつつも、アラブ軍の理解者として、またトルコ打倒に専念した。翌1917年7月にはゲリラ戦による奇襲攻撃でオスマン領アカバ(現ヨルダン唯一の港市。アカバ湾で有名)を落とし、アカバはヒジャーズ王国に併合された。11月になるとロレンスはダマスクス南方の町デラアの偵察へ、現地人姿に化けて行ったが、オスマン軍に捕虜となり、イギリス人とばれてリンチを受けたこともあったが(これが"デラア事件"で、映画の1シーンで有名)、脱出に成功し、アラブ部隊に出迎えられた。こうしてロレンスは"アラビアのロレンス"の異名をとり、その体験は彼が1926年に著した『知恵の七柱』で詳しく紹介された。

 デラア事件が落着した直後、秘密条約(秘密外交)であったサイクス=ピコ協定の内容が全世界に公開された。これは、その後ロシアが列強を敵に回す結果となるロシア革命において、レーニン(1870-1924)率いる新政府が、ロシア十一月革命を果たして、帝国主義列強の秘密条約の文書暴露をおこなったことで明らかとなった。フサイン自身にとっても、ヒジャーズ王国を大アラブ王国にする構想はうち砕かれてしまった形となる。
 しかも、デラア事件が起こる20日ほど前、イギリス政府は今後さらなる波紋を呼び起こすような、大きな矛盾を作っていた。バルフォア宣言1917.11.2)である。バルフォアとは、イギリス外相アーサー=ジェームズ=バルフォア(1848-1930。任1916-19)のことで、過去に首相(任1902-05)と海相(任1915-16)の経歴があり、首相時代に英仏協商1904)を結んだ功績がある政治家である。バルフォアはオスマン分割政策において、戦費の必要から、戦争協力支援の矛先をユダヤ人の金融資本に向けた。そして、当時シオニズム運動国家を持っていないユダヤ人による、パレスチナでの国家再建を主張した、祖国復帰運動。アラブ系住民と対立。イェルサレムの雅名"シオン"に因み、運動者をシオニストという)を展開しているイェルサレム地方のユダヤ人に着目し、アラブとユダヤの対立を企て、パレスチナにユダヤ人の民族国家の建国を支持すると表明したのである。こうして、サイクス=ピコ協定、フサイン=マクマホン協定、バルフォア宣言と、アラブ人の心情を逆撫でするようなイギリス政府の外交は"二重外交"と呼ばれ、このために今日まで残るユダヤとアラブの、出口の見えない対立を生む原因となってしまったのである。

 1918年11月、第一次世界大戦が終結した。連合国軍の勝利であった。翌1919年1月にパリ講和会議が開催、ファイサルも参加してアラブの独立を主張した。1920年1月20日には国際連盟が発足、敗戦したオスマン帝国の手から離れた支配領土を、連盟監督下で先進国の保護に委ねることに合意し、旧オスマン領は委任統治となった。イギリスはイラクパレスチナヨルダン(トランス=ヨルダン)など、フランスはレバノンを含むシリアを委任統治領とした。シリアではファイサルが1920年3月に国王として独立宣言したばかりであったが、7月フランス軍によるダマスクス制圧でファイサルは宣言を撤回させられ、追放処分となった。また同じく独立を希望するイラクでも、委任統治に対する反乱が勃発し、委任統治の見直しが迫られた。

 フサイン=マクマホン協定を空文化したことで、本国は最初からアラブの独立を考えておらず、あくまでもイギリス国益のためアラブを利用した作戦であったことに、ロレンスは深く絶望し、陸軍省を去る決意をしたが、当時の植民相ウィンストン=レナード=スペンサー=チャーチル(1874-1965。のちの首相。首相任1940-45,51-55)の要請で1921年、植民省顧問となった。ロレンスも出席した3月のカイロ会議でファイサルを国民投票によってイラク国王に就かせることに決定、ファイサルはイラク王国の国王となった(ファイサル1世。位1921-33)。
 ロレンスは植民省顧問を退職後(1922.7)、これまでの記憶と経験を封印するため、"ジョン=ヒューム=ロス"や"T=E=ショウ"という偽名で空・陸軍に一兵卒として入隊・除隊を繰り返すなど奇行を重ねた。1935年2月に空軍を満期除隊したロレンスは5月、オートバイ事故により、46年の生涯を終えた。

 一方で、ファイサルの父フサインのヒジャーズ王国では、フサインの統治能力に対して、その支持力を失っており、1924年、カリフを自称したフサインに対し、ネジド王国を所有するサウード家(イスラム宗派ワッハーブを保護するアラビアの豪族。ワッハーブ王国(1744-1818,1823-89)をワッハーブ派と建国)のイブン=サウード(アブドゥルアジーズ。1880-1953)の攻撃にあい、同年王国は遂に滅ぼされ、フサインは退位、翌25年キプロス島に亡命した。フサインのアラブ統治国家の夢は幻となり、彼は1931年、アンマンで没した。イブン=サウードは1926年、自身のネジド王国と吸収したヒジャーズ王国をあわせて"ヒジャーズ=ネジド王国"と改称、翌27年にはイギリスより独立を承認、1932年、ワッハーブ王国時代から中心都市であったリヤドを首都に、"サウード家のアラビア王国"、つまりサウジアラビア王国の誕生を実現させ、イブン=サウードは国王となった(位1932-53)。

 その後、シリアは1936年、フランスから自治を認められ、第二次世界大戦(1939-45)後の1946年にシリア=アラブ共和国として完全独立した。同じくフランスの委任統治領で、シリア内に入っていたレバノンも1943年に分離独立して共和国となる。ヨルダンはイギリスの承認でトランス=ヨルダン王国を称し、1946年に完全独立して、1949年、ヨルダン=ハシミテ王国と改称した。ファイサル1世が統治するイラク王国は、その後国際連盟に加盟(1932)、順調に歩んでいくと思われたが、民族上・宗教上の内紛があとを絶たず、ファイサル1世は解決を見ないまま1933年に没した。

 そして、イギリスの委任統治下にあったパレスチナでは、ヨーロッパのユダヤ人による植民活動が盛んとなり、国家誕生を願いながら、シオニストによってアラブ人の土地を買い取って産業基盤を形成していった。このためアラブ農民が失地を余儀なくされた。二重外交の波紋は消えることなくアラブとの対立は時代を追う事に激化していき、アラブに対する敵対や差別が強まった。
 1929年、パレスチナで衝突事件が起こった。古代ユダヤ人の聖地だったイェルサレムのソロモン王神殿は、ローマ属州時代に破壊されていたが、その遺構は"嘆きの壁"として残り、委任統治下におけるユダヤ人の拠り所であった。そして、何人かのシオニストがこの"嘆きの壁"で"ハティクヴァ(現・イスラエル国歌。「希望」の意)"を歌ったことでアラブ人が激怒し、ユダヤ人(ユダヤ教)とアラブ人(イスラム教)が衝突して数百万人の死傷者を出す事件が起こった。いわゆる"嘆きの壁事件"である。
 1933年にドイツでナチス政権が誕生すると、さらなるユダヤ系の移民が急増し、パレスチナにおけるユダヤ人口は、1940年代には委任統治前の5倍に膨れあがった(約40万人)。これに刺激したアラブ人は、1936年から39年にかけて、パレスチナ各地でユダヤ移民の即時停止要求と、民族政府樹立を宣言するなど、反乱やデモが繰り返された。イギリスはこれを武力制圧し、1937年ピール調査団を送って、現地を調査した結果、送られたピール報告書では、パレスチナを、ユダヤ人国家とアラブ国家に分割する案を提示するというもので、イギリスの委任統治を終了させる必要性も強調された。

 イギリスの中東統治においては、アジア系アラブ人よりも、イギリスと同じヨーロッパ系であるユダヤ人を優先する方向が強くあらわれていた。パレスチナを分割する提案は、シオニズム運動をおこしてきたユダヤ人シオニストにとってはユダヤ人国家の樹立を認知するというものであり、40年代最後にユダヤの国"イスラエル共和国"を誕生させるきっかけとなり、アラブとの激しい戦争を引き起こす原因にもなっていくのである。しかし総合的に考えて、これら様々なパレスチナ問題は、当時の情勢から生まれた二重外交に端を発したものであり、帝国主義に染まった時代が残した大きな爪痕は、今も消えてはいない。

 Vol.62でお約束しましたとおり、中東情勢をお送りしました。前半は、ロレンス、ファイサル1世、フサインらを中心にイギリスの二重外交の経緯を、後半はイギリス委任統治下での様々な問題についてお話しさせていただきました。

 主権・人権が重視されなかった後進国や後進民族を制圧して、豊富な資源(石油・石炭・天然ガスなど)や絶好の地理条件(不凍港・交通の便など)を獲得することが帝国主義時代の列強のやり方でした。アラブ人にとって歓喜に涌いたフサイン=マクマホン協定、ユダヤ人にとって歓喜に涌いたバルフォア宣言、またフランスやロシアにとって歓喜に涌いたサイクス=ピコ協定と、当然、後でバレバレになるような協定や宣言を堂々と発した当時のイギリスですが、秘密外交や秘密条約が当たり前の時代でありましたし、当時の帝国主義時代だからこういう奇策ができたと言っても良いでしょうね。しかし、この二重外交の結果、多くのパレスチナ難民を生みだして、戦争で多くの人々が犠牲になっていることを考えると、現代人における帝国主義時代に対する理解は、絶対に避けては通れない単元であると言えます。わが国日本でも、朝鮮や満州の支配権をめぐっておこされた1904年の日露戦争などは完全な帝国主義的戦争であると言えますね。

 今回はアカデミー賞を受賞した映画でもお馴染みの"アラビアのロレンス"が登場しました。アラブ解放の功労者として讃えられる一方、帝国主義に利用された一青年(アラブ反乱が起こった時、彼は28歳です)としての批評もありますが、今回の悪役となっているイギリスで、唯一英雄視されています(映画では、気骨とも"奇骨"ともいうべき英雄ロレンスの姿が、描写されています。一見の価値ありです)。でも残念ながら高校世界史にはロレンスをはじめファイサル1世の項目はほとんど登場しません。ですので、入試においても2人が出題されるケースは稀です。フサインは"フセイン"として、フセイン=マクマホン協定の名前で登場します。その、フセイン=マクマホン協定、サイクス=ピコ協定、バルフォア宣言は今回最も出題頻度の高い項目ですので、必ず知っておいて下さい。

 ちなみにオスマン帝国がアラブ反乱後、急に姿を消していますが、ここでその後のオスマン帝国の情勢を少しご紹介しましょう。第一次世界大戦の敗戦国として、ドイツにヴェルサイユ条約を突きつけられたのと同様、オスマン帝国もセーヴル条約という講和条約を突きつけられています(ちなみに他の敗戦国の講和条約も重要。ブルガリアはヌイイ条約、ハンガリーはトリアノン条約、オーストリアはサン=ジェルマン条約)。ヴェルサイユ体制の講和条約は、領土没収・軍縮など、敗戦国にとってはどれも屈辱的条約です。こうした中で、オスマン帝国内では、トルコ国民党を結成したケマル=パシャ(ムスタファ=ケマル。ケマル=アタテュルク。1881-1938)が、トルコ革命(1922-23)によって衰退した国運を蘇らせます。スルタン廃止(これでオスマン帝国は滅亡)、国境画定(ローザンヌ条約)、カリフ廃止チャドル廃止、ローマ字採用、憲法発布など、まさに"トルコ人の父(=アタテュルク)"にふさわしい、新しいトルコ共和国の誕生を実現させたのであります。この話は奥深いですので、機会があれば別の機会に話すとしましょう。

 国際連盟が誕生して、中東は英仏の委任統治領となったのですが、イギリスはイラクとヨルダンとパレスチナ、フランスはシリアをそれぞれ委任統治しました。これはよく出題されますので絶対に覚えておきましょう。またレバノンはシリアから分離してできた独立国です。これも大事です。あと、ヒジャーズ王国・ヒジャーズ=ネジド王国はマイナーですが、サウード家のイブン=サウードは絶対知っておきましょう。またサウード家はイスラム一派のワッハーブ派に協力を頼まれて19世紀にワッハーブ王国を築いていました。途中エジプト太守のムハンマド=アリー(1769-1849)に横槍を入れられ滅んだものの、結果としてサウジアラビア王国として大変身しています。リヤドが首都であることも大事です。イブン=サウードは、サウジアラビア王国の宗教として、ワッハーブ派イスラム教を国教化しています。

 さて、次回も西アジアのお話をご紹介させていただきます。よろしく!

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