世界史の目-Vol.68-

西アジアの激動・そのイランの情勢

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 第一次、第二次世界大戦の最中、めまぐるしく動く西アジアの中で、異なった動きを見せたのはペルシア(1935年までのイランの呼称)であった。シーア派のサファヴィー朝(1501-1736)が滅亡して以来、アフシャール朝(1736-96)・ザンド朝(1750-95)を経て、1796年に建設されたカージャール朝(1796-1925。首都テヘラン)では、19世紀、ロシアの攻撃を受けてグルジアやアゼルバイジャン北部は併合され、不平等条約であるトルコマンチャーイ条約1828)でアルメニアを取られ、開国させられた。またアフガニスタンをめぐってイギリスと抗争をおこない、結局イギリスと不平等条約を結ぶ羽目になった。国内でも政情が不安定化し、経済破綻が続発した。この社会不安を解決する救世主(マフディー)の再臨を呼ぶ声が高まり、サイイド=アリー=ムハンマド(1819-50)の始めたバーブ教による英露排外運動が起こり、激しく弾圧された(バーブ教徒の乱。マフディーの反乱)。

 また4代目国王ナッセレディーン=シャー(位1848-96)の治世下、英露の経済支配が強まり、特に1890年におけるタバコの専売利権のイギリス譲渡(原料買付から流通全般に渡る全利権)の契約が成立して以降、バザール(イスラム世界の市場の意味)商人をはじめとするペルシア国民の不満が集中し、イスラム思想家アフガーニー(1838?-1897)や十二イマーム派(シーア派の一派)の最高権威らによって喫煙のボイコットを国民に訴え、抵抗した(タバコ=ボイコット運動)。列強の支えによって専制化した国王に反することによって、ペルシア国民によるナショナリズムが高揚していったのである。しかしその後も体制は変わらず、イギリスが石油利権(イラン産石油の採掘権・精製権)を獲得する(1901)など、干渉は続いた。

 国民議会を求めるペルシア国民が、英露介入と国王専制に反する運動の規模が最大に達したのは、1905年である。この年、砂糖の価格が高騰したため、国王がある砂糖商人を罰した事件が起こった。これに憤慨した国民は専制反対運動を激化させたため、5代目王モザッファロッディーン=シャー(位1896-1907)はこれに屈して翌1906年、第1回国民議会を召集、憲法を発布した(イラン立憲革命)。議会は、封建的特権を取りやめ、英露の経済介入を審議し、利権譲渡・外債を拒否した。イギリスとロシアは、当時ドイツのトルコ進出を警戒する目的で、相互に干渉しているペルシアやアフガニスタン、チベットなどの利害関係を調整することにし、1907年英露協商を結ぶに至った。これにより、これまで結んだ1891年の露仏同盟、1904年の英仏協商と合わせ、英仏露の三国協商ができあがる形となった。

 英露協商の成立によって、アフガニスタンはイギリスの勢力範囲となり、チベットは両国内政不干渉の立場を取って中国の主権を認めた。そしてペルシアは、北西部をロシア、南東部をイギリスがそれぞれ勢力範囲とした(1907。ペルシア分割案)。これによって翌1908年から、ロシアの介入が始まり、イギリスもこれを黙認した。6代目国王ムハンマド=アリ=シャー(位1907-09)はロシアに押されて、同1908年、武力を用いてペルシアの国民議会弾圧にふみきり、憲法を廃止した。このためアゼルバイジャン地方にあるかつてのサファヴィー朝の首都として置かれたタブリーズ市やイスファハン市の民衆は義勇軍を組織してテヘラン進軍を行い、ムハンマド=アリ=シャーは逃亡を余儀なくされ、7代目国王アフマド=シャー(位1909-25)が即位、国民議会は再開された。しかしその後も議会はロシアとの対立を続けたため、1911年、遂にロシアはペルシアへの軍事介入をおこない、国民議会を弾圧、閉鎖させた(イラン立憲革命終結)。その後英露間では、ロシア革命(1917)によって、反共に向かったイギリスがロシア新政府を警戒しはじめ、英露協商によるペルシア政策は破綻に向かった。このような情勢下、ペルシアでも異変が起こった。革命によってロシアが北西部を撤退して以降、今度はイギリスの干渉が迫ってきたのである。

 第一次世界大戦中のカージャール朝ペルシアは中立の立場をとり、ある程度自主権を回復させたが、ロシアが北西部撤退後はイギリスの介入が始まり、ペルシア全土を勢力下におくため保障占領し、イギリス=イラン協定を結んでペルシア保護国化を行った(1919)。しかし翌1920年には北西部のアゼルバイジャン地方においてソ連側が臨時政府を樹立したことによって、ペルシア国民による列強干渉への抵抗運動の勃発を予感させたため、イギリスは、ペルシア=コサック師団の将校であるレザー=ハーン(1878-1944)を使って、クーデタをおこす計画をたてた。レザー=ハーンは1921年2月、2500人の兵を率いてテヘランを占領、国政に反する勢力を武力で弾圧し、また臨時政府を打倒してロシア勢力を制圧した。イギリスによる作戦は成功した。ソヴィエトの共産勢力を阻むためにペルシアを親英政権にする必要があったのである。

 ところが、レザー=ハーンは愛国派であり、親英政権も快く思わず、イギリス=イラン協定の破棄を宣言するなど、不平等条約の撤廃に努めた。その後議会を操り独裁的権力を握ったレザー=ハーンは、軍司令官となり、1923年にはペルシア首相に任命された(任1923-25)。
 1925年、国民議会ではアフマド=シャーによるカージャール朝の存在意義について審議され、レザー=ハーンはカージャール朝の廃止を決議、これによりカージャール朝は滅亡、アフマド=シャーは退位させられた。12月、レザー=ハーンはペルシア王朝代々の王号である"シャー"を称し、新国王レザー=シャー=パフレヴィー(位1925-41)としてパフレヴィー朝ペルシア(1925-79)を開基した。

 レザー=シャー=パフレヴィーが王位に就いて以降、国内では様々な諸改革がおこされた。トルコ革命におけるケマル=アタテュルク(1881-1938)の実施した諸改革を手本に、財政改革(アメリカ人財政顧問招聘。1922-27)・司法改革(1926)・国民銀行の創設(1927)・義務兵役制度の導入(1929)・鉄道敷設(イラン縦貫鉄道。1938)・国名改称1935。"ペルシア"から"イラン"へ)などの他、女性解放・教育制度改正・国際連盟加盟・産業振興を行い、ペルシアにおける"上からの近代化・西洋化"と"中央集権体制強化"に尽力した。しかし、それでもなお、イラン産の石油利権はイギリスの手中にあったままであった。

 イランは第二次世界大戦中も中立を宣言していたが、レザー=シャー=パフレヴィーのこうした全体主義的な独裁政権を、イギリスやソ連は警戒していた。イギリス・ソ連は、折しもナチス=ドイツがファシズム(全体主義)による独裁帝国を築いていたことに重ね合わせ、レザー=シャー=パフレヴィー政権を脅威に感じていた。これにより1941年、遂に英ソ両軍によるイラン進駐が行われ、親ナチスとみられたレザー=シャー=パフレヴィーは退位させられた。そして、長子のムハンマド=レザー=シャー=パフレヴィー2世(1919-80)が即位し、2代目国王となった(位1941-79)。レザー=シャー=パフレヴィーはその後マダガスカル東方の島国モーリシャスに流され、1944年、ヨハネスブルク(南アフリカ)で客死した。

 戦前のヤルタ会談(1945.2)から英ソ間では、ポーランドとバルカン諸国の今後をめぐって対立が表面化しており、戦後の英米陣営とソ連陣営が対立する、いわゆる冷戦時代がおとずれて以降は、英ソ間は真っ向から対立していた。大戦直後、ソ連軍が駐留していたイラン北部で、共産系のアゼルバイジャン自治共和国やクルディスタン人民共和国といった地方自治政権が、ソ連の指揮下で樹立された(1945)ことで、パフレヴィー2世は親英米政権に傾斜した。このため、ソ連系の地方自治政権は翌年崩壊したが、国内では愛国・民族主義運動が起こり、その矛先はイギリスが握っているイラン産石油利権に集中した。当時イラン産石油はアバダン(ペルシア湾岸付近。イラクとの国境線上)の精油所を中心とするイギリス系のアングロ=イラニアン石油会社(1909年設立)が独占していたが、この会社のイラン国有化を求める動きが強まり始めた。

 1944年に国民議会議員となったムハンマド=モサデク(1880-1967)は、民族主義運動の統一と石油利権奪還を目指し、イラン国民戦線(NF)の指導者となった(1949)。そして1951年、国民議会では石油問題特別委員会委員長となった石油国有化法案を通過させた。これにより、アングロ=イラニアン石油会社の国有化を実施、アバダンの精油所など諸施設を接収して石油利権の奪還が決定した。この功績によって、モサデクは首相に就任した(任1951-53)。このため、国王パフレヴィー2世との間に亀裂が生じ始めたと同時に、イギリスとの関係が急激に悪化した。

 翌1952年、モサデク首相は、産業振興化を図って、国王権限の制限とイギリスとの国交断絶を決めた。しかしこれが命取りとなり、イギリスはイラン産石油を国際市場から締め出したため、イラン経済は急激に悪化した。国王派は英米の支援を受けていたため、翌1953年8月、アメリカのCIA(Central Intelligence Agency。中央情報局。アメリカの諜報機関。反米政権の転覆の暗躍機関)の協力を得た国王派ザヘディの軍部クーデタによってモサデクは失脚し、イラン国民戦線は徹底的に弾圧された(イラン=クーデタ)。その後モサデクは、軍法会議で禁固3年の判決を受けた。
 これにより、イラン産石油利権は、イギリス・アメリカ・フランス・オランダ系の8社による国際石油財団が確保することになり(1954)、イラン政府は石油国有化に対して補償することが決まった。イラン国民による石油経営の夢は叶わず、クーデタの間バグダードに逃がれていたパフレヴィー2世の親英米政権が再開された。帰国後のパフレヴィー2世は"上からの近代化・西洋化"を推進する決意をする。
 1955年2月、イランの西隣国イラクは、イギリスの勧めで、反共を唱えるトルコと相互防衛を目的に軍事同盟を首都バグダードで結んだが(トルコ-イラク相互防衛条約)、同1955年11月には共産圏に対する相互防衛から集団防衛へ変わり、イギリス、パキスタン、そしてイランも参加してバグダード条約機構METO。中東条約機構。アメリカはオブザーバーとして参加)として再編成された。イランは中東の反共軍事同盟の一翼を担うようになった。

 しかし、イラクで革命が起こった。1958年7月、アラブ民族主義を主張する自由将校団カセムカースィム。1914-63)が王政をクーデタで廃し(イラク革命)、カセムは総司令官・首相(任1958-63)・国防相代理を兼任した。こうして、ファイサル1世(位1921-33)から始まったイラク王国は崩壊し、共和政へ移行した(イラク共和国)。反英のカセム首相は翌1959年、遂にMETO脱退を決め、METOは本部バグダードから撤退せざるを得なくなった。同年METOは本部をトルコの首都アンカラに移し、中央条約機構CENTO)に改称した。カセムはその後METO解体の当事者として国際的に孤立し、イラク経済も混乱、内外で批判を受けた。その後も隣国クウェート併合宣言の批判を受け、クルド人(トルコ・イラク・イランで独立運動を展開する少数民族。居住地はクルディスタン。シリア・アルメニア・アゼルバイジャンにも居住)の処理に失敗するなど失政が続き、1963年バース党(アラブ民族主義・社会主義・反帝国主義・反シオニズムを主張する民族主義政党。もともとシリアで結成され、アラブ諸国に拡大。本部ダマスクス)のクーデタでカセムは逮捕され、公開処刑された。その後もバース党はクーデタを引き続き行い、政権を掌握した(1968)。

 一方イランでは1961年、国民議会を停止させた国王パフレヴィー2世の"上からの近代化"政策を本格的に実施した。CIAの支援を受けたクーデタ以降のイラン王政は、イギリス以上にアメリカへの従属を深めていき、農地改革・森林の国有化・国営工場の民間払下げ・労働者への企業利潤配分、労使関係の規定、婦人参政権実施、識字部署創設など、政治・経済・社会全般にわたる改革を断行した。イラクでカセムが処刑された1963年にはこの改革は頂点を極め、"皇帝と人民による白色革命"といわれた。 
 しかし"白い革命"は全てが賛同したわけではなかった。上からの改革に抗議する改革反対派の宗教勢力は弾圧を受け、言論・思想は秘密警察によって制限させられた。また国王は、第1次石油危機1973.10)の翌1974年頃から膨大な石油収入を軍備増強に投じた。そのうえ石油収入は国王を含む一部有力者に独占され、急激な工業化に圧倒した多くの農民やバザール商人は没落、経済・商業は混乱に陥り、貧富の差が極度に拡大したのである。国民から不満が増大し、1978年頃から国王独裁反対運動が展開され、1月の聖地コムにおける神学生デモ弾圧事件などを代表に、テロ・スト・デモが行われた。これにより1979年1月、遂にパフレヴィー2世は退位、パフレヴィー朝イランは滅亡した。パフレヴィー2世はアメリカの保護を受けながらも各国を転々とし、エジプトで病没した(1980)。

 独裁反対運動を取り仕切っていたのはイスラム教シーア派指導者のルホラ=ムサヴィ=ホメイニ(1902-89)である。ホメイニは青年時代に苦学して有力アーヤットラー(上級宗教指導者の称号を持つ法学者)の資格を得、レザー=シャー=パフレヴィー時代の政権に対抗していた。1941年に"イジュテハード"と呼ばれるシーア派聖職者の最高学位を授与されたホメイニは、同年即位したパフレヴィー2世政権にも抵抗した。他国の干渉を最も嫌うホメイニにとっては、アメリカの保護のもとで成り立とうとしていた上からの近代化に賛意できず、改革反対派としてパフレヴィー2世の白色革命に徹底抗議したが、1963年には逮捕され、翌年トルコへ逃れ、イラクへ亡命した。イラクのナジャフでイラン王政反対運動を指導し、1971年にはイスラム法学者による統治を主張する「ヴェラーヤテ・ファギーフ」論を発表、1978年にはフランス・パリ郊外に拠点を移した。国外で実施したイラン王政反対運動は、瞬く間に支持者を呼び、ホメイニは同運動の統一的指導者と仰がれ、1979年1月、パフレヴィー2世の国外追放によって、翌2月、イランに帰国した。

 帰国後まもなく、ホメイニはイラン=イスラム革命評議会を設置し、3月、イラン=イスラム共和国の成立を宣言した(イラン革命)。12月にはイラン=イスラム共和国憲法を成立させ、イスラム教シーア派の政教最高指導者の地位(ベラーヤテ=ファキー)に就いた。そこでホメイニは、危機に陥ったイスラム世界を、開祖ムハンマド(570?-632)によって築かれてきたイスラム共同体の原点回帰をイスラム民族に自覚させ、シャリーアイスラム法)の徹底を施すことによって、イスラム世界を再生しようと考えた。このイスラム原理主義(当事者にとっては、"イスラム主義"と自称しており、"原理主義"と呼ばれることを嫌っている)は、ホメイニの目指すイラン国家の基本原理となり、シーア派やスンナ派(スンニー派)にも強力な影響を与えた。

 ホメイニ派は対外諸国やアラブの反ホメイニ派に続けざまに圧力を加えていき、全世界でその影響を受けていった。原油価格が2.4倍に高騰し、石油輸入国に影響をもたらした第2次石油危機をはじめ、1979年11月には、ホメイニ派の学生がテヘランにあるアメリカ大使館を占拠し、館員を人質にとる事件も起こった(アメリカ大使館員人質事件。1979.11-1981.1)。イスラム原理主義を掲げるイランに、欧米の大国も苦慮し、またその脅威をも痛感した。イランはその後バース党政権によって人民民主主義国家をすすめられていた隣国イラクと国境問題で対立していたが、当時イラクは大統領に就任したばかりのサダム=フセイン(任1979-2003。サッダーム。"貫く人"の意)の独裁権力にあり、アラブ民族主義を強く主張していた。フセインは革命直後のイランとの貿易を警戒する湾岸諸国や武器を供与した西側諸国の後押しを受けて、短期決戦を試み、1980年9月、遂にイランに侵攻した(イラン-イラク戦争)。これに対しイランは人海戦術で応じ、さらにイラクはイラン領内のアラブ民族自立を、イランはイラク領内のクルド人の自立を、それぞれ支持したこともあり、戦況は長期泥沼化した。
 この戦争は、戦争当事国だけでなく、その他多くの諸国にも影響を与えた。両国が互いの石油施設を攻撃したことは、全世界の石油事情の悪化をもたらすことになった。1987年、安保理決議で即時停戦と国境線までの即時撤退を採択、イランはこれを受託して翌1988年8月20日、ようやく停戦となった。アラブ諸国家の結束が破綻し、政教両分野による対立と争いによって、中東世界は混迷を続けることになる。ホメイニはその後もイラン国家を指導し、政教一致を徹底させ、1989年6月3日、テヘランで病没した(ホメイニ死去)。

 その後イラクのクウェート侵攻による多国籍軍との湾岸戦争が勃発(1990)するが、イランは中立姿勢を保ち、諸外国との緊張緩和と融和外交をすすめていくものの、アメリカとの対立はなおも続き、近年では核開発疑惑も浮上、2006年2月7日には国連安全保障理事会が国際原子力機関IAEA)からイラン核問題の付託を受理するなど、大いなる緊張を生んでいる。

 西アジアシリーズ第2弾は、現在も核問題で緊張が続くシーア派の国イランにスポットをあてました。特にアメリカ・イギリス・ロシア(ソ連)の3大国との関わりは、イラン近現代史を語る上で非常に重要なんですね。イランは隣国イラクとともに現代社会や地理などの分野でも登場しますし、入試の中東分野でもパレスチナ情勢に次いで出題が多いです。

 王政時代のイランでは、国王は"シャー"の称号を使っています。イラン国王は世界史分野ではよく出てきますね。サファヴィー朝の開祖イスマーイール1世(位1501-24)、イスファハンに遷都したアッバース1世(大王。位1588-1629)、そして本編にも登場したパフレヴィー朝の2国王(レザー=シャー=パフレヴィーパフレヴィー2世)は有名です。

 さて、今回の学習ポイントですが、まずイランはシーア派イスラム教を国教としていることは重要です。イスラム史では欠かせない用語ですね(シーア派とスンナ派の違いは「Vol.3正統カリフ時代」を参照)。そしてイランはシーア派の中でも十二イマーム派という一派に属します。ムハンマドの娘婿であるアリー(600?-661)を最初とするイスラム共同体の最高指導者をイマームといって、アリーとその妻(つまりムハンマドの娘)の直系12人をイマームと認めるというものです。レバノンも同宗教です。
 カージャール朝時代で大事なのは、①トルコマンチャーイ条約1828)でロシアアルメニアを取られた②バーブ教徒の乱③イギリスがイラン産石油利権を獲得④たばこボイコット運動⑤イラン立憲革命1906)で国民議会が作られたが、英露に阻まれます。その後英露は英露協商1907)を組織。⑥レザー=ハーンのクーデタ(1921)、といったところです。
 パフレヴィー朝時代で大事なのは、①レザー=ハーン改めレザー=シャー=パフレヴィーの王朝開基(1925)②国名改称(1935。ペルシア→イラン)③モサデク首相石油国営化(1951)④パフレヴィー2世白色革命(上からの近代化。1963年がピーク)、といったところ。
 イラン革命1979)以降で大事なのは①ホメイニの革命路線指導②イラン=イスラム共和国成立③イラン-イラク戦争(1980-88)の3点が重要でしょう。

 言うまでもありませんが、イランの首都テヘランは覚えておきましょう。ちなみに隣国イラクの首都はバグダードです。私の授業では、イラとバダードは"ク・グ"つながり、イランとテヘランは"ランラン"つながりっていう覚え方で教えています。テヘラン関連では、第二次世界大戦中に行われたテヘラン会談が有名です。アメリカはローズヴェルト大統領、イギリス首相チャーチル、ソ連首相スターリンが参加した会談です。本編には出てきませんでしたが、大事な事項ですね。

 さて、次回は西アジアシリーズ最終章をご紹介したいと思います。よろしく!

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