世界史の目-Vol.69-

西アジアの激動・その~中東戦争と中東和平~

「西アジアの激動・その1~二重外交・委任統治~」はこちら→
「西アジアの激動・その2~イランの情勢~」はこちら

 第二次世界大戦中の西アジアは、シリア・レバノン・ヨルダンの独立がもたらされたが、パレスチナ問題は残った。ピール報告書の内容とは、パレスチナ地方を、ユダヤ人国家とアラブ国家にそれぞれ分割するという、ユダヤ人国家を認める案であり、逆にアラブ人を一層不安にさせるものであった。大戦も末期となった1945年3月、アラブ人たちは、アラブ諸国家の統一と協力を促し、エジプトの提唱で、アラブ連盟(アラブ諸国連盟)が結成された。結成当時の参加国は、エジプト・イラク・サウジアラビア・レバノン・シリア・ヨルダン・イエメンの7ヵ国であった。

 パレスチナは、イギリスの委任統治領となっていた。イギリスの勢力を背景に、長年の夢であったユダヤ国家・イスラエルの再建を期待しながらシオニズム運動を展開し、アラブ人土地を買い占めるなどして、その勢力を拡げていったため、多くのアラブ人は失地農となった。さらに、1930年代にナチス=ドイツ政権の成立後、ユダヤ移民が増加し、ユダヤ人口は、委任統治前の5倍も膨れあがり、40万人にのぼった。これに対して、パレスチナ内のアラブ住民を中心に、テロやデモなどの移住阻止運動が大規模に行われ、イギリスの委任統治だけでは持ちこたえられないところまで来ていた。これによって、調査が行われ、前述のピール報告書によるパレスチナ地方の分割検討に至るわけである。

 結局イギリスはパレスチナ問題の解決を国際連合に委ねることになり、1947年12月、国連は総会で、翌1948年5月にイギリスの委任統治を終了して、パレスチナをユダヤ人国家とアラブ国家双方に分割する、いわゆるパレスチナ分割案の決議を採択した。アラブ連盟はこれをひどく拒んだ。
 1948年4月、イェルサレムにあるヘブライ大学内のハダッサー病院に向かっていたユダヤ系の医師・看護婦・医療事務員・大学教授・大学教員・講演関係者らが乗車する数台のバスが、パレスチナ分割案に反対するアラブ人に取り囲まれ、数時間に渡って、非武装のバスに向かって発砲を始めた。長時間に渡る四方八方からの発砲により、数台のバスは大破し、70数名の乗員・乗客が虐殺された(ハダッサー虐殺事件)。

 こうした中、イギリスの委任統治が終了したパレスチナで、ユダヤ人によるイスラエルが、イェルサレムを首都とするイスラエル共和国となって再建された(1948年5月14日。現・イスラエル国)。ユダヤ人にとっては、およそ2000年ぶりとなる国家復興であった。
 しかし、欧米に支援されたイスラエルの誕生に、パレスチナ内のアラブ人(パレスチナに住むアラブ人、またはイスラエル建国後パレスチナから離散したアラブ人をパレスチナ人と呼ぶ)は憤慨、アラブ連盟は軍事行動を起こすことを決め、1948年5月15日、アラブ連盟はパレスチナに侵攻した。第一次中東戦争の勃発である。イスラエルにとっては"独立戦争"であり、アラブ側にとっては"パレスチナ戦争"であった。

 開戦当初、アラブ軍はイスラエル軍の5倍の規模(15万)で攻め、一時はイェルサレムを包囲するなどアラブ側が優勢だったが、アラブ連盟内の反目や不協和音も重なり、統一感がなくなり、次第に劣勢となった。国連の呼びかけによる2度の休戦により、今度はイスラエル軍が統一を達成させ、戦闘再開後はイスラエル軍が優勢になった。国連により、1949年1月から停戦が話し合われ、6月、アラブ連盟とイスラエル間で停戦協定が締結された。ヨルダン川西岸地区はヨルダン領、ガザ地区(パレスチナ南西部地中海岸)はエジプト領となったが、イスラエルは当初の分割案で提示された国土面積より5割増しで確保した。結局、連盟内での統一性の欠如が敗因とされた、アラブ側の大敗北であった。

 アラブ諸国側は、アラブ民族主義の団結・協調の必要性を強く求めた。こうした中、エジプトでエジプト革命1952.7。詳細→Vol62.スエズ運河~緊張と対立~)が勃発、イギリスの息がかかっている王政から、民族主義を強調する共和政へ移行、ナセル大統領(任1956-70)は、イギリスの支援するMETO(バグダード条約機構)には加盟を拒否し、さらに社会主義国チェコスロヴァキアからの武器購入により、アメリカやイギリスなど西側陣営の諸大国との関係は悪化していった。1952年、ナセル大統領は、上エジプトのナイル河谷にアスワン=ハイダムを建設することを決め、英米からの融資援助を約束、1954年からの同ダムの着工を予定していた。しかし、対英米関係悪化にともない、援助の約束が撤回されたため、東側陣営の大国ソ連に援助を依存、さらに、1956年7月、ナセルがスエズ運河国有化を宣言したことにより、運河による通商のダメージを防ぐべく、イギリス・フランスはイスラエルを使ってエジプトを侵攻することを決定、1956年10月29日、イスラエルはシナイ半島(紅海北端。西にスエズ湾、東にアカバ湾がある)に侵攻し、第二次中東戦争スエズ戦争スエズ動乱)が勃発した。

 イスラエルのシナイ侵攻によって、半島の大半がイスラエル軍によって包囲された。これに乗じた形で、11月5日にはイギリス・フランスがスエズ地区に出兵した。こうしたイギリスとフランスの戦術は国際的な批判を受け、同志国アメリカからも非難された。ソ連もエジプト支援を計画したが、参戦による国連からの非難が予想されたため、結局支援を声明するに至らず、11月6日、国連の即時停戦決議によって、イギリス・フランス・イスラエルの3国はエジプトからの撤退を始め、12月、国連の調停によってエジプトのスエズ運河国有化を承認した。ナセルを中心とするアラブ民族主義が、英仏帝国主義に打ち勝った戦争であった。

 スエズ戦争終結後、中東は英仏から米ソに主導権が渡った。1961年にはイギリスの保護下からクウェートが独立し、議会や憲法が制定された。そのクウェートでも、独立前からパレスチナ人解放運動が起こっており、イェルサレム出身のヤセル=アラファト(アブー=アンマール。1929-2004)らを中心に解放組織「ファタハ」を立ち上げていた(1958)。こうした背景の中で、1964年1月、アラブ首脳会議がカイロで行われ、5月には、イェルサレムにおいてパレスチナ民族評議会(PNC)が開催された。そこで、イスラエルに追われたパレスチナ人の公的政治組織であるパレスチナ解放機構PLO)がヨルダンのアンマンに設立されるに至った。PLOの結成と、ソ連への接近によって、アラブとイスラエル間との緊張が再燃した。

 1967年5月、エジプトのアカバ湾封鎖によって、イスラエル艦船の渡航を妨げた。さらにイスラエル・シリア両国の国境に位置するゴラン高原(シリア南西部。シリアの軍事要塞がある台地)をめぐって両国間に対立がおこった。6月、イスラエルは電撃戦を試み、エジプト・シリア・ヨルダンなどアラブ諸国の軍事基地を奇襲攻撃した(第三次中東戦争)。結果はイスラエルの圧勝となったわけだが、行われた戦闘は6日間だった。イスラエルでは第三次中東戦争を"六日戦争"、アラブ側では"六月戦争"と呼ばれた。この結果、イスラエルが得た領土は、ヨルダンからヨルダン川西岸地区とイェルサレム旧市街、シリアからゴラン高原、そしてエジプトからはシナイ半島と、エジプトに占領されていたガザ地区で、イスラエルの国土はいっきに拡大した。この戦争はその後も散発し、ソ連がアラブを、アメリカがイスラエルをそれぞれ支援しながら、1970年8月にようやく停戦した。第三次中東戦争の時のイスラエル軍参謀長は、後に首相に就任するイツハク=ラビン(1922-1995)である。
 1969年、「ファタハ」のアラファトがPLOの議長に選ばれ(任1969-2004)、イスラエル占領地域でのゲリラ闘争を促した。アラファト議長は、パレスチナ解放とイスラム・ユダヤ・キリストの3宗教が共存できる社会建設を主張した。1970年にはナセルが急死し、サダト(1918-81)がエジプト大統領に就任(任1970-81)、シリアでは、1971年、バース党のアサド政権(1971-2000)が発足した。こうしてアラブでは、各国で新体制が整えられていった。

 そんな中、アラブとイスラエルとの緊張は、国外にも波及した。1972年8月、ドイツでミュンヘン・オリンピックが開幕したが、9月、オリンピック選手村でイスラエルの選手団がゲリラ団に拉致され、11人の選手が殺害された。このゲリラ団はアラブ人で、「黒い9月」と呼ばれた。これにより、中東和平を現出するためにはパレスチナ問題の解決が急務であることを、国際間に知らしめた。

 奪われた地とアラブの威信双方の回復を目指すエジプトでは、シナイ半島の一部返還を訴えていたが、1973年10月6日、エジプトはシリアとイスラエルに先制攻撃をかけ開戦に踏みきった(第四次中東戦争)。アラブでは"十月戦争"・"ラマダーン戦争"と呼ばれ、イスラエルでは開戦日が休日にあたり、「ヨーム・キップール」と呼ばれるユダヤ教における贖罪日であったため"ヨーム・キップール戦争"と呼ばれた。
 ソ連に補給されたアラブの兵器によって、イスラエルはシナイ半島などでの軍事基地をことごとく粉砕され、不敗神話は崩れたが、11日より反撃を開始し、ゴラン高原・シナイ半島を再び占領したことで、結局イスラエルの方が軍事的有利に終わった。イスラエル支援のアメリカと、アラブ支援のソ連が、双方への武器補給を止めたことで、激戦は約10日で鎮静化した。その後国連軍の派遣によって10月23日に休戦した。

 軍事的にはイスラエルが有利であったが、政治的にはアラブが有利であった。アラブ石油輸出国機構OAPEC。1968.1結成。本部クウェート。サウジアラビア、クウェート、リビアの3産油国で結成。現在11ヵ国)の石油戦略である。もともとOAPECは、石油輸出国機構OPEC。1960.6結成。イラン・イラク・サウジアラビア・クウェート・ベネズエラの5カ国で結成。現在11ヵ国)が第三次中東戦争で反イスラエルに結集しなかったため、反イスラエルのアラブ諸国として結成された石油カルテルであった。OAPECは、第四次中東戦争が行われていた1973年10月、イスラエルに圧力をかけるため、イスラエルの占領地返還を条件に、アメリカをはじめとする親イスラエル諸国への石油輸出を禁止し、生産を縮小した。同時にOPECも原油価格を大幅に引き上げ、石油産業国有化・産油制限・輸出規制に踏みきった。1974年1月までに、原油価格は4倍に急騰、欧米先進国を中心として世界経済は戦後初のマイナス成長となり、スタグフレーションと呼ばれる不況と同時進行するインフレーションに見舞われた(第一次石油危機)。日本でも異常な狂乱物価によって、高度経済成長は終焉を迎え、原材料重視・低加工の重厚長大産業形式から省エネを促す軽薄短小産業形式へと転換していく。

 四度に渡る戦争によって、多くの町が荒廃し、また多くのパレスチナ難民が生まれる中、エジプト・サダト大統領は経済と外交の修正をはかった。国内の左右両派を抑えてイスラエルとの和平、アメリカとの接近をすすめた。1977年、サダトはアラブ代表としてのイスラエルへの訪問が実現し、イスラエル首相メナヘム=ベギン(任1977-83)と会談、翌1978年にはベギン首相と共に訪米してカーター大統領(民主党。任1977-81)の調停でイスラエルとの国交正常化シナイ半島返還に合意した(キャンプ=デーヴィッド合意)。こうしてエジプト=イスラエル平和条約は翌1979年3月に締結されたわけだが、エジプトがイスラエルと単独和平を結んだ行為は、アラブ18ヵ国とPLOからは裏切りとされ、エジプトは締結直後にアラブ連盟資格の停止を受け、本部もカイロからチュニスに移転された。ソ連からも見放され、アラブ諸国から断交処置を通告されたエジプトは、アラブ諸国内で孤立した。さらに1981年10月、サダト大統領は、カイロでの軍事パレード閲兵中、過激なイスラム原理主義者に銃殺された(サダト暗殺)。エジプト=イスラエル平和条約によって中東の安定剤的役割を示すはずであったアラブ大国エジプトが逆に孤立し、結果逆効果となったことは、西側諸国にとっては不本意であった。しかし、サダト政権崩壊後、大統領にムバラク(1929- )が選ばれ(任1981-"2011<2011.2.12追加補正>")、シナイ半島返還を実現(1982.4)、そしてアラブ諸国との関係修復に努力し、1989年にようやくアラブ連盟に復帰が認められ、国交を回復した。

 一方PLOは、1970年にヨルダン政府との内戦によってアンマンを追われ、根拠地をレバノンのベイルートに移していたが、1974年10月のアラブ首脳会議で、"唯一の正当な代表組織"として認められ、11月の国連総会で、オブザーバー資格を承認された。しかし、ヨルダン内戦の後遺症は深刻で、ベイルートにもパレスチナ難民が流れ込んだ。レバノンは、住民の多くはアラブ人だが、イスラム教はスンナ派、シーア派、ドルーズ派(ファーティマ朝カリフを神格化するイスラム教。他のムスリムから非公認扱いを受けている)がおり、キリスト教はマロン派、アルメニア正教会、シリア正教会、カトリックと複雑に宗教が絡み合っている"宗教のモザイク国家"で、特にマロン派キリスト教徒の勢力が強かった。アラブの中では珍しい、キリスト教徒が主導する国である。1975年以降は内戦(レバノン内戦。~1990.10)も勃発しており、政情は不安定であった。
 その後マロン派キリスト教とパレスチナ難民の衝突も起こり、PLOとレバノン政府との関係も悪化した。1977年にはシリアが内戦に介入するなどレバノン内戦は激化し、1982年6月にはイスラエルがPLOの孤立化を期待してレバノンに電撃侵攻した。イスラエルは駐留するシリア軍を一掃し、ベイルートを包囲、遂にPLOはベイルートも追われる羽目になり、拠点をチュニスに移した。
 イスラエルはレバノンを親イスラエル派へ転向することを期待していた。ベイルートでは内戦で荒廃が進行する中、同1982年8月、親イスラエル派のジェマイエルなる若き指導者が大統領選挙に当選を果たした。しかし翌9月、ジェマイエルは何者かによって爆殺、親イスラエル派民兵はこの報復としてベイルート市内のパレスチナ難民キャンプを襲撃し、大量虐殺を始めた。犠牲者は約3000人にのぼったといわれる(ベイルート虐殺事件。サブラとシャティーラの虐殺)。イスラエルは1985年にレバノンを撤退した。

 ガザ地区やヨルダン川西岸地区といったイスラエルの占領地でもパレスチナ民衆の蜂起(インティファーダ)がおこり(1987年以降)、イスラエルとの武力闘争が激化した。チュニスに移転したPLOも、イスラエルから再度攻撃を受け、1988年にはPLO副議長が暗殺されるなど、中東における平和共存は絶望感が漂い、情勢はますます困難を極めた。

 このため、1988年7月、ヨルダンのフセイン国王(位1953-99)はイスラエル占領下のヨルダン川西岸地区の統治権放棄を宣言し、パレスチナ国家樹立をPLOに委ねた。PLOは11月、アルジェ(現アルジェリアの首都)でパレスチナ民族評議会(PNC)が開催され、パレスチナ国家樹立を宣言し、同時にイスラエルの存在を間接的に承認、12月にはアラファト議長が国連総会でテロの放棄と、イスラエルの存在承認を表明した。1991年10月には、冷戦の終結と湾岸戦争(1991.1.17-4.11)の結果を受け、米ソの仲介で中東和平会議(マドリード会議)がマドリードで開催され、イスラエル、シリアなどの周辺アラブ諸国、PLOが初めて一堂に会し、パレスチナの暫定自治による和平共存に向けて話し合い、1993年8月ノルウェー政府の仲介でPLOとイスラエル間で秘密裏に行われ、ガザ地区とヨルダン川西岸地区のイェリコでの暫定自治に合意した(オスロ合意)。同19939月、ワシントンでビル=クリントン米大統領(民主党。任1993.1-2001.1)の仲介によって、PLOのアラファト議長とイスラエルのイツハク=ラビン首相(任1974-77,92-95)は、遂にパレスチナ暫定自治協定に調印し、PLOとイスラエルは相互承認を行った。これにより、ガザ地区とイェリコからイスラエル軍は撤退し、パレスチナ自治政府による暫定自治が開始され、翌1994年7月にPLO本部はチュニスからガザ地区に移った。これにより、アラファト議長、ラビン首相らは10月、ノーベル平和賞を受賞した。また同月、ヨルダンもイスラエルと和平条約に調印した。絶望視されてきたイスラエルとアラブ世界は、共存実現への道を踏み始めた。

 ところが、1995年11月に和平を推進するラビン首相が、テルアビブで中東和平に反対するイスラエル人学生に暗殺された。9月にPLOとパレスチナ自治拡大を最終合意に到達させたばかりであった。パレスチナ自治政府議長に選出(1996.1)されたアラファトは、1998年11月にはイスラエルのベンヤミン=ネタニヤフ首相(任1996-99)、アメリカのクリントン大統領とともにヨルダン川西岸地区からのイスラエル軍の追加撤退に合意、地盤が固まるかと思われるも、パレスチナの独立宣言の立て続けの延期と、2001年2月に発足したイスラエルのシャロン政権(アリエル=シャロン。任2001- )発足後におけるイスラエル人とパレスチナ人との武力衝突やPLOに属さないハマース(中東和平反対派)によるインティファーダなどが何度も再発し、PLO内での内紛、アラファト議長がイスラエル軍により軟禁されるなど、真の和平から遠ざかる一方であった。
 シャロンが所属するリクードは和平反対派の集まる右派政党であり、2000年9月シャロンが党首としてイェルサレムのイスラム聖地「ハラム=アッシャリーフ」を訪れた時もテロなど武力衝突が起こり、300人以上の死者が出ている。平和社会を崩壊させるテロは、自爆テロとして各地で起こり、中でも2001年9月11日、国際テロ組織アル=カーイダのリーダーであるオサマ=ビン=ラーディン(1957?- 。サウジアラビア出身)の指示とされる、アメリカにおける同時多発テロの発生は全世界を驚倒させた。これによるアメリカ・ブッシュ政権(共和党。任2001- )の報復攻撃がアフガニスタン(ターリバーン政権)に向けて行われ(2001.12)、テロの撲滅に取り組んだ。

 ブッシュ大統領はアフガニスタン攻撃の後、イラク戦争(2003.3-5)を経て、テロ・暴力撲滅による中東情勢の安定化を調整するため、2003年3月、中東和平の構想「ロードマップ」を発表、パレスチナとイスラエルの正常化を目指した行程表が提示された。パレスチナ自治政府も親米・テロ撲滅派のマハムード=アッバース(1935-)が首相に就任(任2003.3-9)、次こそ和平実現の期待が高まるはずであったが、9月にアッバース首相が辞任、2004年11月にアラファト議長が病没、これによるイスラエルの和平交渉拒否と、ロードマップ実施も困難を極めている。

 結局アラファト没後、PLO新議長にアッバースが選ばれ(任2004.11- )、2005年1月にはパレスチナ自治政府大統領に就任した。2月イスラエル政府はにはガザ地区のユダヤ人入植地を廃して、イスラエル人をこの地から強制退去することを決め、8月から撤退を実施、翌月には完了した(ガザ撤退)。ハマースをはじめとするイスラム原理主義勢力の停戦には至らず、これに対するイスラエルの報復は続行されている。

 西アジアの激動の完結編は、中東戦争と戦後の中東情勢についてです。非常に長いお話でした。私の大学受験勉強を行っていたのは1987年で、ソ連はまだありましたし、ドイツも統一前でした。お茶の間に飛び込んでくる海外ニュースといえば常に中東関連で、イラン・イラク戦争、イスラエル情勢、レバノン情勢、そしてパレスチナ情勢と中東一色だったと思います。何度も歩み寄って行われてきた和平交渉は、期待されるような結果には終わっていません。この中東に関するニュースは2006年になってもなお混沌たる情勢が伝わってきます。現代では、ガザ撤退や、シャロン首相の体調悪化、パレスチナ自治政府の新首相にハマース派が擁立されるなど(2006.2)、ますます中東和平は難色を示しています。他人事に受け取られるでしょうが、現在の世界史受験生にとっては、中東情勢を学習するのはホントに大変だと思います。

 Vol62.スエズ運河~緊張と対立~の学習ポイントでも説明しましたが、中東戦争の内容は現代史学習にとっては必修事項です。勃発した年(予備校時代に教わった覚え方は"ハロー、涙のパレスチナ")、イスラエル建国年(1948)、第二次中東戦争勃発の原因(スエズ運河国有化)、第三次中東戦争でのイスラエルの占領地(シナイ半島・ヨルダン川西岸地区・ガザ地区・ゴラン高原)・第四次中東戦争による石油危機といった項目は必ず覚えておいて下さい。1993年のパレスチナ暫定自治協定調印も重要です。年代と一緒に覚えておきましょう。

 本編では湾岸戦争も登場しましたが、特に湾岸戦争は入試必修項目なので覚えておいて下さい。勃発の原因はイラクのクウェート侵攻、いわゆる湾岸危機によるものですが、湾岸戦争や、同じく本編で用語のみ登場したイラク戦争などといったイラク関連分野は、また別の機会とさせていただきます。この分野も奥が深いです。

 さて、3回に渡った西アジア近現代史はとりあえずこれで終わります。次は遂に70話目ですが、次回は5月中旬以降に更新の予定です。またよろしくお願いしますね。

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