世界史の目−Vol.70−

モンゴル帝国の動揺

 チンギス=ハン(1155/61/62/67〜1227。位1206-27。太祖)が築き上げたモンゴル帝国(1206〜1271)では、第2代オゴタイ=ハン(太宗。位1229-41)、第3代グユク=ハン(1206-48。定宗。位1246-48)とチンギスの一族による統治が続いていた。
 グユク=ハン没後即位したモンケ=ハン(憲宗。位1251-59)はチンギスの末子トゥルイ(1193-1232)の長子で、弟には、フビライ(クビライ。1215-94)、フラグ(フレグ。1218?-65)、アリクブカアリク=ブケ。?-1266)らがいた。1253年、モンケ=ハンはフラグに西アジア遠征を実行させてバグダード侵攻を行い、アッバース朝(750〜1258)を滅亡させた。この時フラグがイラン地方に建国したのがイル=ハン国(1258-1353。イラン方面。首都タブリーズ)である。

 言うまでもなく、モンゴル帝国というのは中国・西アジア・ロシアにまたがる大帝国であったわけだが、これだけの広大な地域を統一させるのは極めて困難であった。地方により民族の宗教や文化が異なり、遊牧や農耕があるなど、中央政権が全領土を統一させるには、帝国内の各地方に小ハン国を作らせて、それらに地方統治させる必要があった。イラン方面のイル=ハン国もそうした要因からつくられた国の1つであり、西アジアの王者アッバース朝を滅ぼした直後であるだけに、その地の統治に慎重さが加わるのは当然のことであった。また翌1259年にモンケ=ハンが病没することを考えれば、その後の王位交替によって国全体が揺らぐことも懸念され、地方や辺境の徹底した管理が必要となるわけである。フラグは兄モンケ=ハンの訃報を聞いた時は西アジアにいたが、国内・国外の情勢を考え、帝国の首都カラコルム(和林)には戻らず、イランにとどまったとされる。このような情勢下で建設された国はイル=ハン国の他に、キプチャク=ハン国(1243-1502。ロシア方面。首都サライ)・オゴタイ=ハン国(1225?-1310。西北モンゴル。首都エミール)・チャガタイ=ハン国(1227-14C後半。中央アジア方面。首都アルマリク)の3ハン国ある。

 モンケ=ハンが第4代ハンとして治世を展開するまで、モンゴル帝国はいつ分裂してもおかしくなかった。チンギスの遺子たちによっておこされた内紛は、結果的には中央政権を度外視した、独自の政権を形成していく材料にもなり、イル=ハン国をはじめとする4ハン国の存在は、モンゴル帝国が仮に分裂したとしても、のちにそれぞれ独立できるための絶好の領地となりうる要素があったのである。

 チンギスがかつて初代モンゴル皇帝として即位した時にはすでに、チンギス自身のモンゴル=ウルス(モンゴル高原中央部。ウルス→モンゴル語で"政治集団"、"国家"の意味)を中心として、長男ジュチ(1177?/84?〜1224?/25?)・次男チャガタイ(?〜1242)・第3子オゴタイ(オゴデイ。後の第2代ハン。1186〜1241)ら3子にモンゴル高原西部におけるウルスの統治権をそれぞれ与えていた。また末子トゥルイは末子相続の慣習に従ってモンゴル本国の継承権(ハン位継承権)を得たが、チンギス没後(1227)、諸子の分裂がおこる予兆があったため、自らは摂政(監国)に留まってオゴタイに本国継承権を譲って第2代ハンに推挙した経緯があった。ジュチ家からはバトゥ(1207〜55)がでてキプチャク=ハン国を建て、チャガタイ家ではチャガタイ=ハン国を建てた。
 オゴタイ家では中央アジア・外モンゴリア西部のジュンガリア地方にオゴタイ=ハン国をおこしていたが、第2代オゴタイ=ハンが統治していた時代、ジュチ家のバトゥが、オゴタイから命じられてヨーロッパ遠征西征。1236-42)を行った際、遠征軍に加わっていたグユク(オゴタイの長子)と仲違いし、同じく遠征軍に加わり、武功のあったトゥルイ家のモンケ(トゥルイの長子。1208-59)に接近していった。グユク、バトゥ、モンケの3人は年齢が近く、さらにタイミング良くオゴタイ=ハンが遠征終了前の1241年に没したことから、バトゥ自身はキプチャク=ハン国建設に乗り出しながら、次代ハンの後継者としてモンケを推薦した。モンケの父トゥルイが末子継承の慣習を黙視してハンをオゴタイに継承し、ハンにならなかった過去があったことで、次代ハンは速やかにトゥルイ家のモンケが擁立されるべきだとバトゥは主張したのである。しかしグユクは前代ハンである父オゴタイの子であることを理由に次代ハンの継承を主張した。
 オゴタイ没後に、グユクはカラコルムに帰還して第3代ハンを決めるクリルタイ(モンゴル帝国の最高議決機関。有力者の集会)を召集したが、帰還しなかったバトゥがクリルタイ開催に反対したためハン位を継承できなかった。しかし息子グユクを擁立したいと願う母后ドレゲネ(?-1246)が、監国となって統治を補佐し、種々の策謀を用いて、ようやく1246年にグユクを第3代ハン擁立に成功したのである。ドレゲネは子の即位直後に没したが、ドレゲネのオゴタイ家保持の努力とは裏腹に、グユク=ハンは圧政を施行してドレゲネの重臣たちを粛清し、チャガタイ家と手を組んで親政を始めた。このため、チャガタイ家と結んだグユクのオゴタイ家と、バトゥのキプチャク家と結んだモンケのトゥルイ家とは対立が深化した。

 グユク=ハンの治世は病没(あるいはバトゥによる暗殺か?)により、2年で終わった(1248)。そして1251年、カラコルムに帰還したバトゥと強引にクリルタイを開催したモンケが、第4代モンケ=ハンとして即位したのである。モンケ=ハンは、古き良き祖父チンギスの時代に原点回帰することにより、ハンの権威を高めることを目指し、グユク=ハンの元皇后をはじめ、オゴタイ家・チャガタイ家の要人を次々と粛清し、オゴタイ=ハン国の所領も削減させた。そして、フビライ、フラグ、アリクブカら、弟たちを脇に固め、1253年、フビライを華北の大総督に任命して開平府(かいへいふ。内モンゴル自治区ドロン=ノール)を建設させ、さらにチベットや大理国(だいりこく。937-1253。中国雲南省に栄えていたタイ族の国)の征討を担当させ、一方フラグには西アジア遠征を、アリクブカには末子慣習によって監国としてカラコルムで政務を執らせた。モンケ自身は南宋(1127-1279)征討に向けて、同国に遠征した(1258)。また燕京(現・北京)に行省(行政省)を3ヵ所設置し、華北の漢人を戸籍編成した。

 1259年、南宋征討にむけて出動していたモンケ=ハンは、四川省の陣営で伝染病にかかり没した。すると第5代ハンの継承を主題にクリルタイが召集された。召集したのは、末子アリクブカであった。
 アリクブカは末子相続を主張して自身がハンの継承者であることを主張し、西部の諸王からハン位への推戴を受けようとした。これに反感をつのらせた兄フビライは、南宋遠征中であったが、すぐに開平府に戻り、モンケの後継者は自身であると東部の諸王らに主張、彼らからハン位への推戴を受け、1260年3月、フビライ=ハン(位1260-94。世祖)として即位した。ところがアリクブカはこれを認めず、翌月カラコルムで即位したため、内乱となった(アリクブカの乱)。アリクブカはオゴタイ家・チャガタイ家を味方につけて抗戦したが、このときアリクブカを必死に支援したのが、オゴタイ家のハイドゥカイドゥ。?-1301)という人物である。ハイドゥはオゴタイ家とトゥルイ家との内紛はまだ終わっていないと主張し続けた人物で、オゴタイ=ハンの孫、グユクの甥にあたる、グユクの弟カシ(生没年不明)の子である。アリクブカの乱が勃発した頃にオゴタイ=ハン国の君主になったとされている(位1261?-48)。モンゴル帝国のハン位継承がオゴタイ家からトゥルイ家に渡ったことが許せなかったハイドゥは、モンケ=ハンが1251年に即位した際に暗殺計画を企てたこともあった。未然に防がれたため封地削減の処分で終わったが、逆鱗に触れたモンケは、前で述べたようにオゴタイ家の要人粛清と所領削減による弾圧を施していくのである。

 アリクブカの乱は、アリクブカ自身が戦場での経験が乏しいことから、いつも劣勢であった。しかも強力なフビライ軍の猛攻は手に負えなかった。結局アリクブカは降伏(1264)、ハン位獲得はならず1266年、病没した。しかし復讐に燃えるハイドゥはこの乱の継続を宣言し、西北モンゴリアのフビライ軍を攻撃して内戦を続行した(ハイドゥの乱。カイドゥの乱)。

 一方ジュチ家では、バトゥが1255年に没してからは、キプチャク=ハン国は中立化し、本格的なロシア経営を始めていたが、ハイドゥの意志により、チャガタイ=ハン国・オゴタイ=ハン国とともに同盟を結ぶことを合意させ(3ハン国連合)、ハイドゥはこの連合の盟主となった。その頃のフビライは、上都(じょうと。開平府を改称)を副都("夏の都")として、首都を現在の北京に遷都し(1270)、その後大都(だいと。"冬の都")と改称した(1272)。そして遷都の翌1271年、『易経』に基づき国号を大元(。げん。1271-1368)と改めてモンゴル帝国から独立し、独自の政権を始めるに至った。そして、フビライ=ハンの宗家がつとめる元朝に加えて、ほぼ独立の方向で動いていたキプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イルの4ハン国も、モンゴル帝国から分離独立することになった。
 元朝創始と4ハン国独立により、モンゴル帝国は事実上、分裂した1271。モンゴル帝国を宗家の元朝が大ハンとして継承したとすれば、モンゴル帝国の実質滅亡年は、元が衰退・北上して"北元(ほくげん。1371-88)"となって滅亡した1388年である。これはアリクブカの子孫がフビライの子孫である北元最後の皇帝トグス=テムル(位1378-88)を殺害した事件である。これによりフビライの王統は途絶え、モンゴル帝国を形成した諸部族は四散した)。

 モンゴル帝国の分裂崩壊を招く結末となったハイドゥの乱は、その後も延々と続いた。ハイドゥ側においても、連合内で内紛が起こり、一時チャガタイ=ハン国はオゴタイ=ハン国の支配下に入るなど、不安定な情勢ではあったが、オゴタイ=ハン国は、アルタイ山脈東部に置かれたアリクブカ家のウルスもハイドゥの支配下であり、チャガタイの領土を合わせると広大な領土であった。一説によるとオゴタイ=ハン国はモンケ=ハンの粛清ですでに解体しており、単なるウルスで終わったとして、ハイドゥの内戦中に拡大した中央アジアの領土は"ハイドゥ王国"であるという見方もあるほどであった。

 一方で、着実に中国を支配していった元朝のフビライは、唯一連合に参加しなかった西のイル=ハン国と友好を保ち、イル=ハン国にチャガタイ=ハン国やキプチャク=ハン国と抗争させるなどしてその勢力を強め、チャガタイ=ハン国の首都アルマリクを一時陥れるなどした。フビライは1279年に南宋を滅ぼしたが(南宋滅亡。中国全土の支配完成)、モンゴル高原、支配下に入っていたチベットや朝鮮の高麗(918-1392)も合わせると、元朝の領土はかなり巨大化していた。その後日本鎌倉幕府。12C末-1333)・ジャワシンガサリ朝。1222-92)・ヴェトナム陳朝。1225-1400)・ビルマパガン朝。1044-1287)・カンボジア(アンコール朝。802?-1432)への大遠征を繰り返し、日本(元寇。げんこう。1274文永の役,1281弘安の役)・ヴェトナム・ジャワには占領に失敗したものの、その脅威はアジア中に広まった。
 しかし、遠征の失敗は膨大な戦費がかさみ損害も大きく、フビライの部下が、ハンの政策に不満をもらし謀反を起こすと(1287)、ハイドゥはこれを利用してカラコルム侵攻を実行したが、部下を敗死させて落着したフビライの軍に阻まれ失敗した。それでもハイドゥはあきらめず、元朝の政情をうかがいながら、好機を待った。

 ハイドゥ王国はフビライの元朝と比べると政情は不安定であり、彼を支持する諸王や貴族は、内乱の勝利に望みをつなぎながらも、勝利よりも内乱の終結、そして社会の安定を強く望む者も少なくなかった。やがて、35年という長期政権を守ってきたフビライが80年の生涯を閉じ(1294)、代わって即位するはずの子チンキム(1243-1285)がすでに亡くなっていたため、チンキムの子、つまりフビライの孫にあたるテムル(1265-1307)がハン位を継承した(1294-1307。成宗)。これを好機と見たハイドゥは、再度進軍しモンゴル高原西部で元軍と激戦を交わした。できたばかりのテムル政権のため、指揮が思うようにいかなかった元軍は敗戦し続けたが、ハイドゥの軍力も長期の戦争で衰退しているのも事実であった。このため、ハイドゥの配下にいたモンゴル高原西部の諸王・貴族は、ハイドゥ王国の存続は長くはないと判断して、元朝に投降していった。この異常事態でハイドゥは1301年、オゴタイ家やチャガタイ家といった諸ハンをも動員し、総力戦でもってモンゴル高原西部からアルタイ方面へ侵攻を行った。テムルは甥のハイシャン(カイシャン。次の元朝皇帝。位1307-11。武宗)をカラコルムに派遣して激戦を繰り返し、ついにハイドゥの軍を壊滅させた。1301年、戦傷を負ったハイドゥはそのまま没し、ハイドゥ王国は崩壊、約40年続いたハイドゥの乱は遂に終戦を迎えた。

 その後は内乱終結に不快を示したハイドゥの子チャパル(?-1315)はオゴタイ家の後継者として名乗りを上げたが、連合の盟主となったチャガタイ=ハン国の君主ドゥア(位1283-1307。もとハイドゥの支援者)がこれを抑え、オゴタイ=ハン国はチャガタイ=ハン国に吸収された(1306年。オゴタイ=ハン国の完全な滅亡は1310年)。その後ドゥアは元朝と講和を結び、内乱終結が遂に実現、フビライが即位して以来、分裂していたモンゴル帝国は、大ハンのいる元朝を中心として、キプチャク=ハン国・チャガタイ=ハン国・イル=ハン国が緩やかに統合する帝国となり(モンゴル帝国の復興)、「パクス=モンゴリカ(モンゴルの繁栄)」の実現となっていった。

 長らくお休みして誠に申し訳ございませんでした。新年度も落ち着き、遂に連載再開です。連載70回目は、チンギス没後のモンゴル帝国をご紹介しました。「Vol41.鉄の天才!チンギス=ハン」の続編にあたります。
 モンゴル帝国が地方分権政策としてオゴタイ=ハン国、チャガタイ=ハン国、キプチャク=ハン国、イル=ハン国を形成し、またフビライが即位してからの40年というのは、ずっと内乱状態にありました。さらにフビライが1271年に元朝を創始した時点で、モンゴル帝国は初の分裂を経験します。内乱時代の主役は、やはり首謀者ハイドゥになるでしょう。戦争にどっぷりつかった、とてもせわしい半生でした。

 ハイドゥはオゴタイ=ハン国の当主でしたが、実はこのオゴタイ=ハン国の存在について諸説あるようです。本編にあったモンケ=ハンのオゴタイ家弾圧の時点で、オゴタイ=ハン国は消滅してしまい、オゴタイ家は四散したという説で、その後のハイドゥ政権が行き渡ったウルスは紛れもなく"ハイドゥのウルス"であり、ジュンガリア地方にあったオゴタイ=ハン国が領土を拡大させたとは言い難いという内容です。オゴタイ=ハン国そのもの自体が元来存在しなかったという見方もあって、当然ハン位に就いていたオゴタイ=ハン、グユク=ハンの王室は、帝国の首都カラコルムにあり、オゴタイ家のウルスは地方分権用としてのウルスにとどまり、都エミールは単に行政長官(ダルガチといいます)を置いただけ、つまり帝国の直轄領であったなら、これはもう独立国家オゴタイ=ハン国とは言えず、オゴタイ=ウルスで終わっているはずですね。こうなるとオゴタイ=ハン国の存在も怪しくなりますね。

 もちろんこうした内容は入試には出ません。受験生の皆さんは、オゴタイ=ハン国はチャガタイ=ハン国に併合されるまで続いたと覚えておけばよろしいわけです。

 今回の学習ポイントを見ていきましょう。「4ハン国」の名称・位置は必ず覚えておきましょう。位置の覚え方は、地図上の左上にキプチャク=ハン国、左下にイル=ハン国、右上にオゴタイ=ハン国、右下にチャガタイ=ハン国と、だいたいの位置を知っておきましょう。И字形の順に頭文字をくっつけて"キルゴッチャ"と呪文風に覚えて下さい。あと大事なのは、キプチャク=ハン国の建国者はバトゥで、チャガタイ=ハン国の建国者はフラグです。難関校での出題では、それぞれの首都(順にサライ・タブリーズ・エミール・アルマリク)も出ますので気をつけましょう。

 オゴタイ=ハンの時代で大事なのは、遼朝(916-1125)の王族だった耶律楚材(やりつそざい。1190-1244)を重用したこと、首都をカラコルムに定めたこと、1234年に金朝(1115-1234)を征服したこと、バトゥの西征とワールシュタットの戦い(1241)、これらは非常に重要です。
 グユク=ハンの治世は覚えなくても大丈夫です。モンケ=ハンの治世では、フラグが西アジア遠征を行い(これも西征として覚えましょう)、アッバース朝を1258年に滅ぼしたこと、また高麗王朝(918-1392)を1259年に服属していることも大事ですね。高麗はフビライ=ハンの時代に属国化されます。
 フビライ=ハンの時代で大事なのは、元朝(1271-1368)をおこしたこと、首都を大都(現在の北京)に遷都したこと、大理国(1254)・南宋(1279)・を征服して中国統一を果たしたこと、ジャワのシンガサリ朝・ヴェトナムの陳朝・ビルマのパガン朝・日本の鎌倉幕府に遠征したことなど、大事な項目が目白押しです。前述の高麗属国化に加えてチベット属国化も覚えましょう。そして、今回のハイライトであるハイドゥの乱(1266-1301)もフビライ=ハンの項でよく出ます。余裕があればアリクブカ(用語集では"アリクブケ"と表記)も知っておくと便利です。

 モンゴル帝国はなんといっても系図が大事です。本編に登場したジュチやトゥルイ、グユクなどを答えさせる問題は少ないのですが、誰某の弟、あるいは息子、あるいは孫というような文章記述問題が出ると、それらをキーワードにして答えを導かなくてはなりません。簡単に説明すると、

チンギス=ハンの息子たち→(長男から)ジュチ・チャガタイ(=ハン)・オゴタイ(=ハン)・トゥルイ
ジュチの子→バトゥ
オゴタイの子→グユク(=ハン) オゴタイの孫で、グユクの甥→ハイドゥ
トゥルイの息子たち→(長男から)モンケ(=ハン)・フビライ(=ハン)・フラグ・アリクブカ

 本編では、テムル、チャパル、ドゥアなどの人物も登場しましたが、入試にはまず出題されませんのでご安心下さい。なお、フビライ=ハンがおこした元朝については、また別の機会でお話しさせていただきます。

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