世界史の目−Vol.75−

極地探検

 17世紀、オランダのタスマン(1603-59)は、オーストラリア大陸の東南の島タスマニアを初めとして、ニュージーランドやフィジー島を発見し、18世紀にはイギリスのジェームズ=クック(1728-79。キャプテン=クック)が太平洋をベーリング海からニュージーランドまでを探検していた。19世紀になるとヨーロッパを中心に自然科学や技術が発達、これが応用化されたことに呼応したかの如く、空前の探検ブームが創り出され、世界各地で、国の威信をかけた(国旗を背負った)、大規模な探検がすすめられた。

 ドイツの地理学者リヒトホーフェン(1833-1905)は中国11省を踏査し、華北の黄土地帯や山西・山東の地下資源を調査、その結果、皇帝ヴィルヘルム2世(位1888-1918)が中国分割(1898)に乗り出した時、膠州湾(こうしゅうわん)の租借を決意したと言われる。またリヒトホーフェンの最大の功績は、アジアを東西に貫く古代の交通路を「絹の道シルク=ロード)」と命名したことであり、彼はこうした功績をあげたことで、男爵に叙された。
 スウェーデンの地理学者ヘディン(1865-1952)は1885年から数回、中央アジアの探検を行った。そして1901年、東トルキスタンの新疆ウイグル自治区ロプ=ノールの北西に栄えた都市・桜蘭(ろうらん。B.C.2C頃-5C頃)の遺跡を発見した。

 アフリカ探検では、イギリス人宣教師リヴィングストン(1813-73)が1855年、ヴィクトリア瀑布(滝)を発見、その後消息を絶つが、救出に赴いたイギリス人ジャーナリストのスタンリー(1841-1904)が1871年リヴィングストンを発見してアフリカ中央部の横断に成功、その後コンゴも探検した。

 内陸アジア探検・アフリカ探検に続いて、19C末から20世紀にかけて探検の極限に挑戦する試みがみられた。それが極地探検である。北極探検は、B.C.325年頃にギリシア人が挑んだ記録があるが、中世以降、東アジアへの最短航路の開拓、捕鯨、毛皮猟などを目的として行われた。ロシア海軍に入り、北方戦争(1700-21)に参加した経験を持つデンマーク出身のベーリング(168-1741)は、アメリカとアジアが陸続きかを調査し、1725年から5年を費やして探検し、シベリアとアラスカ間に海峡があることを発見(1728)、ベーリング海峡と名付け(海峡の中央に日付変更線が走る)、その後北氷洋(ほっぴょうよう。北極海)の調査に入り、コマンドルスキー諸島やアリューシャン諸島を発見している。19C以降は北極点到達への競争へと変化していき、1895年、ノルウェーの探検家ナンセン(1861-1930)がフラム号に乗って極地を流氷群に掴まって漂流し、その後スキーを使用して北極点に向かうが、兵粮が尽きて北緯86度14分で引き返した。北極点到達はならなかったが、北極地が海洋であることを立証した。
 1909年、アメリカの軍人出身であるロバート=エドウィン=ピアリー(1856-1920)が3度にわたる北極探検を行った(1898-1902,1905-06,08-09)。1899年には凍傷のため足指をほとんど失うが、最後の1909年4月6日、遂に人類で最初の北極点到達に成功したといわれている。しかし、第2次探検に同行した隊員フレデリック=クック(1865-1940)が、ピアリー到達前の1908年4月21日に北極点に初到達したと主張して論争になり、アメリカ地理学協会による調査の結果、ピアリーが初到達したと認定、フレデリック=クックの到達は認められず詐欺罪で収監された。しかし、ピアリーの極点到達については、最近、ピアリーの記した遠征ノートに基づき調査を行い、その結果、極点に到達していないのではないかと、批判の声も上がっている。
 北極探検競争は遂に大型交通機関の使用にまで発展し、1926年、アメリカの軍人出身の探検家リチャード=バード(1888-1957)は最初の航空機による北極飛行に成功した。またイタリアの軍人ノビレ(1885-1978)は飛行船ノルゲ号を設計し、同年北極横断飛行に成功した。1958年にはアメリカの原子力潜水艦ノーチラス号は極地氷原下を潜航する北極横断の航海に成功し、翌59年にはアメリカの原子力潜水艦スケート号による極点浮上も果たしている。

 一方、南極探検は、1772年から75年にかけて、キャプテン=クックが行った。クックは、当時その存在が信じられていたにすぎない南方大陸を求めて南極圏の南緯71度10分に到達し、ニューカレドニア・ノーフォーク島などを発見、南氷洋(なんぴょうよう。南極海)を通り南米チリの南端ホーン岬(オルノス岬)をへて帰国した。初めて南極上陸を果たしたのはアメリカのアザラシ猟師ジョン=デイヴィス氏なる人物で、1821年2月とされているが異論も多い。
 その後、各国で大陸探検が続いたが、南極においても探検競争は激化した。1911年12月14日、ノルウェーの探検家、ロアルド=アムンゼン(アムンセン。1872-1928)が初の南極点到達に成功、続くイギリスの軍人出身ロバート=スコット(1868-1912)が、アムンゼン到達のおよそ1ヶ月後、翌1912年1月18日に極点到達を果たした。
 アムンゼンは当初、北西航路探検隊を結成して、1905年ベーリング海峡に達したが、初の北極点到達をピアリーに先んじられたため、目標を南極点到達に転向した。フラム号で上陸後、毛皮の防寒服を身に付け、犬ぞりで1911年10月(19日)より南極大陸横断を開始した。またスコット隊は、1901年、ディスカヴァリ号を指揮して南極探検に出発、翌年ロス海の湾奥にキング=エドワード7世島などを発見、内陸部の新知見を多く得て1904年に帰国した。1910年、再度南極に向けて、テラ=ノヴァ号で初の南極点到達を目指し、マクマード湾に基地を設けた。アムンゼンとの競り合いは、イギリス対ノルウェーという、国を挙げての本格競争となっていった。

 1911年10月24日、スコット隊は大陸横断にむけて、まず動力機関による雪上車による先発隊を10月末から進ませ、11月1日になって、あとをスコットと隊員で馬ぞりで進んだ。出発はアムンゼン隊より遅れたものの、磐石の備えで到達はスコット隊が有利であった。
 しかし、スコット隊の雪上車は走行してまもなく故障、アムンゼン隊は身軽な犬ぞりを使用したが、犬よりも明らかに体重がある馬は、身動きが取れず凍死が相次ぎ、人力での到達を余儀なくされた。結果、アムンゼン隊が1ヶ月早く南極点に到達したのである。スコット隊は、白い大地の中心にノルウェーの国旗が南極点に刺さっているのを見て、大いなる失望感を抱いたと言われる。基地は両者ともロス海に置かれたが、アムンゼンはあくまで極点到達を目標としていたため、基地は極点に近い鯨湾(くじらわん)に置かれていた。しかし学術調査も兼ねたスコットは、調査場所のマクマード湾に設営しなければならず、極点に到達するには、鯨湾より難所であった。
 スコットは悔やみつつ、極点を後にし、本船に戻ることにした。しかし、途中、猛烈なブリザードが、スコットと同行の4人を急撃、遭難し、遂に3月29日、スコット隊は全滅、スコット自身も凍死するという悲運な最期であった。遺骸は、約10ヶ月後に発見された。

 一方、南極点到達を競り勝ったアムンゼンは、当初予定していた北極探検にも出向き、ノビレと共に飛行によって北極点通過を試みた(1926)。1928年ノビレが北極点到達後、飛行船による帰路(スヴァールバル諸島)で墜落事故に遭い、アムンゼンが飛行機で救援に向かった。ノビレは助け出されたが、アムンゼンは遭難によりそのまま消息を絶った(1928.6)。

 1956年11月、アメリカは、南極点近くに観測基地を建設した。この基地は、南極点到達を果たしたアムンゼンとスコットの栄誉を祝福し、両者に敬意を表する"アムンゼン・スコット南極基地"と名付けられ、今日においても彼らの名が残されている。

 日本では、白瀬矗(しらせ のぶ。1861-1946)が1910年、「開南丸」で極点到達を目指し、日本人初の南極上陸成功を果たした。1912年1月28日、南緯80度5分まで達して、付近を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名している。
 1957年から58年にかけ、国際地球観測年(IGY)の南極大陸調査が行われ、日本を含む12ヵ国が参加した。日本は、IGYの事業の一環として1956年に観測船「宗谷」で南極に向かい、翌57年1月、東オングル島で基地を設営し、昭和基地(しょうわきち)と命名、1959年12月にはその12ヵ国間で南極条約Antarctic Treaty)が結ばれ、領土権や平和的利用について取り決め、今日世界40ヵ国以上がこの条約に調印し、氷の大陸を守っている。

 初の極地史をご紹介しました。最後に登場した「宗谷」のお話は、1959年南極観測樺太犬・タロとジロの感動の物語を生み、80年代に映画化されました。またリメイク版も今年封切られてますね。

 また本編ではお話ししませんでしたが、日本における北極探検では、兵庫県出身の探検家、植村直己氏(うえむら なおみ。1941-1984)が、1978年、初めて犬ぞりによる単独での北極点到達を果たしました。また1989年5月、女優の和泉雅子氏(いずみ まさこ。1947- )の初の女性による北極点到達を果たすなど、積極的に探検事業が絶え間なく続いています。

 さて、今回の学習ポイントです。極地史は、ひと言で言い表すと「探検家の歴史」になります。受験日本史では、当然日本の探検家に関する大問中の一問題として出すことはありますが、白瀬中尉が出題されるくらいでしょう。探検とは意味が異なりますが、間宮林蔵(まみや りんぞう。1775-1844)や最上徳内(もがみ とくない。1754-1836)、近藤重蔵(こんどう じゅうぞう。1771-1829)といった千島・樺太探査の方を覚えた方が良さそうです。

 受験世界史は、どこの国の探検家が南極ないし北極に来たかがポイントとなるでしょう。まず、入試に登場する極地探検家はピアリー、アムンゼン、スコットの3名と考えていただければ結構です(入試を度外視するなら世界偉人伝でもよく登場するナンセンやノビレも知っておきましょう)。北極点到達者はピアリーで、アメリカ人です。残るアムンゼンとスコットが南極点到達者で、アムンゼンはノルウェー、スコットがイギリスです。ただ受験世界史でも、極地探検だけを大問で出題することは稀です。

 極地探検以外で本編に登場した探検家たち(キャプテン=クック、タスマン、ヘディン、リヴィングストン、スタンリー、リヒトホーフェンなど)も合わせて知っておきましょう。太平洋オセアニア州関係ではタスマンとクック、アフリカ大陸関係ではリヴィングストンとスタンリー、内陸アジア関係ではリヒトホーフェン、ヘディンです。リヴィングストンはヴィクトリア瀑布を、ヘディンは桜蘭遺跡をそれぞれ発見、リヒトホーフェンは"シルク=ロード"の命名者、スタンリーはリヴィングストン救出とコンゴ探検を覚えておけば万全です。

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