世界史の目-Vol.8-

ペルシア戦争500~449B.C.

 紀元前8世紀、インド=ヨーロッパ系であるギリシア人は、方言の違いから、アテネ地方・小アジア地方に定住したイオニア人、エーゲ諸島や半島南部、さらにアテネより西方に定住したドーリア人、また半島北部や小アジア北西岸に定住したアイオリス人といった分立傾向にあり、ギリシア統一といった民族国家を試みず、イオニア人は"アテネ"、ドーリア人は"スパルタ"、アイオリス人は"テーベ"などといった都市国家を築いていった。これらはそれぞれタイプが異なりながらも、共通の民族意識を保ち(オリンピア参加、デルフィのアポロン神託、貴族中心の社会など)、市民みずから自国を守るという原則のもとに自由な社会が形成されていった。これがポリスである。

 最初の世界帝国アッシリアの滅亡(B.C.612)後、4王国に分裂した中の一国リディアが、紀元前7世紀後半、世界最古の鋳造貨幣を始め、これが各ポリスにも伝わって貨幣経済がおこり、商工業が発達した。これによって貧富の差ができ、富裕平民も現れた。大量生産などによる工業の発達で武器が平民でも安価に購入でき、重装歩兵として参戦可能の状態になっていく。これにより平民は、政権を独占する貴族に対して、参政権の要求をおこし、対立傾向になった。諸々の改革(ドラコンの成文法・ソロンの財産改革)が行われるも長続きせず、やがて対立は激化し、その結果、僭主(せんしゅ)の出現となった。

 僭主は平民の支持を得て貴族政を倒し、非合法的・非常手段的に政治独裁権をつかみ取ろうとする、"暴君"の語源となった言葉で、紀元前6世紀半ばに現れたアテネのペイシストラトス(B.C.600頃~B.C.527)の僭主政治が有名である。彼は紀元前561年に追放した貴族の財産を農民に分配して農民を中心とする平民層の保護に努め、その後地租(5~10%)を課してアテネの財政力を高め、アテネの地位を急速に高めた。しかしペイシストラトスの子ヒッピアスが父の後を継いで僭主政治を行ったが、彼は、文字通り暴君化し、アテネから追放された。この追放は後の大戦争に大きく関わっていくことになる。

 その後政治家の僭主化を防ぐために、アテネの民主派貴族クレイステネス(B.C.6世紀後半の人)は、ヒッピアス追放後、オストラコンという陶片を使って、市民による投票を行った。僭主になりそうな危険人物をオストラコンに記し、投票総数が6000票以上に達すると、最多得票者は10年間国外追放とするなど(陶片追放)、平民=市民の自覚が積極的な政治参加へと結びつけられていき、アテネはさらに飛躍した。

 アッシリア滅亡後のエジプト・西アジア地方(オリエント)では、第2の世界帝国アケメネス朝ペルシア(B.C.550~B.C.330)がリディアなど近隣諸国を次々に征服・撃退し、広大な大帝国となっていった。リディアは小アジア(現在のトルコ地方。ギリシアの東隣)にある国で、アテネとも関係が深かった。ペルシア王ダレイオス1世(位B.C.522~B.C.486)は小アジアにあるイオニア人の植民市を攻撃、支配し、さらに遠征費調達のため重税を賦課させ、僭主政をもたせようと圧力をかけた。実は前述の暴君僭主ヒッピアスは、ペルシアに亡命し、ペルシアに受け入れられており、ペルシアはアテネの事情がよくわかっていた。またヒッピアスはペルシアを後ろ盾にアテネ政権者の奪取をもくろんでいたともされている。

 やがて、イオニア植民市のなかで、アテネと最も親近的だったミレトス市はペルシアから高圧的に苦しめられ、遂にミレトス僭主アリスタゴラス(B.C.6C末~B.C.5C初)がアテネの援助のもとでペルシア相手に大反乱を起こした(500B.C.イオニア植民市の反乱)。アテネはヒッピアスの件でも危惧していたが、イオニア植民市の反乱のあと、ペルシアの専制君主政に対抗するため、民主政のアテネが市民自ら自国を守るというポリスの原則に基づき、ポリス擁護の意識が高揚し、反乱した植民市には絶えず重装歩兵を送り続けた。アテネが援助したことでダレイオス1世率いるペルシアはアテネに宣戦し、遂にアケメネス朝ペルシアvsアテネとその同盟市軍による大戦争に突入した。これがペルシア戦争である。

 ペルシアのギリシア進攻は①B.C.492年②B.C.490年③B.C.480~B.C.479年と、大きく3回に渡った。まず①はアトス岬付近までペルシア艦隊が進攻したが、嵐のため難破し、撤退したため、本格的な進攻は②からであった。この頃はスパルタはちょうど宗教祭典があり、軍隊は出せなかったが、ミルティアデス率いるアテネの重装歩兵軍がペルシアの騎兵軍をマラトンで撃破した。これが有名なマラトンの戦いである。

 ③では、ダレイオス1世の子クセルクセス1世(位B.C.485~B.C.465)が史上最大、約20万の歩兵を動員し自ら出陣した。クセルクセスらペルシア軍は、海沿いの隘路(あいろ)テルモピレーで、レオニダス率いるスパルタ軍と戦い、レオニダス含むスパルタ兵士全員を壊滅させ、ここで初めてペルシアは有利に立ち、ギリシアは苦戦を強いられた。そこで登場するのが、アテネのヒーロー・テミストクレス(B.C.528頃~B.C.462頃)である。マラトンが位置するアッティカ地方にあるラウレイオン銀山が発見されたとき、テミストクレスは銀の使い道について、市民平等分配を主張した政治家と論争し、ついにその政治家を陶片追放して、200隻の三段櫂船建造の費用に割り当てた。また彼はデルフィのアポロン神託で「木の砦(とりで)で戦え」との指示を得たので、市民を船で避難させ、奴隷をペルシアに派遣して"ギリシア海軍撤退"の虚報を伝え、ペルシア大艦隊(ギリシア艦隊の2倍)を狭いサラミス水道に誘い込んで全滅させた。これを機にペルシアは戦局不利に転じ、ギリシア有利となる。これがペルシア戦争最大の決戦となったサラミスの海戦(B.C.480)である。陸上でもプラタイア(B.C.479)でアテネ・スパルタ連合軍がペルシア陸軍を敗り、同年のイオニアのミカエレ岬の戦いでも勝って、ギリシア軍の勝利が確定した。

 大戦後、イオニア諸都市は独立を回復した。専制君主国に勝ったギリシアは、市民が自由と独立をポリスのために守ったことを誇りとし、今後の繁栄を約束した。ところが、ペルシアは報復計画は忘れようとはしなかった。これによりポリスを守る防衛組織・デロス同盟がデロス島におかれ、アテネが盟主となって、全ポリスを管理する、いわゆる「アテネ帝国」が築かれていくのである。

  大学受験で覚える古代ギリシア世界において、必ず出てくる戦争がトロヤ戦争・ペルシア戦争・ペロポネソス戦争・カイロネイアの戦いの4戦争でありますが、今回はその中でも特に内容の濃いペルシア戦争についてお話ししました。まず、各ポリスの内容は把握しておいた方がよろしいですね。アテネはイオニア人のポリスで、王や貴族のもとで集い、居住するタイプのポリスです。この集って居住する形式が集住(しゅうじゅう)で、シノイキスモスとも言います。一方のドーリア人ポリスのスパルタは、先住民を征服する少数完全市民型。人口を維持しながら、被征服民を抑圧する、文字通りの"スパルタ式"国制です。服属した自由民はペリオイコイと呼ばれ、国有奴隷はヘロットと呼ばれました。本編冒頭でも登場してきたアイオリス人のポリス・テーベはB.C.4世紀が全盛期ですかね。エパミノンダス(?~B.C.362)といった指導者や、スパルタとのレウクトラ戦争(B.C.371)などありますが、これらはあまり受験には出てきません。テーベで覚えることは、アイオリス人のポリスであること、カイロネイアの戦いB.C.338)で、アテネと組んでマケドニアと戦って敗れたことぐらいでよろしいかと思います。古代エジプトの中王国・新王国の首都テーベとは同名ですが、全くの別物ですのでご注意を。

 ペルシア戦争に入ってからは、数々の地名(マラトン・テルモピレー・サラミス・プラタイア・デロス)が出てきますので、登場順と共に要注意です。兵士フェイディピデスが戦場マラトンからアテネまで走って帰り、戦勝を報告して息絶えたエピソードから"マラソン"の起源をもたらしたのは有名ですよね(残念ながら受験項目ではないですが)。また、テミストクレスが作った三段櫂船の漕ぎ手は無産市民でした。彼らの活躍で発言権が増え、その後成年男子市民が民会を構成してアテネの民主政治が繰り広げられ、アテネは全盛期を迎えました。本編では触れませんでしたが、その時の政治指導者ペリクレス(B.C.495頃~B.C.429)の存在も忘れてはいけませんね。本当はペリクレス以降の時代も載せたかったのですがスペースの関係上、またの機会にさせていただきます。この頃のお話も大変面白いものがありますよ。

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