世界史の目-Vol.82-

弱国の勇者たち

 漢王室の一族だった劉秀(りゅうしゅう。光武帝。こうぶてい。位B.C.6-A.D.57)が漢王朝を再建し、後漢(東漢。25-220)として勢力を再び中国大陸にとどろかせたが、時が経ち紀元後88年、すなわち和帝(位88-105)が即位して以降は、皇帝の早世(若死に)が相次いだため、外戚(がいせき。皇后・妃の親族)・宦官(かんがん。後宮・貴族に仕えた男子)の勢力が増大していった。

 後漢の光武帝は豪族と結んで外戚を払い、儒教を奨励して礼教政治を確立したが、167年、12歳の霊帝(位167-189)が即位した頃は儒学者を中心とする官僚知識人(党人)と宦官勢力との対立が激化しており、宦官たちは策謀して党人を終身禁錮刑に処し(党錮の禁。とうこのきん。166,169)、始皇帝(B.C.259-B.C.210)の焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)以来の思想弾圧をおこした。儒教国である後漢にとって、その衰退を加速させるきっかけとなったのである。

 霊帝の末年には、農村でも異常事態が起こっていた。もともと霊帝の統治は、賄賂により官職売買を行うなど悪政で、こうした腐敗に加え、続発する天災による凶作で、生活に苦しむ農民は政情に絶えられないでいた。解決を見出すため、宗教団体・太平道(たいへいどう)を指導していた開祖・張角(ちょうかく。?-184)は、貧困農民に教義をささげ、184年黄巾の乱(こうきんのらん)という農民大反乱を勃発させた。張角は同年病死したが、反乱は華北一帯に拡大し、宦官軍は次々に投降、正規軍も歯が立たなかった。孤立した霊帝は党錮の禁を解除して党人たちを解放させ、外戚の何進(かしん。134?-189)を大将軍に任命した。軍人官僚や地方の豪族らに力を借りなどして討伐軍を組織させ、農民軍に対抗するのがやっとだったが、同184年末までに主力を鎮圧した。

 漢の王室では189年、後継者を決めぬまま霊帝が没した。後継者として、皇后・何太后(かたいごう。?-189)の子である兄の劉弁(りゅうべん。173-190)と異母弟の劉協(りゅうきょう。181-234)が争われたが、結局何太后と兄・何進によって、劉弁を擁立した(廃帝。はいてい。少帝とも。しょうてい。位189)。何一族の政権確立のため、何進は、部下の武将・袁紹(えんしょう。?-202)らとともに宦官勢力の一掃を計画するが、事前に察知した宦官は何進を殺害した。何進に仕えていた袁紹や曹操(そうそう。155-220)らによって宮中の宦官は一掃されたが、この混乱に乗じて洛陽(らくよう。河南省。後漢の都)に入った辺境軍人・董卓(とうたく。?-192)が、何進が殺されたことを機に政権を得ようとして、劉弁を廃してこれを殺害させ(189)、弟の劉協を擁立した(献帝。けんてい。位189-220)。
 董卓の行為に対し、袁紹らは怒り、反董卓討伐軍を組織するようになっていった。こうして、董卓、袁紹、曹操、劉表(りゅうひょう。?-208)、孫堅(そんけん。156-192)といった群雄の自立により割拠状態となり、後漢の滅亡は時間の問題であった。
 献帝を擁した董卓は192年、長安に逃れたが、群雄の呂布(りょふ。?-198)により殺された。その後献帝は曹操によって曹操の本拠地・許(河南省許昌。きょしょう。シュイチャン)に迎え入れられ(196)、曹操軍は官軍の名目を得た。その後曹操は袁紹を敗り(202。官渡の戦い。かんと)、数々の投降した軍兵を自身の軍に組み入れて勢力を上げ、華北の大部分を制圧し、後漢王朝を操る構えを示した。

 黄巾の乱に参加し、軍功をあげた地方の義勇軍の中に、劉備(りゅうび。161-223)という人物がいた。彼は河北省の楼桑村(ろうそうそん。北京南郊)出身で、字は玄徳(げんとく)という。前漢B.C.202-A.D.8)の景帝(けいてい。位B.C.157-B.C.141)の子・中山靖王・劉勝(ちゅうざんせいおう・りゅうしょう。?-B.C.113)の子孫と自称していたが、確証はない。官吏の家に生まれたが、幼少時に父を亡くし、生活は貧窮に苦していた。羽付き馬車に乗ること(つまり皇帝になること)に強い憧れを持ち、一時は儒学者廬植(ろしょく。?-192)に師事し学問を修めるなどしたが、もともと貧しかったため勉学にお金は注ぎ込めず、学問追究よりも任侠の徒と交わるようになった。この時関羽(かんう。?-219)、張飛(ちょうひ。?-221)といった豪傑たちと知り合い、義兄弟の契りを交わすことになる。
 黄巾の乱が勃発すると、23歳の劉備は、関羽・張飛ら豪傑、任侠の徒らを率いてと義勇軍を組織、平定にあたった。身分を問わず接しあおうとする劉備の人柄は、軍の求心力を高め、乱平定に成功、後に官職を授けられるなどした。その後曹操と親交が生まれ、「天下の英雄は君と私だけだ」と曹操に認められたこともあった。しかし劉備は曹操を快く思わず、やがて曹操の元を離れた。当時の曹操の戦術は凄まじく、目的を果たすためには手段を選ばず、武力でもって地を奪い、対抗する人々を容赦なく死に追いやった。194年、曹操は、徐州(じょしゅう。シュイチョウ。江蘇・安徽省北部)侵攻にあたり、数十万人もの人民を虐殺、死体は河に投げ込まれため、河の水が堰き止められたとされ、鶏や犬も生き残れなかったという(『後漢書』より)。この曹操による大虐殺行為によって、のちの『三国志演義(さんごくしえんぎ。羅漢中著。らかんちゅう。生没年不明)』では、悪役・曹操として語られることとなる。
 この頃献帝の側近が、王朝を打倒する曹操を討伐しようとする動きがあり、劉備は曹操を後漢王朝の賊とみなし、曹操を倒すことを決意した。しかしその後の劉備は、関羽・張飛らと各地の戦場を流浪し続け、最終的には劉表のいる湖北省の荊州(けいしゅう)に逃れ保護された。華北を手中に収めた曹操は劉表のいる荊州や、孫堅の次子・孫権(そんけん。182-252)のいる江南などを収めるため、南下政策を企図した。

 劉備は戦場での戦いには勝つものの、財産と兵力は、曹操軍には完全に劣っていた。それは、華北の曹操、江南の孫権とちがい、劉備は強固な地盤を築いていなかったことであり、血縁関係をきずいているわけでもなく、流浪の民そのものだった。劉備は荊州で戦いを忘れ、馬に乗る機会もなく無駄に日を過ごした。このため、劉備の太股には贅肉(ぜいにく)が付いてしまい、ひどく嘆いたとされ、ここに"髀肉の嘆(ひにくのたん。髀肉は太股の肉。実力発揮の機会がないことを残念に思い嘆くこと)"という故事成語が生まれた。

 こうしている内にも、曹操は荊州や江南に向けて、準備を進めていた。これに対し劉備側には、力強い軍人はいても、知略に優れた人物がいなかった。また、地縁・血縁が薄い劉備にとって、国力を蓄えるには人望で勢力を拡げるしかなかった。207年、曹操の軍と対峙することを予想して、知将として知られた諸葛亮(しょかつりょう。字は孔明。こうめい。181-234)の存在を知った劉備は、荊州の都襄陽(じょうよう)近くの古隆中(こりゅうちゅう)にいる孔明の隠棲先を訪問することにした。

 孔明は戦乱を避け、隠棲先の古隆中で晴耕雨読の生活を過ごしていた。一度目に劉備自身が訪れた際は、孔明は不在だった。二度目訪問時も不在、三度目の際、関羽の呼び止めも振り切って訪問すると、孔明は昼寝をしており、劉備は目が覚めるのを待った。孔明は目上の劉備が三度も自宅に訪問したことに感激した。このいわゆる"三顧の礼(さんこのれい)"でもって迎え入れられた孔明は劉備の力強き軍師として仕えることになった。また劉備のこうした行為は、若年時代の廬植の教えがこの時実を結ぶ形となったのである。
 208年9月、曹操が大軍を率いて南下をはじめ、荊州に攻め入った。劉表はすでに没し、子は曹操に降伏した。為す術のない劉備の軍は退却する事態となる。しかしこの時、難民化した数十万の民衆が劉備の後を追うように付いてきた。孔明をはじめ、劉備の側近たちは、難民を見捨ててでも、逃げるべきだと進言するが、劉備は、自身を慕って付いてきてくれている人々をむざむざと見捨てることはできないと返した。その後、曹操軍は荊州に攻め込み、江陵(こうりょう)を占領した。

 孔明は、華北の曹操、江南の孫権に直接対抗するのは得策ではないと劉備に進言した。さらに、曹操と孫権を対決させ、両者が争っている間、劉備は荊州を中心に地盤を固めて独立し、第3の勢力となり得るのが必要であると説いた。これが孔明の有名な計略"天下三分の計"である。そのためには、孫権陣営と劉備陣営が同盟を結ぶことが先決であった。

 江南の孫権は、軍力が曹操軍20万に対し3万と弱体であった。やがて孫権陣営内で軍議が行われるわけだが、『正史三国志・蜀書』によると、軍議では戦うか否かについて、数日思い悩み続けていたところに、派遣された孔明が孫権の元へ訪れた。家臣は孔明に対して、曹操との戦を懇願すると思ったが、会談で孔明は、戦うことを決定しかねるのは得策ではなく、曹操軍に打つ手がないのなら降伏する方がよいと孫権に進言したという。当然孫権は不快を示し、劉備こそ降伏するべきだと問い返したが、孔明は、曹操に対してわが主君(劉備)が降伏することはあり得ないことを主張したことで、孫権の自尊心をくすぐり、孫権は戦う決断をしたという。孔明の挑発に乗った孫権の陣営は、こうして劉備陣営と手を組むこととなった。

 208年12月、長江南岸の赤壁(せきへき。チーピー)で、劉備・孫権の武将周瑜(しゅうゆ。175-210)の連合軍が、南下する曹操の軍を迎え撃つことになった(赤壁の戦い)。孫権は江南陣営ということもあって、水軍にかけては秀でた戦術があった。この時、長江の北岸には20万の大軍が岸辺を埋め尽くし、対する南岸には、孫権・劉備連合軍がまばらに待機していた。連合軍の3倍もの数で攻めてきた曹操軍にはまず勝ち目がないと思った先鋒の黄蓋(こうがい。?-215?)は周瑜にある策を提案した。黄蓋率いる先鋒が自軍を裏切り、曹操軍に降りるという偽の情報を送ったのである。『三国志演義』では、黄蓋と周瑜を不和に見せかけ、黄蓋は周瑜に鞭打ちなどで身体を痛めつけられ、周瑜と断って曹操に降りるとしている。

 黄蓋は十隻の船を連れて、曹操軍の方へ投降したかのように近づいていった。曹操軍は降伏の船だと思い、手を出さずにいたところ、突然黄蓋率いる十隻の船から火が放たれた。密集した状態で思うように身動きが取れない曹操軍の船は見事に火攻めに遭い、遂に撤退したのである(黄蓋の策略は、自身の肉体を傷つけまでして敵を欺いたことで、"苦肉の策"の語源となる)。孫権軍・劉備軍の連合隊が遂に曹操軍との戦いで勝利に導いたのであった。曹操軍が撤退後、劉備は荊州南部を占領、荊州を根拠地と定め、211年、西隣の益州(えきしゅう)も獲得し、後の都となる成都(せいと)を獲得した。これで、華北の曹操、江南の孫権、四川の劉備という、天下三分が定まったのである。

 曹操は南下政策を中断し、華北整備に取りかかった。献帝のもとで、208年に丞相、さらには魏公(213)、魏王(216)と着々と累進していった。一方、勢力を上げた劉備に対して、荊州譲渡を要求する孫権陣営とは折り合いが悪くなり、対立状態となっていった。荊州は関羽が管理していたが、そのもとへ、孫権の陣営から武将・呂蒙(りょもう。178-219)が派遣された。呂蒙は、荊州を攻め、関羽を捕らえ処刑(219)、荊州は孫権陣営によって占領された。関羽は死後、軍神として関帝廟(かんていびょう。死後関帝とされたことによる)に祀られた。

 翌220年、曹操は洛陽で没した。事実上の華北統治者でありながら最後まで献帝を擁立して、自身は魏王の地位にとどまった。後を継いで魏王となった子の曹丕(そうひ。187-226)は、同220年10月、献帝に迫って禅譲(ぜんじょう。帝位譲渡)を要求、官僚たちは後漢を見限ったことで帝位を曹丕に譲った(後漢滅亡)。曹丕は文帝を称し(ぶんてい。位220-226)、洛陽を都に王朝(ぎ。220-265)を開基した。一方の劉備は、青年時代から義兄弟の契りを交わしていた関羽を失い、深い悲しみと、孫権に対する怒りが交錯していた。劉備は翌221年、文帝に対抗して、自身を漢の皇帝"昭烈帝(しょうれつてい。位221-223)"と称し、劉備の国、王朝(しょく。蜀漢。しょくかん。221-263)を開基した。そして、すぐさま関羽を奪った、孫権陣営に対する復讐戦を準備した。しかしその最中に、関羽とともに義兄弟の契りを交わし、長く劉備を助けてきた張飛が部下によって殺される事件が起こった(221)。
 劉備は、関羽・張飛ともに、実の兄弟のように長く慕ってきた。関羽と張飛は、劉備が孔明と親しむのを見て、大いなる嫉妬が芽生えたこともあったが、この時劉備は"私に孔明が必要なのは、魚が水を必要であるのと同じだ"と言いその場を収めた。こうした故事から、親密で離れることのできない友情や愛情を"水魚の交わり"と言ってたとえられる。

 その間孫権は、蜀の勢力増大化に対抗し、やがて戦時を迎えるにあたり、魏・文帝に臣従することを決め(220)、孫権自身も呉王(ごおう)に封ぜられた(王位222-252)。222年、劉備(昭烈帝)は、荊州を奪還するべく呉に侵攻するが、呉軍の巧みな戦術にかかり大敗を喫してしまった(夷陵の戦い。いりょう)。敗戦のショックから劉備は、病に伏せるようになる。一方呉王である孫権は、戦勝国の誇りから同年、魏から独立し、王朝を開いた(ご。222-280)。229年には建業(けんぎょう。現・南京)に遷都して、孫権自ら皇帝を称している(帝位229-252)。こうして、漢の時代は完全に終結、魏・蜀・呉の三国時代(220-280)の幕開けとなった。

 蜀の劉備は223年没し、当時17歳だった子の劉禅(りゅうぜん。207-271)が蜀皇帝に即位した。劉禅は統治には無関心のため、劉備は子劉禅ではなく、孔明に皇帝の位を授けることも考え、臨終の際に孔明に告げたが、彼は家臣として皇帝を補佐することに徹した。劉禅によって政務を任された孔明は平和に暮らせる秩序を取り戻すためには、政治が法にもとづくべきだと考え、法律制定に尽力、また、信賞必罰の制度をつくって、功労者には褒美を与え、失態者には罰した。夷陵の戦いで戦死した蜀の武将馬良(ばりょう。187-222。5人兄弟の長男で、5人とも優秀だが、特に馬良は際立って優れた才能の持ち主。眉に白い毛があったことから、同類の中で傑出していることを表す"白眉"の語源となる)の末弟である馬謖(ばしょく。190-228)を参謀に仕えさせた。

 孔明は、宿敵・魏と戦う前に225年南方遠征(南征)を行い、劉備没後に起こった雲南地方(蜀南部。蜀の支配下)の反乱の際、首謀者孟獲(もうかく。生没年不明)を捕らえ、極刑を処すと思いきや、孔明は彼を解放した。孟獲は当然復讐を遂げるため、再度反抗をおこし、孔明も再度彼を捕らえ、その後解放する、捕らえては放すこと6度繰り返し、7度目の際、ついに孟獲は、7度も負け、7度許されることに自身の愚かさを悟り、逃げることなく屈服したという(七縦七禽。しちじゅうしちきん)。
 雲南の反乱は収まり、同時に蜀は雲南の自治を許した。孔明は民衆に対して平和秩序を貫くのが重要と説いてきた。目的のためには手段を選ばず、民衆を虐殺する魏を、孔明は猛烈に反発、魏と戦う準備を整えた。そこで、出陣するにあたり、227年、皇帝・劉禅に「出師表(すいしのひょう。出師は出陣の意)」を上奏した。「先帝(劉備)が漢王室の復興という大事業を始められましたが、途中で崩御され、今天下は魏・蜀・呉の三国に別れ競い合っています。しかしながらわが国・蜀は疲弊、今こそまさに国の存亡が問われる大事な時であり、陛下をお守りする家臣が微力を尽くして怠らず、戦場で身を投げ出し、忠誠を尽くして敵を討ち滅ぼしておりますのは、先帝の厚い待遇を忘れず、御恩を陛下にお返ししようとしているからであります。」という内容で始まる上奏文は、これを読んで感泣しない者は忠臣ではないと言われたほど名文で名高い。上記以外にも、劉禅自身が徳に欠けると決めつけるのではなく、宮中と政府は一体でなければならないといった内容もあり、最後には「諸葛亮孔明は先帝・陛下の多大なる御恩を受け、感激にたえません。今まさに国を遠く離れて、北征(北伐。ほくばつ。北の魏に侵攻すること)を行うにあたり、涙が流れ出るばかりで、何を申し上げて良いのか、自身でもわからなくなってしまいました。」と記されてある。三国の中で最も弱小勢力だった蜀が、大国・魏に勝つために死力を尽くし、皇帝の御恩に報いようという至誠あふれた姿は、北征を決戦として覚悟を決め、必ず勝利を収めることを誓っている。

 遂に北の魏に向かって出陣、翌228年、北征を開始した。初戦の相手は、かつて蜀の配下にいた孟達(もうたつ。?-228)で、今や魏の将軍であった。孔明は蜀の陣営に孟達の引き込みを考えたが、魏の武将司馬懿(しばい。司馬仲達。しばちゅうたつ。179-251)に阻まれ、孟達は殺された。しかし、司馬懿が知略縦横の孔明を要注意人物と見ていた通り、開戦当初の戦況は孔明の蜀軍側が優位にすすみ、旧都である長安占領も時間の問題とされた。長安西方の要地・街亭(がいてい)で陣を設けた孔明は、指揮官に、孔明自身に代わり得る人材として目を掛けていた馬謖を抜擢した。孔明は馬謖に山裾の街道を守る戦術を伝え、街亭に派遣させたが、兵学の知識の濃い馬謖は、孔明の指令を無視して、高地を征して行く手を阻む作戦に出、高地に部隊を上がらせて待機した。しかしこれが仇となり、司馬懿軍は十万の兵で高地を囲み、麓の水源を断たせた。水不足で苦しめられた馬謖軍は、結局肉薄戦しかなく、高地を駆け下りて体当たりしたが、後の祭りで大敗を被ることになった。すでに親子同然の契りを交わしていた孔明と馬謖であったが、北征失敗の責任は大きかった。周囲は馬謖の極刑だけは避けるよう進言もあったが、蜀の政治・軍事における最高責任者・丞相として、信賞必罰の制度を定めた孔明にとって、忍びなくも馬謖の処刑は免れなかった。馬謖から訣別の辞を渡された孔明は、彼の首を刎ねた("泣いて馬謖を斬る"の故事)。孔明は処刑直後、北征失敗の責任を取って、丞相を辞任、自ら三階級降格して右将軍にしてほしいと劉禅皇帝に願い出た。そして、敗戦の事実は、すべて蜀の民に公表し、奮起を促せた。

 その後北征は一進一退が続き、234年、遂に最後の決戦となった。丞相の位に戻った孔明は呉と密約を結び、両国が同時に魏へ攻め上り、挟撃する計画をたてた。蜀の部隊は険しい秦嶺山脈(しんれい。チンリン)の北麓の五丈原(ごじょうげん。陝西省岐山県南。最も幅が狭まったところが"5丈"なのでこの名がある。5丈は約15m)で本陣を構えた。孔明は長期戦に備え、この地を開墾し、作物を作らせた(諸葛田)。魏軍の指揮官・司馬懿もまた、孔明の知略を怖れて、陣内に籠もり決戦を避ける持久戦法を取った。その後睨み合いが続くが、孔明は、すでに健康を害しており、病魔に蝕まれていた。陣内においても孔明は内政を怠らず、首都成都に伝令を送るなど、内外の激務をこなしていた。

 ところが、事態は一変した。呉が魏に大敗を被ったのである。五丈原では長期持久戦で膠着状態となっているため、頼みの綱は呉軍だったのである。呉軍と共に魏を挟撃する野望はここで挫かれた。しかしこのとき五丈原にいた魏の司馬懿は、呉が敗れた以上、諸葛亮孔明の知略により何かを起こすに違いないと悟り、あえて専守防衛として依然陣内に立て籠もり、蜀軍の食糧が尽きるのを待った。

 陣を構えて3ヶ月以上過ぎたところで、孔明は自身の死を悟り、部下たちに最後の戦術となる指令書を渡した。その内容は、撤退の方法だった。孔明が死しても、決して魏に悟られないよう、何事もなかったかのようにふるまい、撤退せよという内容であった。そして同234年8月23日、諸葛亮孔明は54年の生涯を五丈原で終えた(諸葛亮死去)。
 司馬懿は諸葛亮死去の情報を聞き、蜀の部隊は孔明の指令書通りに撤退した。司馬懿の軍はすかさず追撃しようとしたところ、蜀の軍は陣太鼓を叩き、反撃の姿勢をみせた。司馬懿は、この単純な行動に対し、孔明はまだ存命で、孔明の死は司馬懿自身を欺くための計略だと思いこみ、すぐさま追撃をやめて、慌てて撤退したのである(『三国志演義』『蜀志』)。この故事は後世、"死せる孔明生ける仲達を走らす(死後もなお生前の威力が保持され、生きている人を震え上がらせる)"として残るようになった。司馬懿は蜀が構えた陣営跡を視察し、孔明に対し、「天下の奇才」と驚嘆した。

 名臣を輩出したこの蜀王朝は徐々に衰退し、魏の成都侵攻によって劉禅は降伏、蜀は263年、滅亡した。劉禅は魏の安楽公に任ぜられ、271年に没した。しかしこの魏も、司馬一族の台頭をもたらし、最後の皇帝・元帝(位260-65)からの禅譲を受けた司馬懿の孫、司馬炎(しばえん。236-290)によって滅ぼされ(265)、司馬炎は武帝(ぶてい。位265-290。廟号は世祖。せいそ)となり王朝(しん。西晋。せいしん。265-316)をおこした。そして280年、三国の最後、呉を滅ぼして、後漢王朝以来の中国大陸を統一することになる。これにて、三国時代の幕は下ろされた。

 この時代のお話は早くから暖めておりまして、遂に、ご紹介できる日が実現しました。個人的にも三国志のお話は好きでして、特に劉備と諸葛孔明の治世については、以前から書物やテレビに没頭していました。本編でもご紹介したとおり、この時代のお話は、後世に熱く語り継がれる内容ばかりで、こうしたことから、多くの故事成語が生まれ、高校でも漢文などで広く取り上げられ、日常でも慣用されることが多いです。"お勉強"というよりは"むかしばなし"的に知ってもらうのもよろしいかと思います。

 3~4年前、テレビで劉備と孔明の特集番組がありましたが、赤壁の戦いにおいて、本編にはなかったエピソードがあります。『三国志演義』によると、南岸にいた劉備・孫権の連合軍は、曹操軍の船団で埋め尽くされた北岸では、身動きが取れないことを好機と判断しました。そこに火を放てば、船団は激しく炎上するだろうという見方でした。この時期は冬で、長江は北西の風が吹き、南岸にいる連合軍にとっては向かい風となり、火を放っても自軍の方に降りかかってしまいます。南岸に待機する連合軍にとっては、北岸方向へ吹く、夏におきやすい東南の風が必要でした。この時、孔明は拝風台という台座をつくり、東南風を吹かせるまじないを始めました。すると、風は東南の方向へ吹いたという話です。これは伝説的要素ですが、近年の研究によると、同地での北西の風は、北西風が吹き込む場合、南岸部に暖気があると、激しい対流をおこして風向きが変化し、東南方向に吹き返すとのこと。孔明は、南岸部で暖かい日が続いていたことを、住民などから聞いていたらしいです。このまじないも周囲に超人的存在を見せつけるためのものであったと言われています。東南の風が吹くと、黄蓋が船を曹操軍に近づけて、火を放ったわけです。当然風にあおられた火は曹操軍の船団を焼きつくしていきました。 

 実際、大学受験では、孔明のお話は世界史にはほとんど出題されません。大学受験での古代~中世の中国史は王朝の変遷が母体ですから、「何年に誰某が○○王朝を建国して、何年に誰某が中国全土を統一し、首都をどこそこに定め、何年に何々の理由で滅んだ」という形式が主です。ですので、受験という意味で学習する際、ここでは魏晋南北朝時代の前半部分における王朝の変遷を中心に見ていかないといけませんね。また三国志内では、蜀が主役、魏が悪役のイメージがありますが、これも残念なことに受験では魏が三国時代の王様で、魏は後漢を滅ぼし、三国の蜀を滅ぼしますが、結局最後は西晋に滅ぼされるという史実を主体に学習します。なんだか味気ないですがね。

 では学習ポイントを見ていきましょう。魏晋南北朝時代の前半が今回の内容ですが、この単元が苦手な人は、王朝の名前を聞くのもイヤでしょうね。魏晋南北朝時代は簡単に言うと、三国時代(220-589)→西晋(265-316)→五胡十六国時代(304-439)→南北朝時代(439-589)となります。とくに三国時代の内容があまり得意ではない方はまず下の表を覚えておいて下さい。

三国 建国年 滅亡年 首都 建国者 地域
220 265 洛陽 曹丕 華北
221 263 成都 劉備 四川
222 280 建業 孫権 江南

 表以外では、魏においては曹丕の父の曹操、蜀は劉備に仕えた関羽・張飛は覚えておいた方がイイと思います。諸葛孔明は、出題頻度は少ないですが、偉人ですので一般知識として知っておきましょう。魏の建国が220年ですから、前王朝の後漢の滅亡は220年です。
 蜀と呉ではイイ覚え方があります。蜀(Shoku)・成都(Seito)・四川(Shisen)・劉並びに呉("ご"は"くれ→Kure"とも読みますね)・建業(Kengyou)・江南(Kounan)・孫を使って、3Sの備え3Kの権利と覚えて下さい。言ってみればこれを覚えると残りの事項(洛陽・曹丕・華北)が魏になります。洛陽が魏の首都なら、前王朝の後漢は洛陽になり、次王朝の西晋も洛陽になります。江南は今の南京である建業が中心地で、晋の司馬一族の一人司馬睿(しばえい。276-322。元帝。位318-322)が江南に移ってつくった東晋(とうしん。317-420さいなら東晋死にやが)の首都建康(けんこう)は建業の改称です。南北朝時代における南朝()の首都も建康です。

 西晋は建国年265年、呉を滅ぼして中国統一ができた年が280年、西晋が滅亡した年は316年です。向こやれ一路西進と覚えて下さい。西晋の時代に起こった八王の乱や永嘉の乱、また五胡十六国時代の内容は「Vol.21匈奴」の終末に少し触れてありますので、そちらを参照下さい。

 後漢末の黄巾の乱勃発年(184)は、アヘン戦争勃発年(1840)の上3ケタです。似たような反乱もありますので注意して下さい。紅巾の乱も"こうきん"と呼びますが、これは元朝(1271-1368)末期の反乱で1351年に勃発しています("いざ来い紅巾"で覚えましょう)。また黄巣の乱(こうそう)もありますが、これは唐朝(618-907)末期の875年の農民反乱です("やなこった黄巣")。色シリーズ(?)では赤眉の乱(せきび)もありますが、これは18年から9年間おこった農民反乱で、王莽(おうもう。B.C.45-A.D.23)がつくった新朝(8-23)が滅ぶ結果となります。

 ちなみに『三国志演義』は羅漢中の作品ですが、原型が整ったのは元朝の時代で、『水滸伝(いこでん)』『西遊記(いゆうき)』とあわせて3Sとして覚えて下さい。これらは明朝(みん。1368-1644)の時代に完成され、『金瓶梅(んぺいばい)』とともに3S1Kと覚えると便利です(4作品をまとめて"四大奇書"といいます)。これに対して『三国志』は魏晋南北朝文化(江南中心なので"六朝文化"とよばれる。りくちょう)の作品で『魏志』『蜀志』『呉志』より構成されています。日本の邪馬台国のことが書かれているのが『魏志』のなかの「倭人伝」であることは有名ですね。

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