世界史の目-Vol.83-

個人崇拝の戦慄

 1922年ソヴィエト社会主義共和国連邦ソ連)が成立した。同年ラパロ条約(ジェノヴァ近郊)によって、ドイツはソ連を承認し、1924年にはイギリス・フランス・イタリア、25年には日本、しばらくして33年にはアメリカが承認、資本主義国との正常化が進んでいった。

 1924年、ボリシェヴィキを指導し、ロシア革命を達成させて社会主義政権を確立してきた第一人者、レーニン(1870-1924)が急死した(レーニン死去)。レーニンの死により、ソ連国家を誰がどのように建設していくかが争われていった。その後継者は、レーニンを助けてロシア革命とそれによって引き起こされた内戦を勝利に導いたトロツキー(1879-1940)が、当初の有望株であった。トロツキーは"世界革命論(永久革命論)"を掲げており、その内容は、カール=マルクス(1818-83)の時代に溯る。ドイツの社会主義者だったマルクスの考えでは、社会主義革命は世界革命として実現されると主張していた。社会主義革命は1917年のロシア革命によってレーニンやトロツキーらによって実現されたが、世界革命ではなく、一国の孤立した革命に終わった。トロツキーは、いまだ後進国の枠から出ていないソ連が、単独で社会主義国家を建設すると、国際的に孤立化を招き、資本主義国家と対立するであろうから、他国の革命支援に全力集中し、全世界が社会主義化するまで国際的に世界革命を継続させようと主張したのである。

 ソ連共産党書記長はレーニンの後、スターリン("鋼鉄の人"の意味をもつ筆名。本名ジュガシヴィリ。1879-1953)が務めていたが(任1922-53)、彼はトロツキーの世界革命論を真っ向から否定した。スターリンは、1923年頃から衰微し始めたヨーロッパの革命勢力に対し、広大な領土を所有するソ連一国で、社会主義国家建設は可能であるとする"一国社会主義論"を主張した。

 当時、共産党員には、トロツキーやスターリンの他、ブハーリン(1888-1938)、カーメネフ(1883-1936)、ジノヴィエフ(1883-1936)、キーロフ(1886-1934)といったロシア革命、ソ連建設に大きく貢献した要人がおり、軍関係においても、反革命派や外国からの干渉軍と戦い、軍功をおさめていたソヴィエト政権下の軍隊"赤軍(赤衛軍)"に属するトゥハチェフスキー(1893-1937)ら、誇り高い指導部たちがいた。

 ブハーリンは、コミンテルンでの執行委員長を務め、スターリンの一国社会主義論に賛意を表し、トロツキーの持論を批判したが、ネップ新経済政策NEP)の資本主義への譲歩的政策を嫌い、農場国営・産業集団化を決めようとしているスターリンに対し、徐々に反スターリン派となっていった。カーメネフはユダヤ系で雄弁家であるが、青年期、流刑先でスターリンと親睦を深めたことがある人物で、レーニンの十一月革命蜂起には反対の立場を取る穏健派であった。革命後はモスクワ・ソヴィエト議長などを務め、レーニンの後継書記長として、スターリンを推薦していた。
 ジノヴィエフは、レーニンの秘書として党機関紙編集などを行っていた、レーニンと最も親しい間柄を持つ人物である。ただ、カーメネフと同様、十一月蜂起には反対し、レーニンとの対立を生んだこともある。革命後ペトログラード・ソヴィエト議長やコミンテルン執行委員長などを務めた。レーニンの晩年頃から、ジノヴィエフとカーメネフはスターリンと"トロイカ(3頭立ての馬そり)"を組んでトロツキーと対立、トロツキー派の主張を"トロツキズム"と軽蔑した。
 キーロフはレーニンの晩年期に共産党の中央委員に選出され、レニングラードで党第一書記を務めていた。ソ連の一邦ザカフカース(現・グルジア共和国)編入に関わったことがあり、スターリンに慕われていた。トゥハチェフスキー元帥は、革命期から共産党員で、反革命軍や干渉戦争を戦い抜いた。また、戦時共産主義時代、食糧不足におけるソヴィエト政権への不満から、ペトログラードでクロンシュタット軍港の水兵が反共暴動をおこしたが(クロンシュタット反乱。1921.3)、トゥハチェフスキーが軍を率い、数日でこれを鎮圧させた功があった。

 スターリンはレーニン没後、ジノヴィエフとカーメネフによるトロイカを中心に、党を管理していった。そこでスターリンは冒頭のトロツキーとの建国論争で彼を党から除名する意向を示し、彼の一国社会主義論に賛意したブハーリンもスターリンと組むようになるが、その一方で、トロイカの残り2人、ジノヴィエフとカーメネフは、徐々にスターリンに離反する傾向を示しはじめ、トロツキー除名には反対するようになっていった。しかし結局のところ、党大会では、スターリンの一国社会主義論が導入されることになり、トロツキー及びジノヴィエフとカーメネフは1926年を境に党除名処分を受け追放された。
 トロツキーは1929年国外追放処分をうけ、トルコなどを経て1937年、メキシコへ亡命し、"第4インターナショナル"を結成してコミンテルンと対抗したが、スターリンの差し向けた刺客によって、1940年、暗殺された(トロツキー暗殺)。

 スターリンは、農業国から工業国への転換をはかるため、ネップに次ぐ社会主義経済政策、第一次五ヵ年計画(1928-32)を実施した。折しも、資本主義国は1929年以降の世界恐慌の波及により瀕死状態に陥る中で、ソ連の重工業を飛躍的に伸ばし、鉄鋼業、石油、電力の生産が増大し、多くの部門で目標額を超えた。また農業では、農場の集団化・機械化がすすめられ、これまでネップに支えられてきた都市の小所有者階級(ネップマン)や富農(クラーク)らの土地・財産は没収となった。これにより、集団農場コルホーズ)と国営農場ソフホーズ)の拡大化が可能となった。しかし農村では、農業生産の急低下で飢餓状態に陥った。ボイコット傾向にあった農民は、農作物を隠し、家畜を処分するなどして対抗したのに対し、スターリンが結成した秘密警察ゲー・ペー・ウー(GPU。チェカ廃止後設置)がこれを取締り、違反した農民、反スターリン派農民を容赦なく大量に捕らえ、シベリアの強制収容所へ送った。

 1933年からは第二次五ヵ年計画(1933-37)、1938年より第三次五ヵ年計画(1938-42)が実施され、消費財や軍需部門に重点が置かれて増産体制を確立した。しかしスターリンと組んでいたブハーリンは、第一次五ヵ年計画を実施した頃から、スターリンが次第に個人崇拝を強要する傾向を示し、しだいに対立するようになっていた。遂にブハーリンは1929年、全役職を解任させられ、党除名処分を受けたが、ナチス=ドイツの台頭に危惧を示し、自己批判を行って再度スターリンを支持する(1931)。

 この個人崇拝は、ブハーリンとともに自己批判を行って復党したジノヴィエフやカーメネフらによっても支持されることとなり、1934年の第17回共産党大会においては、雄弁の持ち主であるカーメネフが個人崇拝の演説をさせられたことにより、スターリンを崇拝する個人独裁国家、つまり、"スターリン独裁"の誕生を意味するのであった。

 スターリンはモスクワ大公だったイヴァン雷帝イヴァン4世。公位1533-84。ツァーリ位1547-84)を尊敬する人物として挙げていたとされる。グルジア人の靴職人の家に生まれたスターリンは、もともと冷酷で残忍な性格であったが、少数民族出身というコンプレックスから、極度の人間不信の傾向があったとされ、一方で、権力の独占意欲や、過剰なまでの自意識があったといわれている。

 こうした性格を持つスターリンが、次第に個人崇拝と独裁欲を顕示するようになっていくが、この時、国民を震撼させる大きな恐怖が襲来した。1934年11月、レニングラードの党中央委員会第一書記だったスターリン派の要人、キーロフが、党本部で暗殺された(キーロフ暗殺事件)。事件勃発当初、ジノヴィエフやカーメネフら、そして国外のトロツキーらによる反スターリン派によるテロ行為とみなされたのである。ゲー・ペー・ウーはただちにジノヴィエフやカーメネフを逮捕し、結果、彼らは短期間の禁固刑に処された。さらに、1936年から38年にかけ、過去ジノヴィエフやカーメネフらによっておこされた"合同本部陰謀事件"や"平行本部陰謀事件"、そして"右翼トロツキスト陰謀事件"が裁判にかけられた。また赤軍の元帥トゥハチェフスキーが、敵国ドイツに通謀してクーデタを計画したとして逮捕され(トゥハチェフスキー事件)、これも裁判にかけられた。またブハーリンは、捏造された反国家の陰謀を問われ、逮捕された。

 第一次五ヵ年計画を成功に導いて反スターリン派に打ち勝った第17回共産党大会では"勝利者たちの大会"といわれ、またキーロフ暗殺事件を機に、これまで革命や国家樹立に貢献してきた共産党員、政府、軍部の大物要人たちを大量に逮捕、裁判にかけることになり、この結果、逮捕者は"反革命の罪科"で即時銃殺刑が決められた。
 第17回大会に出席したスターリンに賛辞を惜しまなかった大会代表1965名のうち1180名、共産党の中央委員に選ばれた139名のうち98名が、この逮捕後、銃殺刑に処せられた。このなかにはジノヴィエフやカーメネフも含まれ、彼らの妻や子どもらとともに銃殺刑に処された。トゥハチェフスキーも1937年に、ブハーリンは翌1938年5月に、それぞれ銃殺刑に処された。トゥハチェフスキー処刑時には3名の元帥、13名の軍司令官(大将)、約5000名の将校も処刑された。これを大粛清という(だいしゅくせい。1936-39)。またドイツとの戦争(第二次世界大戦)の危機が高まる中で、日本やドイツなど敵国との通謀のおそれがあるとして、ソ連内の少数民族(カフカスのチェチェン人、クリミアのタタール人、樺太や沿海州の朝鮮人、ソ連内に居住するドイツ人)をカザフスタンなど中央アジア方面に強制移住させた。農民のシベリア強制収容所への強制移住を含めると、スターリンによって命を落とした数はおびただしく、裁判による処刑者約100万人を含む、約2000万人の犠牲者が出たとされる(真の死者数は不明)。

 スターリンの大粛清が行われる中で、個人崇拝による独裁は政策の面でも過激化した。ロシア南部ヴォルガ河下流のツァリーツィン市を「スターリングラード」と改め(現ヴォルゴグラード)、自身の写真を国内の各要所に多く掲げた。そして、1936年にはスターリン憲法が制定され、立法府を連邦会議・民族会議の二院制をとり、男女普通選挙制度(満18歳以上)、ソ連市民全員なる平等な諸権利の享受のほか、社会主義経済機構(国営産業とコルホーズ)、勤労者代表のソヴィエトとしての国家機構などが定められた、社会主義の基本憲法とされた。

 第二次世界大戦では、当初敵国ドイツと独ソ不可侵条約1939.8)、同じく敵国日本と日ソ中立条約1941.4)を結び、その間中立を保てたことで国力蓄積に成功した。1941年6月22日には独ソ戦を開戦、ただちにイギリスと相互援助条約(1942.6.26)を結び、これにアメリカも加わって強力な陣営を築いた。独ソ戦では、スターリングラードが激戦地となった(スターリングラードの戦い。1942.7-1943.2)。スターリンはソ連軍司令官・国防相を兼任し、1941年に首相(任1941-53)、1943年には大元帥となり、連合国首脳会談では常に代表として出席、その中の同1943年11月テヘラン会談では、アメリカ、イギリスと対ドイツ第二戦線形成について協議し、1945年2月のヤルタ会談では戦後ドイツの米英仏ソによる共同管理を約し(ヤルタ協定)、ドイツ降伏後2,3ヶ月を経て対日本への参戦、そして日露戦争(1904-05)で奪われた南樺太、旅順・大連の租借権の返還、満鉄の中ソ合併経営、千島列島の返還を主張した(米ソ間の秘密条項)。これは参加したアメリカのソ連に対する"譲歩と妥協"にほかならないとして戦後批判をうけることになる。

 1945年5月7日、ドイツは無条件降伏し、ヨーロッパでの大戦は終結した。そして、中国の同意を得て、日本への無条件降伏を勧告するポツダム宣言ポツダム会談1945.7)で発表された。ソ連は日本が同1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下された後、日ソ中立条約を無視して対日参戦し(1945.8.8)、満州・樺太・千島を占領した。日本は8月15日、ポツダム宣言を受けて無条件降伏し、ソ連は戦勝国となったのである。

 戦後、ソ連は社会主義国・中国と親交を結び、またスターリンは東西冷戦冷たい戦争)における東側陣営の主役となって、資本主義国を脅かした。国内では、ドイツ、日本との戦いを勝利に導いたスターリンを讃えた。
 しかしスターリンは、1953年3月1日、書記局員のマレンコフ(1902-88)、国防相のブルガーニン(1895-1975)、そして独ソ戦で陸軍中将、ウクライナ首相などを務めていたフルシチョフ(1894-1971)らと会食後、脳卒中で突然倒れ、4日間起きあがらず3月5日、死去した(スターリン死去)。死因は脳内出血と発表(暗殺説もある)、レーニン廟で埋葬された。ソ連の独裁的存在の消滅は、内外に大きな衝撃を与えた。

 その後、マレンコフが首相を務め(任1953-55)、フルシチョフが党第一書記に選出された(任1953-64)。マレンコフはその後フルシチョフと対立し解任・失脚、ブルガーニンが首相となった(任1955-58)。フルシチョフは個人独裁を否定し、集団指導制と呼ばれる指導体制に切り換え、指導者の合議を通過して重要議案を決するものとした。

 1956年2月、スターリン死後最初のソ連共産党第20回大会が開催された。東西冷戦の"雪どけ"を決定づける「平和共存路線」を発表、その後東側陣営の情報局的存在だったコミンフォルム(1947.10-1956.4)の解散が実現した。さらに、同大会の最終日(2.25)、フルシチョフが秘密報告としてスターリンの個人崇拝と、スターリンが行った大粛清を正々堂々と非難した(スターリン批判)。この秘密報告は6月、全世界に公表された。

 フルシチョフは、第22回大会でも同様にスターリン批判を行った。同大会でのスターリン批判では、大粛清の契機となったキーロフ暗殺事件についても触れられ、再調査の段階であると発表した。そして今日では、事件の真相は勃発当時とは大きく異なっており、人気の上がっていたキーロフに対してスターリンが嫉妬した、反対派を粛清するための口実として、スターリン自身が暗殺者を利用、キーロフを殺害させたとの見方を強めているとされている。

 スターリン批判は一部を除いて瞬く間に東欧諸国にも浸透し、1961年、スターリンの遺体はレーニン廟から撤去された。

 非常に怖いお話でした。独裁者のお話は過去に幾度かご紹介させていただきましたが、なかでもスターリン独裁は、血生臭さにかけてはダントツと言えます。
 ナチスのヒトラーをも震えがらせたとされる独裁者スターリンは、裏切り者に対しては容赦なく死を選ばせました。そして、多くの反対派を退けながら、5ヵ年計画にはじまる多大な改革の成功や、対外戦争での勝利で、彼は自身に対してますます個人崇拝と独裁欲を蓄積していったのだと思います。本編に触れなかった内容の中で、これは大学入試にはまず出ないと思いますが、"医師団陰謀事件"という事件がありました。スターリン晩年期、クレムリン内で従事するユダヤ人医師団がクレムリンの要人を殺す計画をたてているという噂があがり、スターリンがユダヤ医師団を片っ端から粛清したという内容です。実際はゲー・ペー・ウーのユダヤ迫害からきたものだったそうですが、スターリンの被害妄想も甚だしく、非常に強い猜疑心の持ち主でした。単純に対話する相手が賛同の姿勢を示さないと(例えば会話時にスターリンから目を反らす等)、すぐさま殺意を抱くような激しい性格であったとされています。帝国主義期から戦後数年間の激動の時代で、個人独裁を完遂するには、それほどの脅威が必要だったかもしれないといえばそれまでですが、それにしても恐ろしいです。

 では、今回の学習ポイントです。大粛清の内容は1936年から39年頃に行われたということだけ知ってもらえれば良いと思います。余裕があれば、難関受験で、原因となったのはキーロフ暗殺事件であるということも知ってもらえれば万全です。今回登場した、ブハーリン、ジノヴィエフ、カーメネフ、トゥハチェフスキーの人物像に関してはマイナー事項ですので、彼らを答えさせる問題があるとしたら、実に超難関校でしょう。
 スターリンの"一国社会主義論"、トロツキーの"世界革命論"の内容は知っておきましょう。トロツキーが失脚する原因となった論争です。ソ連誕生後、いろいろな社会主義政策が実施されましたが、順に追うと、戦時共産主義→NEP→第一次五ヵ年計画(コルホーズやソフホーズ)→第二次五ヵ年計画→第三次五ヵ年計画と続きます。スターリンの晩年には、第四次五ヵ年計画(1946-50)も実施され、スターリンが臨終の頃には第五次五ヵ年計画(1952-56)も行われます。同じく、五ヵ年計画といえば、中華人民共和国バージョンがあります。第一次は1950年代、その後半(1958)から第二次五ヵ年計画がスタートします。第二次では、人民公社による農業集団化が行われ、"大躍進"時代が到来します。

 戦後のスターリン批判も重要です。共産党大会は第20回のとき、フルシチョフが発表しました。"雪どけ"路線が出発し、コミンフォルムが解散して、冷戦緩和へと向かいます。しかし、これにより、東側陣営の社会主義諸国が動揺し、ハンガリーでは、ナジ=イムレ(1895-1958)の指導で改革がおこり(ハンガリー事件、ハンガリー反ソ暴動。1956.10)、ポーランドもボズナニ市を中心に反ソ暴動が起こり、ゴムルカ(ゴムウカ。1905-82)政権が誕生します。チェコスロヴァキア、ルーマニア、アルバニアなどもソ連批判が相次ぎ、挙げ句の果てには、中国と中ソ論争が発展していきます。

 余談ですが、大会後の翌1957年、ソ連では人工衛星スプートニク第1号が打ち上げに成功しています。技術開発の面でも飛躍的に進歩していたのですね。

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