世界史の目−Vol.86−

東方問題・その1〜ムハンマド=アリーとエジプト=トルコ戦争〜

 オスマン1世(位1299-1326)によって建設されたオスマン帝国オスマン=トルコ。1299-1922)は、原住の小アジア西北部から勢力を拡大させ、1453年にはメフメト2世(位1444-45,45-46,51-81)によってビザンツ帝国(395-1453)を滅ぼし、コンスタンティノープル(イスタンブル)を首都とした。またセリム1世(位1512-20)のとき、マムルーク朝(1250-1517。首都:カイロ)を滅ぼしてエジプトを手中に収め(1517)、メッカやメディナの保護者としての地位を得、スルタンとカリフを掌握した。その後スレイマン1世(位1520-66)の統治によって帝国は全盛期を迎え、ウィーン包囲(1529)を1ヶ月余行い、またプレヴェザの海戦(1538)でスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇らが組織したキリスト教軍隊と戦ってこれを破った。一時レパントの海戦1571)にプレヴェザでの同じ相手国によって後退したものの、動せずして地中海の覇権を維持し、その脅威を西欧諸国に見せつけた。北はロシア南部、南はサハラ砂漠、西はギリシア、ハンガリー、アルジェリア・エジプトから東はイエメン・イラクまで及び、地中海・エーゲ海・黒海の制海権も掌握するという、ヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸にまたがる大国家に変身した。

 ただ、広大な領土を持つオスマン帝国は、異なった民族・言語・宗教・慣習・文化も呑み込む複合民族国家的要素の濃い国家であったため、被支配国との対立は鎮まることがなかった。また17世紀になると、西欧の躍進に遅れをとり、第2次ウィーン包囲(1683)も失敗してオーストリアにハンガリー・トランシルヴァニア・スロヴェニア・クロアチアを、ロシアにアゾフ地方を、ポーランド・ヴェネツィアらにも若干の領土をそれぞれ割譲する屈辱を味わった。このカルロヴィッツ条約1699)が帝国盛衰の分岐点となった。
 まず、ロシアの南進により、1736年から39年にかけ、オスマン帝国は最初のロシア=トルコ戦争(露土戦争)を起こしたが、敗れてアゾフ海を奪われた。また1768年にもロシア皇帝エカチェリーナ2世(位1762-96)が開戦に踏みきり、オスマン帝国はこの戦争にも敗れてキュチュク=カイナルジャ条約(1774.7。南東ブルガリア方面)を結ばされ、アゾフなど黒海北岸の割譲とロシア船の黒海自由航行権、クリム=ハン国(1430?-1783。黒海北岸のイスラム教国)の解放などが決められた。これまでオスマン帝国の要衝だった黒海北岸の喪失は、帝国の衰退を早めていったのである。その後もオスマン帝国は、1791年オーストリアとシストヴァ条約、ロシアとヤッシー条約(1792。再度の露土戦争の講和。ドニエプル河口地域とクリミア半島割譲)を結んで、領土問題を根深くさせていった。それに対しロシアはクリム=ハン国併合(1783)、グルジア保護国化(1801)、オスマン支配下のモルタヴィア公国領ベッサラビアの取得(ブカレスト条約。1812)など、その勢力を強めていき、やがて地中海東部地域に目を向けるようになっていった。

 一方フランスのエジプト遠征(1798-99)もまた、当時のオスマン帝国を動揺させた事件であった。ナポレオン時代(1799-1815)のフランスは、エジプト遠征によって、オスマン領エジプトを保護国とする目論見であり、一方のオスマンにとってはエジプトからの税収は貴重な財源であった。オスマン帝国の不安をよそに、フランスはエジプトに侵攻、エジプト人に対して、オスマン帝国からの解放を保障し、自国の支配下に入れようとした。ところが事態は一変、カイロ入城後のフランスは、ナショナリズムの高揚から完全解放を望むエジプト人に反感を買われ、フランス撤退を呼びかける反乱が起こったのである。これを好機と見たオスマン帝国はイギリスの支援を受けてフランス軍と戦い(1800.7)、フランスは敗れて翌年オスマン帝国のエジプトにおける主権が回復した(1801。ロンドン和平会議)。

 は、フランス軍が撤退したオスマン領では、ウラマー(イスラム系知識人。学者・宗教指導者層)や市民が、ある人物を支持し始めていた。その人物はムハンマド=アリー(1769-1849)という人物で、オスマン支配下であるマケドニア生まれのアルバニア人である。ナポレオン(1769-1821)のエジプト遠征の際には、アルバニア軍を率いてナポレオン軍と戦い、敗退したが、カイロ市民によりその健闘ぶりが讃えられ、次第に頭角を現していった。こうして1805年5月、オスマン帝国スルタン・セリム3世(位1789-1807)によりエジプト総督パシャ太守。ワーリー)の任命を受けた(任1805-48)。アリーは、独自に地方自治(知事)をつかさどり、徴税請負で富を得ているマムルーク軍人を一掃してエジプトの実権を握り(1811)、形式上、ムハンマド=アリー王朝を成立させた(1811-1952)。そして富国強兵策と銘打って、カイロを中心に徴兵制と西欧式の軍事技術を導入して新しい軍隊を組織した。しかしセリム3世の容認にもかかわらず、富国強兵策に反対するイェニチェリ軍団(少年時代に改宗後、軍隊教育を受けさせられた奴隷出身の兵士たち。これまでオスマン帝国を支えてきた常備歩兵団)や保守官僚勢力によって、セリム3世は廃位させられ(1807)、ムスタファ4世(位1807-08)を擁立した。ムスタファ4世は、セリム3世の従兄弟にあたる。一方、宮廷が動揺している間、エジプト総督ムハンマド=アリーは、イギリス軍を撃退(ロゼッタの戦い。1807)、エジプト統一に向けて、声望をさらに高めていた。

 ムスタファ4世が急死すると、弟マフムト2世がオスマン帝国スルタンとして即位(位1808-39)、彼はムハンマド=アリーの富国強兵策を模倣し、帝国内においても軍隊西欧近代化を展開させていった。これにより、イェニチェリは解散の方向へと進んでいく(全廃は1826年)。
 ムハンマド=アリーは軍制に続いて、税制改革にも着手した。1813年から14年にかけて、土地台帳を定め、徴税請負を廃止し、直接課税を実施した。またナイル河口の耕地拡大にむけて、灌漑工事を大規模に行い、綿花栽培を専売化した。また、機械産業や教育制度も西欧風に近代化させた。
 アリーはその後対外政策にも目を向け、まずアラビア半島において強大化したワッハーブ王国(1744?-1818,1823-89)を抑えることを図った。ワッハーブ王国はアラビア半島ダルイーヤの豪族サウード家の始祖ムハンマド=ブン=サウード(?-1765)が、イスラム教祖ムハンマド(マホメット。570?-632)への復古主義運動(ワッハーブ運動)を展開するワッハーブ派ムハンマド=ブン=アブドゥル=ワッハーブが指導。1703?-91)に共鳴して誕生したイスラム国家である。ダルイーヤを首都に、メッカやメディナを占領していた。エジプト総督として、アリーはワッハーブ王国の誕生は黙視できなかったため、1818年、アラビア進撃をおこない、遂にダルイーヤを陥れた(ワッハーブ王国一時滅亡。のち再興されて、1932年サウジアラビア王国となる)。さらにアリー勢いに乗じてスーダンを占領し(1818-20)、奴隷貿易の特権を獲得し、エジプトの財源とした。

 一方、ギリシアではオスマン帝国からの解放を目指して、イギリスやフランス、そしてロシアらの支援により独立戦争(ギリシア独立戦争。1821-29)をおこして独立を勝ち取り、独立王国となった(1829年のアドリアノープル条約と1830年のロンドン会議。1832年王国成立)。ロシアはギリシア支援という名目で、実際はオスマン領土の奪取という本命で、南下政策を起こすことになる。しかし、この時イギリスは、ロシアの南下政策がイギリスの支配地インドを脅かすことになるとし、またフランスも、エジプト遠征以降、エジプトとの利害関係維持に努めていたため、ロシアの南下政策には警戒していた。とは言うものの、イギリスもフランスもオスマン領土に対する野心は、ロシアと同じであった。特にイギリスは、フランスのエジプト遠征から救ったことで、オスマン帝国から頼られてもいたわけである。イギリス外相パーマストン(外相任1830-34,35-41,46-51。内相任52-55。首相任55-58,59-65)による、巧みな外交策を繰り広げられることになる。

 ギリシア独立戦争が勃発した時のムハンマド=アリーは、マフムト2世から、オスマン帝国から独立をはかろうとするギリシアを抑えるため、オスマン軍を支援し、出陣せよとの要請があり、アリーも、出兵の代償としてシリアのエジプト領有を帝国に約束し、1824年、ペロポネソス半島へ出兵した。援軍を送ったアリーは、ギリシア独立が決定した1831年、オスマン帝国に対して、約束のシリア領有を要求したが、ギリシア抑圧失敗に悔やむマフムト2世は、エジプトはあくまでオスマン領の一部であるため、これ以上の拡大は脅威にあたると考えたため、アリーの要求を無視し、クレタ島とキプロス島のみエジプト領有を認めた。シリア領有をあきらめないアリーは、主人であるオスマン帝国に対して憤慨した。これにより、オスマン帝国とその支配地エジプトの間に大いなる緊張が発生した。

 1831年、アリー率いるエジプト軍はシリアに出兵、エジプトとトルコは、シリアを舞台に、激しい戦闘状態へ突入した(第一次エジプト=トルコ戦争1831-33)。フランスは公然とエジプトを支援し、一方でオスマン帝国は頼みの綱であるイギリスに支援を要請した。イギリスはロゼッタの戦いでエジプトのアリー軍に敗れており、またオスマン領への野心もあり、ここは、エジプトを敵に回さない方が得策だと考えたため、オスマン帝国からの支援要請を拒否した。翌1832年、エジプトはシリア全土を占領した。
 オスマン帝国を支援したのは、南下政策を達成したいロシアであった。不凍港獲得のため、ボスフォラス海峡(黒海側)・ダーダネルス海峡(エーゲ海側)という、黒海と地中海を結ぶ水路を獲得すれば、南下政策は達成するため、オスマン帝国支援の代償として、両海峡通航権を獲得するつもりであった。
 ロシアはオスマン帝国の支援要請を受け、ボスフォラス海峡付近に軍を進めると、ロシアの南下政策を阻止したいイギリスとフランスはオスマン帝国に干渉して圧力を加え、1833年、マフムト2世は、ムハンマド=アリーとキュタヒヤ条約を結んでシリアと小アジア南部のキリキア地方をエジプトに割譲した。列国の干渉で、オスマン帝国はエジプトと和解が強引に成立したことになる。

 オスマン帝国はこれに不満を表し、同年夏にロシアとウンキャル=スケレッシ条約(トルコ=ロシア相互援助条約)を締結した。実はこの条約には秘密条項があり、ロシアのトルコ援助の代償として、ボスフォラス=ダーダネルス両海峡の通航権をロシア軍艦に独占するとするという内容があった。ロシアの南下政策が前進することで、イギリスとフランスは猛反発した。ただし、イギリスはフランスに対しても、エジプトを支援する動きが気に入らず、両国間でも対立が深まっていった。イギリスはロシア南下政策によるオスマン解体計画、フランスのエジプト接近に対抗して、これまでとは一転してオスマン領土保全策を打ち立て、オスマン帝国に接近していった。そして、オスマン財政破綻と外債導入を目的として、トルコ=イギリス通商条約を締結して(1838)、トルコ市場を開放した。こうした状況から、エジプトにはフランスが、オスマン帝国にはイギリス・ロシア、さらにはオスマンの隣国ドイツ連邦のプロイセンやハプスブルク家のオーストリアらが、それぞれ背後に回るという国際関係が成立した。

 1839年、オスマン帝国からの独立を目指すエジプトのムハンマド=アリーは、再び戦闘を開始した(第2次エジプト=トルコ戦争1839-40。第1次とあわせてエジプト事件という)。1840年、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンの4国はムハンマド=アリーを牽制するため、ロンドンで会議を開いて同盟を結成(1840ロンドン会議)、イスタンブルに迫ったエジプト軍を同盟軍が抑え、これを敗退させた。さらにロンドン四国条約(ロンドン条約)を締結して、ムハンマド=アリーのエジプト総督職の世襲権を容認する代わりに、シリアとクレタ・キプロス両島の返還、エジプト軍備の縮小、総督世襲領域のエジプト限定、オスマン帝国スルタンへの臣従、そしてボスフォラス・ダーダネルス両海峡の通航権をロシアから剥奪してオスマン帝国に返すことを取り決めた。1841年、ムハンマド=アリーは正式にムハンマド=アリー朝を名乗り、エジプト最後の王朝としてエジプト国内の諸政策にあたった。老齢のため1848年に引退したアリーは、これまで対外進出に協力した長男を総督位後継者として継がせたが(イブラーヒーム=パシャ。任1848)、イブラーヒームは同年没したため、アリーは甥のアッバース=ヒルミ1世を次の総督に任命し(任1848-54)、その後アレクサンドリアで没した。

 オスマン帝国ではマフムト2世が第2次エジプト=トルコ戦争が交わされた1839年に急逝、16歳の息子アブデュル=メジト1世(1823-61)がオスマン34代スルタンとして即位し(位1839-61)、父の代から駐仏・駐英大使や外相を歴任してきたムスタファ=レシト=パシャ(1799-1857)が宰相として若きスルタンを助けて帝国を統率した。
 イギリスやロシアなど、列強によってエジプトから助けられたオスマン帝国だったが、列強はあくまで権益追求であり、オスマン領土の動向だけが目的であった。ギリシア独立戦争を発端とし、エジプト事件を機に顕著となる列国のオスマン領土介入は、東方問題イースタン=クエスチョン)として、戦渦はさらに広がっていくことになる。

 連載86作品目にして、ようやく東方問題の分野を取り上げることができました。「Vol.26ギリシア独立戦争」の所でもお話ししたとおり、"東方問題"は受験世界史の中では超難関、"受験生泣かせ"の分野です。オスマン領土をめぐって行われる山のような戦争・条約の数々、列強同士が仲良くなっては対立するなど、政治・経済・宗教・社会が複雑に入り乱れます。舞台が日本人にとっては馴染みが薄いオスマン=トルコやエジプトであるため、理解し難く、同分野を苦手とする世界史受験者も多いです。また東方問題が難しいと感じる理由として、19世紀の世界が東方問題問わず全体的に激動で、覚える箇所もたくさん出てくるというのが挙げられるでしょう。19世紀は他国もいろいろ事件があるわけで(フランスの二月革命、アメリカの南北戦争、フランス第三共和政ドイツ帝国誕生、イタリア統一戦争、インドのセポイの反乱、中国のアヘン戦争など)、さらに文化史になると、ルネサンスや絶対主義時代の倍以上の文化人が登場しますので、ここで限界が来る受験生も数少なくありません。しかし、この限界を乗り切ることができれば、それ以上に難しいはずの20世紀の帝国主義時代と戦後の現代史は、意外とスイスイ行けるものです。19世紀の分野を達成すると、ある意味、高度な知識を身に付けることができ、それが20世紀の分野で活かされるのでしょう。

 当然ながら今回の"東方問題"は、1回では難しいですので、複数回に分けてご紹介させていただきます。「Vol.26ギリシア独立戦争」は、いわば序章にあたり、エジプト事件が第1章となります。

 本日の学習ポイントですが、東方問題に入る前に、まずオスマン帝国の内容を知っておく必要があります。太字は要チェックですよ。
 まず、創始期。セルジューク朝(1038-1157)の分家ルーム=セルジューク朝(1077-1308)の支配下に入っていたトルコ系遊牧民オグズ族の族長ガージ=オスマン=ベイ(オスマン1世)が1299年、小アジア西北部に独立してできた王朝がオスマン帝国で、トルコの前身です。イスラム世界版封建制度であるイクター制をティマール制に発展させました。2代目スルタンのオルハン(位1326-82)のとき軍隊イェニチェリを建設(それまでのトルコ系騎士たちをシパーヒーという)、次のムラト1世(位1362-89)のとき首都をブルサからアドリアノープルエディルネ)に遷都、コソヴォの戦い(1389)でセルビアらバルカンのスラヴ勢力を破ります。ムラト1世はこの戦争で陣没しますが、4代目バヤジット1世(位1389-1402)のとき、ハンガリー王ジギスムント(位1387-1437)率いるドイツ・イギリス・フランス、さらにバルカン諸国も含めた連合十字軍と戦ってこれを撃破しました(ニコポリスの戦い1396)。しかしバヤジットはアンカラの戦い1402)でティムール帝国(ティムール朝。1370-1507)の創設者ティムール(位1370-1405)にやられています。

 オスマンの隆盛期では、7代と9代スルタン・メフメト2世(位1444-46,51-81)が登場します。コンスタンティノープルを占領してビザンツ帝国を滅ぼし(1453)、ここをイスタンブルに改称して首都とします(イスタンブルに置かれている王室がトプカプ宮殿)。そしてクリム=ハン国を保護国化しました。11代目セリム1世の時代では、シリアとエジプトを領有してマムルーク朝を滅ぼし(1517)、カリフも手に入れて、スルタン=カリフ制の原理を打ち立てました(実際の使用は18世紀らしい)。隆盛期の頂点に立ったのは"大帝"スレイマン1世です。西アジア・北アフリカ・東欧諸国を支配する広大な版図を統轄し、プレヴェザの海戦(1538)で地中海を制覇します。レパントの海戦(1571)で敗れても制海権を維持します。またフランスのフランソワ1世(位1515-47)と手を組んで、神聖ローマ皇帝カール5世(位1519-56)に対抗、ウィーン包囲(1529)を行いました。またスレイマン1世は、フランス・フランソワ1世と条約を結んで、オスマン領内における様々な特権を保障し、優遇しました。これをカピチュレーションといいます。

 さて、衰退期です。ここからが本編と大きく関わってきます。第2次ウィーン包囲1683)の失敗で、欧州諸国からカルロヴィッツ条約1699)を結ばされたトルコは、多くの領土割譲を余儀なくされました。オーストリアにハンガリーをとられ、これによりオーストリアがトルコよりも優位に立っていきます。結構この条約はマイナー事項なのですが、これから拡大していくオーストリアにとってかなり有利な条約ということで、非常に大きな意味を持つのですね。
 本編では紹介しませんでしたが、オスマン帝国衰退期の中で、第23代アフメト3世(位1703-30)の治世はチューリップ時代といいます。対外的には戦争の連続であり、イェニチェリ団は目一杯戦っている間、国内では宮廷中心に西欧文化が大流行し、たくさんのチューリップの球根が輸入され、辺り一面チューリップ畑だったという文化の爛熟期が現出されます。この時期がチューリップ時代です。でも、アルバニア人に煽動されたイェニチェリ団が全国規模に反乱を起こして、国力は衰退していき、1774年のキュチュク=カイナルジャ条約や1792年のヤッシー条約で、ロシアのエカチェリーナ2世に、黒海北岸を奪われました。その後は西欧に倣って、近代化の方向へすすみ、イェニチェリも解散していきます。

 だいたい以上がオスマン帝国のおおまかなあらすじです。それでは、舞台をエジプトに移し、ムハンマド=アリー朝についてポイントを挙げていきましょう。

 ムハンマド=アリーの肩書きであるエジプト総督は知っておきましょう。「エジプト太守」という別称もあります。ギリシア独立戦争に従軍してトルコを援助しますが、その代償だったはずのシリアがもらえず、アリーは第一次エジプト=トルコ戦争をおこします。第二次では敗北(第一次1831-33、第二次1839-40。だいたい1830年代の事件として覚えてください)、ロンドン四国条約(1840)でエジプトは形の上では屈辱的なものでしたが、オスマンの宗主権下においてエジプトはほぼ独立が容認されました。いわゆるムハンマド=アリー朝が現出されていきます。でも本当に喜んでいたのはイギリスです。エジプトに味方したフランスを、第2次エジプト=トルコ戦争では戦敗国に仕立て上げ、エジプト支配をあきらめさせるし、ロシアに対しても1833年にオスマンと結んだウンキャル=スケレッシ条約を四国条約で棄てさせ、ボスフォラス・ダーダネルス海峡(重要用語です。地図で確認しておきましょう)も渡れなくさせて、南下政策を挫きましたからね。イギリス・パーマストン外相の外交策はスゴ腕です。

 最後にワッハーブ派も登場しましたが、創始者ムハンマド=ブン=アブドゥル=ワッハーブ("ワッハーブ"の名前だけ覚えれば充分)が18世紀半ばに、マホメット時代の原始イスラムの復帰を主張したのがそもそものはじまりで、豪族サウード家のムハンマド=ブン=サウード(マイナー系。入試にはあまり出ません。でもサウード家は覚えてネ)に迎えられてできたのがワッハーブ王国です。一時はアリーに滅ぼされますが、1823年に第2次ワッハーブ王国として再興されました。のちの1902年、ワッハーブ王国の首都だったリヤドを中心に、アラビア半島の大半を統一(これを第3次ワッハーブ王国ともいいます)したイブン=サウード(アブドゥルアジーズ。1880-1953)が1932年に創ったのがサウジアラビア王国です。

 さて、次回は、東方問題における最も重要なクリミア戦争が登場します。ここも結構複雑なんです。やはりロシアの南下政策とこれを阻むイギリスとの睨み合いが重点となります。メッテルニヒ(1773-1859)やナポレオン3世(位1852-70)まで再登場しますので、また賑やかになりそうです。

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