世界史の目−Vol.91−

宋と征服王朝の攻防

 唐王朝(とう。618-907)を滅ぼしたのは、同王朝が8世紀初めより辺境警備として設置した節度使(せつどし)だった。しかし、中央政府が弱体する中、節度使は有力な地方勢力の1つとして軍事や行政、財政権を掌握していき、中央から独立していった。このような節度使は藩鎮(はんちん)と呼ばれた。また武人であるため、強力な武断政治を試み、貴族を脅かし、没落させた。唐王朝から禅譲(ぜんじょう)にて帝位を奪った節度使は朱全忠(しゅぜんちゅう。朱温。しゅおん。852-912)という人物で、汴京(べんけい。開封。かいほう。河南省北部)に都を定め、後梁(こうりょう。907-923)を建国した。後梁は2代で滅んだが、その後華北には後唐(こうとう。923-936。首都洛陽。らくよう)、後晋(こうしん。936-946。首都開封)、後漢(こうかん。947-950。首都開封)、後周(こうしゅう。951-960。首都開封)と、約50年のうちに5つの王朝が交替していった(五代。ごだい。907-960)。また、華中・華南を中心に節度使出身の実力者たちによる10前後の地方政権(十国。じっこく)が興亡を繰り返し、約70年の分裂時代が続いた(五代十国。ごだいじっこく。907-979)。

 中国が分裂状態になると、モンゴル系契丹族(きったん)がモンゴル高原東部に大契丹国(916-1125。首都上京臨潢府。じょうけいりんこうふ)を建国して大陸を脅かした。太祖(たいそ。耶律阿保機。やりつあぼき。位916-26)が建国したこの国は、926年中国東北部の東部にあった"海東の盛国"の異名を持つ渤海国(ぼっかい。698-926)を滅亡させ、2代目太宗(たいそう。位926-47)のときには、五代後晋の建設者である高祖(こうそ。石敬瑭。せきけいとう。29805位936-942)に後唐滅亡と後晋建国を援助した代償として、936年、中国本国の要所である長城線以南の北京(州)と大同(だいどう。州)を結ぶ、周辺16州、つまり燕雲十六州(えんうん。河北・山西両省北部にあたる)を割譲させ、国号を中国風に(りょう)と改称し、北方民族による中国初の征服王朝(中国の外に本拠地を置きながら中国の要所を領有した王朝)をスタートさせた。

 唐末から五代にかけては、藩鎮抗争によって、いっきに門閥貴族(もんばつ。上級官僚の地位を占める貴族を出す家柄)が没落した。貴族に代わって、新興地主(形勢戸。けいせいこ)が小作農(佃戸。でんこ)制度を基盤として勢力を上げていった。形勢戸の人々は、役の減免特権(一代のみ)や官僚職を目指して書物を惜しまなく読み、科挙を受験して合格すると、官僚を出した家として官戸(かんこ)と称され、戸籍に明記された。こうしたエリート知識人によって、新たな支配社会である士大夫(したいふ)階級が構成されていったのである。

 後周の世宗(せいそう。位954-959)は五代第1の名君と言われた皇帝であった。破仏(はぶつ。廃仏。仏教弾圧)を行い(世に言う"三武一宗の法難"の"宗"は世宗のこと)、財政を確立、部下の趙匡胤(ちょうきょういん。節度使出身。927-976)とともに軍隊の再整備を行って十国を次々と破っていき、長江以北を併合(955)、959年には遼から燕雲十六州のうち3州を奪還して(のち再び奪われる)、征服王朝の駆逐を図るなどして中国統一王朝復活を夢見たが、志半ばにして病没し、7歳の恭帝(きょうてい。位959-960)が擁立されたため、好機と判断した遼王朝の軍隊が南進してきた。

 世宗の臣下は、国家存亡の危機に見まわれる絶体絶命の状態であったため、軍功高い趙匡胤が恭帝及び臣下に推され、都を開封にとどめたまま、恩師の政策を継承することで意見が一致した。このため、960年、恭帝は自ら廃位の身となり(後周滅亡)、趙匡胤は新しい王朝・(そう。960-1279。首都開封)の初代皇帝(太祖。位960-976)として帝位に就いた。

 趙匡胤が初代宋皇帝になるには、以下の逸話が残っている。もともと趙匡胤は帝位への野心があり、近親者や同士もそのことを知っていた。恭帝が擁立され、遼軍が迫ってくると、これと対峙するため、出陣の準備をしていた。出陣式の祝い酒に酔った趙匡胤は、開封北辺の宿駅で寝床についていたところ、趙匡胤の弟や志士たちが突然、刀を抜いて趙匡胤の寝室に押し入り、趙匡胤の身を起こして、天子の象徴である黄色の上着(黄袍。こうほう。皇帝の袍)を着せ、帝位に就いたといわれている。この非常事態から切り抜けるには、趙匡胤を皇帝に立てるしかないと考えた、近親者や同士たちの陰謀ではあったが、直後、趙匡胤は即位を拒絶して「諸君が自身の富貴のために、私を皇帝(天子)として擁立させたのだろう。私の命令をきかないなら、私は決して天子にはならないと思え」と叫んだ。陰謀を仕掛けた弟や志士たちは思わぬ事態に戸惑ったが、趙匡胤は、重ねて「周(=後周)の皇太后と幼帝(=恭帝)、大官たちを決して脅かさず、宮廷や市場の物品を略奪したものは厳罰を下す」という約束を取り付け、これら条件を承認させた上で帝位に上がったといわれている。これで周囲は安堵したが、過去の五代の王朝交替時、新皇帝は王室や市場の略奪を黙認するという慣例があったらしく、趙匡胤はこうした慣例を廃し、五代の君主とは比に及ばない威厳を知らしめたのである。

 太祖趙匡胤は、五代の武断政治を反省し、皇帝の権力を絶対的なものにするべく、抜本的な政策に踏みきった。元来、皇室(禁中)には、近衛軍(禁軍。きんぐん)が警護にあたっていたが、地方の藩鎮軍を圧するため、禁軍を中央直轄軍として増強するべく、諸将を解任して皇帝自ら管理した。藩鎮軍の私兵も中央の軍隊に吸い寄せ、藩鎮の勢力を減退させた。これにより、藩鎮の行政権・軍事権・財政権は喪失し、代わって皇帝が派遣する文官が地方長官として任務に就いた。
 また官僚体制も強固策を施した。(ずい。581-618)以来起用され続けてきた官吏任用制度・科挙(かきょ)は、これまで地方試験の州試(しゅうし)と、中央の尚書省管轄の礼部(教育担当)で行われる省試(しょうし)の2段階選抜で行われてきたが、太祖趙匡胤は、3段階制度を導入し、省試合格者には、皇帝自らが面接官となって行う最高試験・殿試(でんし)を受けさせた。殿試合格者を進士(しんし)という。殿試の成績上位者は直ちに任官され、高官が約束された。進士はすべて皇帝の学問上の弟子であり、皇帝と官僚の関係が強力になったといえる。君主独裁と中央集権を完成する極めつけの改革であった。

 太祖趙匡胤は、五代を終わらせた後、宋という新しい統一王朝を誕生させる意気込みであったが、対外政策においては、遼の南進を食い止め、宋王朝の維持は固守したものの、十国の勢力は完全制圧とまでに至らず、統一は次の太宗(たいそう。位976-997。趙匡胤の弟)の代に持ち越された。太宗は、979年、遂に五代十国時代の生き残り、かつ強力な呉越(ごえつ。907-978)・北漢(ほくかん。951-979)を滅ぼし、宋朝の中国統一が完成した。しかし、完全統一を達成するには、未回収の領土、つまり遼に奪われた燕雲十六州を奪還する必要があった。ただ、宋朝には、対外戦争を起こして、領土を奪還には、いささか無理があったのである。

 その理由は、宋代、科挙によって、読書人(学者・知識人)が重用され、高級官僚を独占した士大夫階層によって、武断主義にかわる文治主義国家(ぶんち)となっていった事にある。文人官僚は兵部(軍事担当)にも至り、純粋な軍人の減退で対外政策は常に弱体姿勢となり、消極策(外交和親策)をとらざるを得ず、特に遼朝に対しては、1004年、毎年絹20万匹(ひつ)と銀10万両という莫大な歳幣(さいへい。歳貢。さいこう。中国王朝が異民族に贈る金品)を決め、兄弟の契りを結んだ和平条約・澶淵の盟(せんえん。開封北郊28598)を結ぶ屈辱であった。1044年には、黄河上流におこったチベット系タングート(党項。とうこう)の王朝・西夏(せいか。1038-1227。建国者は李元昊。りげんこう。位1038-48。首都興慶府。こうけいふ)と慶暦の和約を結び、西夏が臣下の礼をとる代わりに、歳賜(さいし。歳幣に同じ)として毎年絹13万匹・銀5万両・茶2万斤(きん)を贈った。

 宋のこうした対外和親策は、宥和策と変わらず、北方異民族に、武力にかけては諸外国より弱っていることを知らしめているようなものだった。そればかりか、こうした事態に反比例して士大夫官僚は増加の傾向を辿り、一方で外交策による歳幣・歳賜や多額の軍事費によって財政が行き詰まっていく始末であった。行政改革・軍事改革・財政改革の必要性に迫られていった。

 そこで、立ち上がったのが第6代皇帝・神宗(しんそう。位1067-85)の宰相、王安石(おうあんせき。1021-85)である。偉大な文学者を総称する"唐宋八大家(とうそうはちだいか)"の一人である王安石は、富国強兵にむけて、1070年頃からあらゆる諸改革・新法(しんぽう)を打ち出した。
 富国策にはまず、貧窮農民に対し低利で物資を貸し付ける青苗法(せいびょうほう)、都市の中小商人に対し商品買上げと低利融資を施す市易法(しえきほう)、徴税や治安などによる労役を免除する代わりに免役銭を徴収して、労役希望者には雇銭(こせん)を給付して募集する失業対策募役法(ぼえきほう)、そして前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の武帝(ぶてい。位B.C.159-B.C.87)の均輸法(きんゆほう。物価安定法の平準法と共に制定された物価調整法。各地特産物を輸送させ、不足地で売却)といった内容であり、他には農田水利法(新田・水路の開発・開墾)、方田均税法(ほうでんきんぜいほう。検地を行い、生産力を5等に分けて地税を公平化)というのもあった。
 強兵策には、皆兵を目指して、農村において10戸の民戸を"(ほ)"、50戸を大保、10大保(500戸)を都保として組合を組織させ、成年男子中心に、農閑期に軍事訓練を行わせて治安維持にあたらせる保甲法(ほこうほう)と、保ごとに官馬を飼わせて、通常は耕作に用いさせ、戦時にはこれを軍馬として徴用する保馬法(ほばほう)が立案された。

 これら諸法は、ある程度の成果を上げたが、すべてが順風満帆とは限らなかった。たとえば、均輸法は物価安定と商品流通には役割を為したものの、商人の利益が悪循環となり、彼らから猛烈な反発があった。また、司馬光(しばこう。1019-86。編年体の通史書『資治通鑑(しじつがん)』の作者として有名)や、唐宋八大家蘇洵(そじゅん。1009-66)の2人の息子で、同じく八大家の蘇軾(そしょく。蘇東坡。そとうば。1036-1101)、蘇轍(そてつ。1039-1112)らといった保守派官僚をはじめ、大地主、豪商など華北出身の有力者は利益が得られず、しかも経費節減のため条件的には不利であったことから、王安石の新法には真っ向から反発した。しかし神宗は新法を支持していたため、司馬光・蘇軾・蘇轍らを地方に追いやり、新法改革は続行された。華北出身者の多い反対派に比べ、新法支持派は江南出身者が多かった。

 王安石は1076年に政界を引退し、その後も新法は続けられたが、神宗が1085年に没し、哲宋(てつそう。位1085-1100)がわずか10歳で帝位につくと、司馬光・蘇兄弟ら新法反対派が巻き返しを図り、旧法党(きゅうほうとう)を結成、新法支持派である新法党との党争が激化し、政界は混乱に陥った。旧法党の大地主らは農村の兼併を行い、代わりに中小自作農らは没落していった。

 一方、契丹族の遼王朝は、宋王朝と澶淵の盟を締結後、第6代皇帝・聖宗(せいそう。位982-1031)のもとで最盛期を迎えた。契丹族は典型的な北方遊牧民族で、北面官をおいて狩猟や遊牧中心の部族制で統治する一方、農耕が中心の漢人や渤海人などに対しては南面官をおいて州県制をしいた。これを二重統治体制というが、常に北面官が先頭に立っていた。文化では、太祖耶律阿保機が子と契丹文字を発明しているが、現在でも完全には解読されてはいない。またタングート族の西夏も西夏文字が発明された(発明者は不明。李元昊説もある)。

 しかし、北方民族の遼や西夏を脅かす強力な民族が東北地方東部から進出してきた。ツングース系女真族(じょしん。女直。じょちょく)である。半農・半牧・半猟の生活を営む女真族は、10世紀以来遼の支配下におかれていたが、女真の一部族である完顔部(ワンヤンぶ)の首長阿骨打(アグダ。完顔阿骨打。1068-1123)が1114年、寧江州(ねいこうしゅう)の戦いで、遼と対峙し、これを敗北させ、翌1115年、自立して王朝(きん。1115-1234。首都は黒竜江省にある会寧。かいねい)をおこし、阿骨打は初代皇帝となった(太祖。位1115-23)。2代目太宗(たいそう。位1123-35)の時代、金は宋と結んで、内紛で衰退していた遼王朝を侵攻、遼最後の皇帝・天祚帝(てんそてい。位1101-25)を捕らえ、1125年、遂に遼を滅ぼした(遼滅亡)。この時、太祖耶律阿保機の末裔と称する耶律大石(やりつたいせき。1086?-1143)は、同士と共に西トルキスタンに逃れ、トルコ系イスラムのカラ=ハン朝(940?-1132)を滅ぼして、西遼(せいりょう。カラ=キタイ。"黒い契丹"の意味。1132-1211。首都ベラサグン。フス=オルダとも)を建国、大石は初代皇帝となった(徳宗。とくそう。位1132-43)。
 金の太祖完顔阿骨打は、938年以来遼の副都だった燕京(えんけい。現在の北京。遼では"南京"と呼んだ)を1123年占領し(遼は衰退して、燕京は一時宋が領有していた。後で述べる)、金の副都とした。また、300戸を1謀克(ぼうこく。ムケ)、10謀克を1猛安(もうあん。ミンガン)とし、1謀克から100人分を兵士として徴用して軍団を編成した。この猛安・謀克の制度は、軍事・政治における金の部族制の中心となった。また漢人には州県制を用いて統治するなど、遼の二重統治体制を継承した。

 近隣の征服王朝があわただしい中で、宋国内では、商業がめざましく発達した。というのは、後梁の朱全忠が、これまで中国のならわしであった(し)制度を緩和したという理由による。もともと商業取引は市という、州・県の城内の大都市に限定されおり、その制度は夜間営業の禁止(夜禁制)など厳格なものであったが、五代からの規制緩和により、夜禁制が解除されて、城外の交易要地や寺社の門前などでも開かれた。こうした市は、城内の"市"に対し、城外の"草市(そうし)"と呼ばれた。特に首都開封は大運河や黄河が近くにあり、商品輸送が容易かった。このため、各市街地では劇場(勾欄。こうらん)・茶館(さかん)・酒楼(しゅろう)・旅館などが建てられ、繁華街(瓦市。がし)が形成されていった。また、市制度が崩れ、草市の拡大にともない、地方小都市にも(ちん)・(し。小都市における"市")・店(てん)と呼ばれる商業集落や小商業都市がつくられた。商業都市が多く建設されると、一方で客商(きゃくしょう)という遠距離商人が登場するなど、商人も多層に変化した。商人の権力が高まると、"(こう)"と呼ばれる同業組合を結成して営業独占をはかり、また同様に手工業者も同業組合・"(さく)"を組織した。
 また世界初の紙幣と言われる交子(こうし)は、唐代に商人の決済用手形として登場し、四川の成都(せいと)で、民間金融業者が発行した手形が政府に引き継がれ、紙幣となった。また銅銭も大量鋳造され、"宋銭"の名で、日宋貿易繁盛期には日本に流出したのをはじめ、各アジア諸国やアフリカなどにも流出した。

 しかし、こうした社会の発達も、次第に翳りが見え始める。新旧党争が激化した頃、佃戸の小作人が地主に払う小作料の減免を求めて滞納やボイコット、打ちこわし、逃散などの抗租運動(こうそ)が発生し始めた。また政府による農作物収奪強化に抵抗して均産一揆(992,995。貧富や貴賤の格差をなくそうという意味)が起こり、情勢が不安定となっていった。

 哲宗没後、弟・徽宗(きそう。位1100-25)が帝位に就いたが(1100)、親政前は、摂政の計らいで新旧両法折衷策として比較的穏和に動いていた。しかし親政を始めた翌1101年からは、父神宗の遺志を受け継ぎ、政情の把握なく新法を支持してしまい、さらに重要な政局は宰相である蔡京(さいけい。新法派。1047-1126)に任せ、帝自身は道教への狂信、また画院(がいん。翰林図画院。かんりんとがいん。宮廷の絵画製作を管理)に属する宮廷画家を保護して院体画(いんたいが。院画。北画。花鳥・山水・人物画)に趣味が走り、自身も『桃鳩図(とうきゅうず)』を描くなど、"風流天子"と言われるほどに、政治よりもむしろ芸術に熱が入るようになった。このため、宮廷では乱費が進んだ。徽宗自身も、即位時に"軽佻(けいちょう)な"君主と言われており、細かいことを避けて何事も感覚的に動く人物であったといわれる。
 蔡京は新法導入によって国税を厳しく取り立てるが、これら歳入は、すべて宮廷の浪費と消えていった。不足すれば、物価高騰を予測することなく交子を乱発した。徽宗の命により、専売強化やさらなる重税が度重なり、挙げ句の果てには、徽宗芸術の一環として宮廷庭園に飾る植樹用の珍しい木々や奇岩奇石を、特に江南地方から貢納させ(花石綱。かせきこう)、農民に強制運搬をさせた。このため、浙江省出身のマニ教徒の農民・方臘(ほうろう。?-1121)を中心とする農民反乱(方臘の乱。1120)が勃発し、やがて6州12県にまたぐ大反乱となっていった。反乱は、徽宗に慕われ軍の指揮官を任された宦官・童貫(どうかん。?-1126。14世紀に作られる長編武侠小説『水滸伝(すいこでん)』では、蔡京とともに悪役として登場する)によって鎮圧され、方臘も殺害された(1121)。

 遼の滅亡(1125)は徽宗の時代だが、蔡京や童貫の助言で、燕雲十六州の奪還を目指すことを第一に、遼を攻めることを提案したのだが、文治主義の中、禁軍は国勢下り坂の遼軍と比べても明らかに劣り、一国で勝つのは不可能であった。そこで、蔡京や童貫らは、これより先に遼・天祚帝の軍を一度敗退させていた金・太祖完顔阿骨打に接近して、金と遼という異民族同士で戦わせて、漁夫の利となる燕雲十六州を奪い返すことを考えるなど画策を練り、金の太祖に遣使をおくって、北から金が、南から宋がそれぞれ遼を挟撃し、成功すれば燕雲十六州を宋が、それ以外の遼全土を金がそれぞれ領有する、また遼と澶淵の盟で決めていた歳幣を、そっくり金王朝に贈与することを約したのである。やがて、遼の軍隊と、宋・金の連合軍が対峙することになったが、宋軍は方臘の乱鎮圧にかかる手間で、思うように首都や副都を攻略できず、結局金の軍隊によって遼の軍隊を殲滅させたのであった(燕山の役。1125)。どうにかして宋は念願だった燕雲十六州を奪還、そして金は広大な領土を獲得した。しかし金は、役に立たなかった宋に対し、宋銭百万分(毎年)や食糧20万石など、開戦前の約定以上の要求を言いつけた。
 徽宗は、この要求には不満であったため、金の太祖が没し弟である太宗が即位すると、歳幣などの支払を怠るようになった。しかも、金の抵抗者を匿うなどの行動を起こしたため、金は宋を攻めて、燕雲十六州を陥れた。1123年の燕京はこうした経緯によって金が支配することとなる。1125年、金の軍隊が、宋の首都である開封まで南進した時、徽宗ははじめて、自身の行政に誤りがあったことに目覚め、謝罪の詔を発して、勤王の軍を全国に募り、自ら退位して皇太子欽宗(きんそう。1100-61)に譲位した(位1125-27)。

 1126年、金はいったん北へ引き返した。宋の王室では、金に対して和戦論争が生じていたが、優勢だったのは和平論で、首都を開封から南遷して安全をはかるというものであった。しかし勤王の軍は戦争続行を主張しており、また強力な軍隊に成長していたことで、たびたび侵攻する金軍を撤退させていた。欽宗は勤王の軍の功績を黙殺して金と講和をはかったが、金は、財政難の宋には到底受け入れられないような多額の歳幣と要地の割譲を要求してきた。欽宗は無理と知りながらも応急措置としてこれを受託した。当然、支払いは怠るどころか、金に内紛を起こさせる謀略を練りだした。このため主戦派は、和平派に激しく抵抗して、得策もないまま開封死守を訴え、欽宗もこれに押されてしまう。
 ところがこの謀略が金に知られてしまい、金の太宗は宋の違約を名目に開封に侵攻、同1126年末、戦術を練る時間もなくたちまち開封は包囲された。翌1127年、金軍は欽宗を廃位、王室の財宝を略奪するとともに、欽宗をはじめ、前皇帝の徽宗、皇后、皇族、重臣ら約3千人を捕らえ、首都会寧へ連行、黒竜江省の五国城に幽閉された。この一連の事件は靖康の変(せいこうのへん。1126-27)と呼び、宋は滅亡に至る。徽宗も欽宗も、帰国の望みを捨てなかったが、許されず、異国の地で生涯を終えた(徽宗1135年没、欽宗1161年没)。

 欽宗の弟趙構(ちょうこう。1107-87)は別地に出向いていたため捕虜を免れていた。趙構は応天府(おうてんふ。開封東郊。現・河南省商丘市。シャンチウ)で高宗(こうそう)として即位し(位1127-62)、宋を再興した。高宗即位後の宋は、1138年、江南の臨安(りんあん。後の杭州。こうしゅう。浙江省)に南遷したことで南宋(なんそう。1127-1279)と呼び、これまでの太祖から欽宗までの時代を北宋(ほくそう。960-1127)と呼ぶ。 

 臨安は大運河の終点にあたり、商業都市的性格がかなり強く、市場の発達や行・作も盛んであった。また金融では、北宋時代は交子が紙幣となったが、元来交子とともに手形の役割であった会子(かいし)が手形の中心であった。しかし南宋時代では、会子も紙幣として政府が発行し、流通するようになった。
 しかし、宋朝が再建されても経済や貴賤の格差は消えることなく、1130年、均産一揆が再発した。これを鎮圧したのは将軍・岳飛(がくひ。1103-41)なる人物で、金に対して戦争徹底を唱える主戦派であった。岳飛は、河南省の農民出身で、学問を修得し、一兵卒から飛躍的に昇進を遂げ、数々の軍功をあげたことで、多くの支持を得る反面、諸将からは妬まれたりもした。
 一方この当時、宰相秦檜(しんかい。1099-1155)という人物がいた。彼は靖康の変で、徽宗らとともに連行されたが、金の和平派将軍の取り計らいで帰国を許された。秦檜は、ただ1人金の内情を知る人物として高宗に支持され、宰相に任じられた人物であった(1131)。秦檜は、金との戦争は、長期化することで膨大な戦費を負担することにつながり、国民の不満も増大すると主張、唐末の戦乱を再来させるとして和平派を支持、高宗も靖康の変で拉致された徽宗・欽宗らの帰国を願った。また金の太宗が没して兄である太祖(完顔阿骨打)の嫡孫が帝位に就くと、状況も緩和され、周囲には和平の声が聞こえ始めた。しかし、岳飛ら主戦派は、徽宗の代に集まった勤王の軍出身であるため、漢人の民族精神(ナショナリズム)の高揚から、女真族の金軍を駆逐しようとして、金に対し反撃を始めた。

 秦檜は主戦派を抑圧するため、地方の軍隊を中央軍隊に改編することを名目に、揺れ動いている地方軍の諸将に呼びかけを行ったが、唯一、湖北一帯を軍事支配する岳飛だけはこれに従おうとしなかった。このため秦檜は、岳飛に無実の罪を着せて幽閉し獄死させた(1941)。岳飛を抑えた秦檜は翌1142年、和平を実現するため、瞬時に和平条約を締結、淮水(わいすい。淮河。わいが。河南省南部が水源)と秦嶺(しんれい)山脈を結ぶ線が、南宋と金の境界線となり、結果的に華北の畑作地帯と江南の水田地帯を分ける線となって、とうとうかつての首都開封や燕雲十六州を中心とする華北一帯の奪還は、断念の方向へ向かわざるを得なかった。
 内容はこれだけでは済まされなかった。この条約は毎年贈る銀25万両、絹25万匹歳貢(歳幣)だけでなく、金王朝に対し臣下の礼の義務を突きつけられるという、南宋にとってこれまで以上に屈辱的であり、同時に徽宗の棺の姿で召還された上、和約締結時には存命だった欽宗は召還されなかった(1161年没後も遺体は召還されなかった)。
 恥辱的な要求に加え、高宗の父徽宗を遺体で返還させ、兄欽宗を召還させない金の行為は、主戦派をひどく怒らせ、講和締結に抗議した。しかし秦檜は、高宗の信任をバックに、主戦派を次々と弾圧した。秦檜没後(1155)、岳飛の無実が証明され、岳飛は祖国の民族的英雄として「岳王廟(浙江省)」に祀られ、一方秦檜は金に華北を売り渡した"売国奴"・"姦臣"として烙印を押され、酷評された。

 これ以降、南宋と金との間には平和が維持された。南宋は北宋時代に黄河流域で頻繁に起こった飢饉への対策を省察し、江南開発にいそしんだ。干拓が王室や地主の主導で絶え間なく続けられ、広範囲に渡って水利田が維持された。低湿地を堤防で囲み(囲田。いでん)、河岸や池を干拓(圩田。うでん22313)、また江蘇・浙江地方では湖の多さを活かしてこれに堤防で囲んで干拓した(湖田。こでん)。足踏み揚水車(竜骨車。りゅうこつしゃ)も開発され、大規模な灌漑が行われた。
 稲の品種改良も積極的で、占城(せんじょう。2Cから15Cにかけて、ヴェトナム南部にあったチャム人の国・チャンパーの9世紀以降の中国名)から伝来した、旱(ひでり)に強い占城稲(せんじょうとう)の導入で、農産が急速に発展した。早稲のため二期作が可能となり、また麦との二毛作も普及したのである。こうして江南の長江下流域都市蘇州(そしゅう。江蘇省。こうそしょう)や湖州(こしゅう。浙江省。せっこうしょう)は、蘇湖(そこ)または江浙(こうせつ)と呼ばれて中国の稲作農業の中心地帯となり、"蘇湖江浙熟すれば天下足る"とまで言わせしめた。こうして、江南の穀倉地帯を確保したことで、長く国力を維持することが可能となり、飛躍的な経済繁栄をもたらしたのである。

 また、長江下流域や四川を中心に、茶の栽培も普及し、専売も行われた。日本に臨済宗(りんざいしゅう。禅宗の一派)を広めた僧・栄西(えいさい。ようさい。1141-1215)が1168年、1187年に宋を訪れ、日本に帰国後、抹茶をもたらしたのは有名な話である。生活品だけでなく貿易品としても多大な役割を果たした。飲茶が普及すると、宋磁(そうじ。宋代の陶磁器)を中心とした美術工芸品も盛んになり、青い青磁(せいじ)や白色の白磁(はくじ)などが、景徳鎮(けいとくちん。江西省北部)や磁州(じしゅう。河北省南部)といった窯業都市を中心に生産された。他にも漆器や絹織物などが発達し、茶・陶磁器・絹織物は当時宋の3大貿易品であった。
 こうした貿易の発達によって、杭州明州(めいしゅう。浙江省。後の"寧波"。ニンポー)・泉州(せんしゅう。福建省)・広州(こうしゅう。広東省)などの海港都市には、市舶司(しはくし。唐中期に初。提挙市舶司。ていきょしはくし)という海外海上貿易の統轄官庁が置かれた。

 一方金は1153年、燕京に遷都して中都という呼称を使用した(〜1214。その後開封へ遷都)。さらに金国内で女真文字が創製されたり(現在解読がすすんでいる)、宗教では同じく道教の一派・全真教(ぜんしんきょう)が王重陽(おうじゅうよう。1113-70)のもとで開かれ、弟子の長春真人(ちょうしゅんしんじん。丘処機。きゅうしょき。1148-1227)の時代には各地に広まり、江南の正一教(せいいつきょう)と道教界を二分した。
 その後、金は南宋への攻撃を再開させるが、そのたびに膨れあがった戦費の調達を、政府が発行した紙幣・交鈔(こうしょう)の乱発で補おうとした。交鈔は宋でも古くから別の手形として使われていたが、金王朝に流れると交鈔は金の紙幣となった。交鈔の乱発は物価高騰を招き、経済は破綻していく。

 やがて、モンゴル民族の登場で、中国大陸を賑わせた諸王朝は次々と滅んでいくことになる。まず西夏は1227年に、チンギス=ハン(位1206-27)によって、金は1234年、チンギスの遺志を継いだオゴタイ=ハン(位1229-41)によって、それぞれ滅ぼされていく。また契丹の生き残り西遼は、ナイマン王国の王子クチュルク(?-1218)に簒奪され、契丹としての部族国家はここに滅亡した(1211)。西遼はナイマン部の国家として継続したが、クチュルク王もチンギスの派遣部隊によって殺され、西遼は完全に消滅した(1218。詳細はVol.41参照)
 そして、南宋も遂にモンゴルの餌食となる日が訪れる。金王朝が去った華北は、チンギスの孫フビライ=ハン(位1260-94)が創始した朝(げん。1271-1368)の支配となり、南宋は金軍に代わった元軍によって攻撃を受けることになった。そして1279年、元軍は臨安を陥落、遂に江南も失い、320年近く続いた宋の統治は遂に終わった(南宋滅亡Vol.70参照)。元は、中国を完全に呑み込んだ大征服王朝となり、モンゴル民族の中国王朝として完成した。中国民族は、モンゴル人第一主義によって、もと金治下にあった北宋の遺民は漢人(かんじん)、南宋の遺民は南人(なんじん。蛮子。マンジ)として扱われ、下位の階級として、差別の対象となっていく。

 中国王朝をひとつ取り上げてこの長さです。特に宋のような政治・経済・文化・社会の華やかな時代となると、話すボリュームが多すぎて大変です。でも最後までお読みいただきましてありがとうございますm(_ _)m

 この時代は、「Vol.6唐の興亡」の次にあたります。五代十国時代を経て、北宋、南宋、元朝と続きます。実を言うと、中国王朝史はこの「高校歴史のお勉強」ではあまりご紹介していなかったですね(今頃気づきました)。機会あれば、どんどん紹介していきます。
 さて、日本史でも蘭渓道隆(らんけいどうりゅう。1213-78。建長寺を開いた人)や無学祖元(むがくそげん。1226-86。円覚寺を開いた人)といった南宋の禅僧が登場するように、宋代は禅宗がかなり発展しました。禅は中国では6世紀頃に達磨(だるま。5C-6C)が洛陽で禅を指導したとされていますが、これが、中国における禅のはじまりとされています。やがて唐代で宗派が分かれ、宋代には7つの宗派あったとされており、仏教の主流派でした。浄土宗が禅宗と融合した念仏禅というのもあったそうです。

 では、話が長くならないうちに(もう長くなっているか ^^;)、本日の学習ポイントです。まず五代十国時代からお話ししましょう。
五代十国の十国は覚える必要はありませんが、華中・華南にあったことは知っておきましょう。華北に五代王朝が興亡を繰り返すのですが、こちらは後梁→後唐→後晋→後漢→後周と全部覚える必要があります。後梁建国者の朱全忠、首都は後唐の洛陽以外はみな開封であること、後晋は遼に燕雲十六州を割譲したことなどがよく出題されます。非常にマイナーですが、後晋の建国者石敬瑭の名も難関私大でちらほら登場していますので、知っておいた方がイイでしょう。

 さて、北宋(960建国・979統一・1127滅亡。"群れなく人にナシ"と覚えたことがあります)ですが、建国者趙匡胤、首都開封、統一者太宗、文治主義、禁軍強化、殿試の新設、形勢戸の官僚進出で士大夫階級形成、遼や西夏と和約締結(1004年の澶淵の盟は"せんよんの盟"って覚えましょう。慶暦の和約はあまり出題されません)、そして王安石の改革といったあたりでしょう。王安石の改革は6つの法を知ってください。青苗法・市易法・募役法・均輸法が富国策で、農民のことなら青苗、商人のことなら市易、失業対策なら募役、物価のことなら均輸です。あとは強兵策で、保甲法・保馬法の2つです。あと新旧の党争も重要で、旧法党は司馬光が中心です。司馬光は『資治通鑑』の作者としても知っておきましょう。

 北方民族(遼・西遼・西夏・金)の詳細は「Vol.41」の学習ポイントを参照してください。くわえて、遼の二重統治体制、金の猛安・謀克、王重陽の全真教あたりも重要です。

 南宋(1127-1279)の時代は、まず靖康の変が大事です。漢字が明代の"靖難の変(靖難の役。せいなん1399-1402)"と紛らわしいですが、靖康靖難で、"そうはやすしやすし、みんなやすしむずかし"といった呪文風の覚え方で覚えました(少し恥ずかしいですが...)。拉致された皇帝、徽宗と欽宗も知っておきましょう。あと、建国者高宗、首都臨安は杭州のこと。宰相秦檜の和平派と将軍岳飛の主戦派の対立、金との国境が淮水になるなどが大事です。

 あと、社会と文化ですが、地主層は形勢戸、官僚を出した家柄が官戸、小作農民が佃戸です。"戸"は「家」という風に理解してください。形勢戸と官戸が士大夫階級を生み出します。
 覚える内容は、まず社会分野では、江南開発での占城稲はチャンパーから来たこと、"蘇湖(江浙)熟すれば天下足る"の言葉、茶の専売、陶磁器の中心地景徳鎮、陶磁器絹織物が3大貿易品であること、宋銭の流通、紙幣として交子(北宋)・会子(南宋)が発行されたこと、地方の商業都市である鎮と市、商人組合の行、手工業組合の作、貿易都市の発展(広州・泉州・杭州・明州。明州は寧波のこと)と市舶司の設置あたりでしょう。
 文化は、本編ではあまり登場しませんでしたので、ここで補足しておきます。士大夫が成長したことで、学問の発展がめざましく、宋学(そうがく)と言われました。儒学では、南宋の朱熹(しゅき。1130-1200。朱子。しゅし)が四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を重視し、大義名分論を強調して、朱子学(しゅしがく)を大成しました。朱熹と対立したのは南宋の陸九淵(りくきゅうえん。1139-92。陸象山。りくしょうざん)で、明代の陽明学に発展していきます。
 あと、絵画と文学ですが、絵画では、本編でも登場した徽宗の院体画を知っておきましょう。画院に属する画家は院体画が主流で、士大夫階級が描いた絵は文人画といいます。明代では、院体画から北宗画(ほくしゅうが)へ、文人画から南宗画(なんしゅうが)へと移り、栄えます。文学では、唐宋八大家といった文豪が登場しました。唐では韓愈(かんゆ。768-824)・柳宗元(りゅうそうげん。773-819)、宋では欧陽脩(おうようしゅう。1007-72)・蘇洵蘇軾蘇轍曽鞏(そきょう。1019-83)・王安石の8人です。難関私大では彼らの名前を書かせる問題も登場します。難字なのでよく覚えておきましょう。

 最後に、宋代は、火薬・羅針盤・木版印刷術といった三大発明がありました。ルネサンスの三大発明(火薬・羅針盤・活版印刷)より数百年前の発明です。火薬と羅針盤は、イスラムに西伝し改良されて、ヨーロッパの発明品として生まれ変わったとされています。

(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"と表示されます。汴京→さんずいに、卞。上京臨潢府→さんずいに、黄の旧字体。石敬瑭→へんは王、つくりは唐、澶淵の盟→さんずいに亶、圩田→つちへんに于。

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