世界史の目−Vol.92−

市民革命と権利の章典(1689.12)

 イングランド王ジェームズ1世(位1603-25)が統治するイングランド(イギリス)・第一次ステュアート朝1603-49)の統治は、イングランドの同君連合であるスコットランドから迎えられたため、支持基盤が不安定であった。このため、王権神授説(王権は神から授かったものであるという説。絶対王政のシンボル)を利用・提唱して専政を都合良く正当化していき、イングランド国教会を重視、議会を無視し、独占権を与えた貿易商や大商人らの商業資本によって財源を確保するなど、絶対主義王政を強めた。

 封建制が崩れたイングランドでは、騎士・商人・富農層の郷伸(きょうしん。ジェントリ。ジェントリ層と貴族層をあわせてジェントルマンという)といった地主階級、そして農奴解放後に登場した独立自営農民ヨーマン)という新興農民階級がそれぞれ成立していた。彼らはカルヴァン派の影響を受け、イングランド宗教改革の不徹底性から、国教会に残存したカトリック的要素を除外するための浄化運動(ピューリタリズム)をおこし、禁欲・勤勉を説いて世俗の職業を重んじた。彼らはピューリタン清教徒)というプロテスタントとして、国教会を重視する王室と対立を深めていった。ジェームズ1世はこれに動せず、さらに高圧的に彼らを抑え、専政を強めていった。1620年のピルグリム=ファーザーズによる、メイフラワー号での国外脱出事件は、ジェームズ1世からの抑圧に耐えきれない事情からおこされたものであったとされている。

 1625年、ジェームズ1世が没し、次男のチャールズ1世(位1625-49)が王位に就いた。チャールズ1世は、父と同じく王権神授説を信奉、スペイン遠征やフランスのユグノー支援などを行った。しかし失政を重ね、予算を大幅に超過するほどの戦費が必要となり、たちまち財政難に陥った。このため議会・法治を無視して増税策を断行し、結果市民はステュアート朝統治に対する不満が高まった。1628年、議会はこうした王の専政に対し、議会の同意のない恣意的な課税や、コモン・ロー(王国全体に共通な基本法。イギリスの法体系)に反する逮捕や投獄、軍隊の強制宿泊、軍法裁判の乱用などといった行為をやめさせるため、下院議員のエドワード=クック(1552-1634)が中心となって起草した「権利の請願(Petition of Right。全文11条)」をチャールズ1世に提出した。チャールズ1世はこれをいったんは受託したものの、翌年議会を解散して(1629-40)、議会のない専政支配を始めた。

 チャールズ1世は、その後側近にロード(1573-1645)とストラッフォード(1593-1641)といった国王の良き理解者を起用した。ピューリタン弾圧者として知られるロードはロンドン主教から1633年、国王の進言によってカンタベリー大主教にまで昇進、アイルランド総督だったストラッフォードもその後伯爵に叙せられ、篤く重用された。チャールズ1世は、2人に統治を委ね、ロード=ストラッフォード体制を築かせた。国内ピューリタンが増加する中で、国教会と王室が強く結ばれていく有り様は、強い批判を生んだ。
 1637年、ロードはスコットランド国教会にも目を向けた。スコットランド国教会は、中心がカルヴァン派の影響を受けたプロテスタント・長老派プレスビテリアン)であり、イングランド国教会とは対立していた。長老派は、長老制度(カルヴァン派の教会制度)をとり、牧師と信徒から選ばれた長老が教会運営者であった。ロードは、チャールズ1世の命により、スコットランドにイングランド国教会の共通祈祷書の強制を進言、つまりスコットランド国教会を廃してイングランドの国教を信仰させようとした。このため、1639年、スコットランドにおいて大規模な反乱が起こり(スコットランドの反乱)、チャールズ1世は、反乱鎮圧費を捻出する必要から、1640年4月、手に負えない反乱に対する戦費調達用に、議会は増税に賛成するものと期待し、11年ぶりに議会を召集した。

 しかし議会は増税を拒否、王に対する非難が予想以上に激化したため、王は3週間で議会を解散した(短期議会)。その後もスコットランドの反乱はいっこうにおさまらず、軍事費捻出以外の手段はなかったため、同1640年11月、王は議会を再召集した。しかし王に対して、またしても議会の激しい批判がおこり、「大諫奏(だいかんそう)」として意見を提出、ストラッフォードは断罪されて、翌1641年、処刑された。1642年、チャールズ1世は軍を率いて、ピューリタンの5人の議会派議員(Parliamentarians。別称・円頂党。Roundheads。上流階級の多い王党派に比べ、短髪・丸坊主姿が多かったため、この名がある)を議会で逮捕しようとして議会軍と衝突した。これを機に、封建貴族や特権商人、聖職者など、国王を支持する国教徒の王党派国王派。騎士党。Royalists,Cavaliers)と、ジェントリやヨーマン、産業資本家、労働者など、絶対王政に反抗的で、議会を支持するピューリタンの議会派との間に内戦が勃発、チャールズ1世は、ロンドンにおける議会派の勢力が過激であったため、北東のヨーク市に移って王党派の拠点とした。ピューリタン革命清教徒革命)の勃発である(1642-49。短期議会がスタートした1640年を、革命の勃発とする場合もある)。

 もともと議会派は王党派に比べて弱体的であり、内部でも多くの派閥に分かれ、スコットランドやロンドンなどの大商人やジェントリなどによって形成され、立憲王政を主張する穏健な長老派(Presbyterians)、産業資本家やジェントリ、ヨーマンなどによって形成され、王権縮減を主張する独立派(Independents)、独立派の急進的左翼で、貧農・手工業者・小市民などによって形成され、参政権の平等や信仰の自由など、民主的要求"人民協約"を主張して共和政を打ち出した平等派水平派。Levellers)、失地農らによって形成され、最左翼、急進的実力行使派であり、私有財産権を否定するなど共産主義社会の実現をめざした真正平等派(真正水平派。Diggers→ロンドン近郊の荒れ地を"開拓する人"の意味)などが存在した。

 内戦勃発当初、王党派は軍の上でも優勢であったが、独立派のオリヴァー=クロムウェル(1599-1658)が台頭し、ジェントリやヨーマン中心で構成された鉄騎隊(Ironsides)を用いて1644年のマーストン=ムーアの戦いで形勢を逆転した。1645年、さらに議会軍は、軍隊を新型軍(ニュー=モデル軍。New Model Army)として編成、6月のネーズビーの戦いで新型軍の実力が最高の形で発揮され、王党軍は大敗した。ロードは逮捕後、投獄、そして同年処刑された。国王チャールズ1世はスコットランドへ逃亡を図るも、1647年に逮捕、ハンプトン=コートに幽閉された。

 議会派の交渉に誠意をみせないチャールズ1世は、スコットランドの長老派と通謀、脱出し、内乱が再勃発した(1648)。議会派の中でも立憲王政を主張する長老派は、国王に妥協的であるため、独立派のクロムウェルは長老派を警戒していた。チャールズ1世は直後に捕らえられ、クロムウェルは国王孤立化を狙って長老派を排斥する決断を下した。
 そのためには、クロムウェル率いる独立派も強力でなければならなかった。独立派は、当初パトニ討論(1647.11。テムズ川上流のパトニ礼拝堂で議会軍集会での、平等派の"人民協約"をめぐる独立派との討論)で対立していた急進的な平等派との関係を緩和して、協力体制を組織し、1648年末、長老派議員を追放した。長老派のいない議会は"ランプ議会(残部議会。Rump Parliament)"と呼ばれた。そしてこの議会で、高等法院(特別裁判所)を特設した。
 そして1649年1月、高等法院の国王チャールズ1世の罪に対する判決が下され、チャールズ1世について、"反逆者・虐殺者・国家の敵"として、国王称号の剥奪、そして死刑が宣告された。

 チャールズ1世は、衆人環視のなか、ホワイトホール宮殿前広場にて、斧で斬首された(チャールズ1世処刑)。フランスに亡命中で、王党派寄りのイギリス人哲学者であり、トマス=ホッブズ(1588-1679)は、自ら主張する社会契約説自然法に基づき、国家・社会は人々がお互いに契約を交わして成立するという説)の立場から、人間には自由が必要だが、無限の自由は"万人の万人に対する闘争"となるため、自由は制限が必要であり、国家に強力な絶対主権を与えなければならないと主張し、国王を死刑に処したことを強く批判した。後にホッブズは『リヴァイアサン』を著し(1651)、絶対主義を擁護する立場を取った。

 その後議会派の中では、平等派のリルバーン(1614?-57)や真正平等派のウィンスタンリー(1609?-60?)が指導者としてそれぞれ台頭すると、独立派のクロムウェルは、1649年春、これらを議会派から追放し、議会派は独立派の独裁権を確立した。これで一連のピューリタン革命は一応の終結をみた。

 その後のクロムウェルの快進撃は凄まじいものであった。貴族院を廃止して庶民院一院とし、ケルト人系カトリック教徒の多いアイルランドを苛酷に征服した(アイルランド征服)。領地収奪、プロテスタント強制、貧農の強制労働(イングランド人不在地主のケルト人小作農化)など、後のケルト人系カトリック教徒のイングランドへの抵抗は、アイルランド問題として今後も長く続くことになる。クロムウェルはチャールズ1世の子(1630-85。のちのチャールズ2世。位1660-85)を匿ったとして、スコットランドも征服したが(スコットランド征服)、王党派との内戦での協力や、カトリック系ではなかったため、アイルランドより苛酷な征服ではなかった。
 1651年、クロムウェルは航海法(Navigation Act。1849年廃止)を発布した。イギリスとの貿易を、中継貿易を経ないで、直接当事国の船に限定した法律で、植民地貿易のイギリス独占を目的としたものであった。だが結局は中継貿易で利益をあげていた主体のオランダを締め出す形となったため、これに異を唱えたオランダは、イギリスと戦争を交えた(イギリス−オランダ戦争英蘭戦争。第1次1652-54,第2次1665-67,第3次1672-74)。しかしこの戦争はイギリスの勝利となり、オランダは海上覇権を奪われた。

 クロムウェルは、短期議会の後、1640年11月から途中ランプ議会となって行われてきた長期議会を、1653年4月に解散、終身の護国卿(ごこくきょう。Lord Protector。政治・軍事の最高官職)に就任、イングランドはクロムウェルの軍事独裁国家となった(イギリス共和政。任1653-58)。劇場の閉鎖をはじめとする娯楽の禁止は、ピューリタリズムの姿勢を貫き、清教徒国家として厳格に内政を行った。このため、国民は次第に体制に不満を持つようになっていく。1657年にはクロムウェルをクロムウェル朝のイングランド国王としての即位案も議題に上がるなどしたが、結局成立せず、1658年、失意のうちにクロムウェルが没し、長子リチャード=クロムウェル(1626-1721)が護国卿に就任(任1658-59)した。しかしリチャードは政治力・軍力ともに無能であったため孤立化し、在任8ヶ月で辞任し、パリへ亡命した。こうして独立派は急速に衰え、王党派が再び勢力を盛り返すようになる。

 王党派は、ステュアート朝再興をはかり、長老派と協力してチャールズ2世を呼び戻した。チャールズ2世は、オランダのブレダで王政復古の宣言を発し(ブレダ宣言)、1660年第二次ステュアート朝1660-1714)を再開した。
 チャールズ2世は、スコットランド潜伏失敗後、フランスなどで大陸亡命生活を送っていた。王政復古後は、議会の決定に従い、議会派との和解を示すことが約された上での王政となるはずであった。議会も王政復古となったことで、信仰の自由を容認した上で、ピューリタンとイングランド国教会との緩和にむけて、諸政策を施す準備をしていた。
 ところが、国王は亡命先であったフランスと通じ、カトリック復活、そして絶対王政の復活を図ったのである。完全な反動政治であり、フランスの太陽王ルイ14世(位1643-1715)から自称イングランドのカトリック王であると宣言する許可を得るというドーヴァー密約を結んだ(1670)。さらに王弟ヨーク公ジェームズ(1633-1701。公位1633-1685)への王位継承問題もおこり、議会と王の対立が再燃した。
 議会は、王のカトリック容認の方針に対抗姿勢を構え、国教会に属さない非国教徒(通常はカトリックを含まない)を公職から排除する審査法(Test Act。1673。1828年廃止)や、不法逮捕や裁判を禁じた人身保護法(Habeas Corpus Act。ラテン語で"身柄を提出せよ"の意。1679)などを制定した。

 カトリック宣言権を持つヨーク公ジェームズは、審査法制定によって海軍の総司令官を解任させられている。また1673年、ジェームズがカトリックの公女と再婚し、王位継承をさらに揺らせる結果となる。人身保護法制定も、ジェームズの王位継承問題に関し、議会が王位候補者からジェームズを除外しようとした結果によるものであった。人身保護のため、兄王の専政を引き継ぐことが決定的なジェームズが王位継承候補となってはならないとする法案であった。ジェームズを王位継承者から除外する法案に際し、賛成した同志はホイッグ党(ウィッグ。"スコットランドの暴徒"という意味であだ名された。イギリス自由党の前身。アメリカでは共和党に発展)、反対した同志はトーリー党("アイルランドのならず者"という意味であだ名された。イギリス保守党の前身)を結成した。このため、チャールズ2世は、1681年から85年にかけ、議会を開こうとはしなかった。

 チャールズ2世が没し(1685)、結局ジェームズがジェームズ2世として王位を継承することとなり(位1685-88)、旧教復活と専政による統治が始まった。審査法は無視され、カトリック教徒が要職に任命された。そして、多額の常備軍予算を決するため、ついに宗教寛容宣言を発して(1687)、カトリックを容認させる動きを示した。王政復古は、絶対王政への復古ではないという国民の願いは撃ち破られる、最悪の結果であった。しかし、ジェームズ2世には男子がおらず、先妻の長女メアリ(位1689-94)が国教徒であることで国民は期待を抱き、トーリー党もジェームズ没後、断絶を予想していた。しかし、第2の王妃に男児をもうけ(1688)、彼をカトリック教徒として育てることになったため、議会は遂に動いた。

 1688年議会はメアリの夫であるオランダ総督であるオラニエ公ウィレム(任1672-1702)を招請、11月、ウィレムは1万4000の軍を率いてイングランドに上陸、ジェームズ2世はやむなくフランスへ亡命した。流血事態を招かない、名誉ある革命の勃発であった(名誉革命。無血革命。グロリアス=レヴォリューション。1688-89)。
 翌1689年初頭、議会によって、ウィレムはウィリアム3世として国王になり(位1689-1702)、メアリもメアリ2世として共同君主となった(位1689-94)。即位の際、両王は、"権利の宣言(Declaration of Rights)"を議会に提出、ジェームズ2世の専政を13項目に分けて批判、人権と自由に反するものとし、王は議会の意志を優先すると宣言、議会の承認を得て、国王即位となった。

 革命勃発時、オランダに亡命していたジョン=ロック(イギリス政治学者。1632-1704)は、翌年帰国して革命の結末を見届けた。彼もホッブズと同じく、社会契約説を取り上げたが、ホッブズと違う点は、ホッブズが絶対王政擁護でもって国家論を説いたが、ロックは人民主権論でもって、絶対王政に反対の姿勢をとり、法の下での統治と国民の基本的人権を擁護したことである。著書『市民政府二論統治論二篇)』(1690著)では、主権在民の立場から、国家が国民の権利を侵害した場合には、抵抗権革命権)を認め、委任した権利の返還や、支配者の交替を要求できるとし、名誉革命を正当化している(名誉革命擁護)。

 前国王に対する批判と、人権と自由に対する保障を宣言したものの、以前のように居直ることも想定されたため、"権利の宣言"に法的拘束力をもたせる必要があった。そして、「臣民の権利ならびに自由を宣言し、王位継承を定める法」として、1689年12月遂に、「権利の章典(Bill of Rights。権利章典)」として法文化された。国1215年のマグナ=カルタ(大憲章)、1628年の「権利の請願」、そしてこの「権利の章典」は、成文憲法を持たないイギリスにとって、重要な法典となる。以下が「権利の章典」の、主な内容である。

 「権利の章典」は、王権が大幅に制約され、国王は法に基づいて統治を行う、イングランド立憲政治立憲王政)の原点とも言うべき内容である。これにより、イングランドにおける絶対王政は消滅したのである。ピューリタン革命と名誉革命は、ヨーロッパ史上における最初の典型的市民革命として、"イギリス市民革命(イギリス革命)"と呼ばれている。

 イギリスの立憲王政は、議会を尊重し憲政と議会政治、また政党政治(party politics。1694年ホイッグ党単独政権が成立)の基礎をつくったウィリアム3世が1702年没し、その後メアリ2世(1694没)の妹アン女王(位1702-14)の統治となった。1707年、イングランドとスコットランドの合併が実現、グレート=ブリテン王国(Great Britain。大ブリテン王国)の成立となる。また内閣(Cabinet)の権限が高まり、政党政治が発達した。
 1714年のアン女王没後、第二次ステュアート朝は断絶、ドイツのハノーヴァー選帝侯(ドイツ語は"ハノーファー")であるエルンスト=アウグスト(侯位1692-98)と、ジェームズ1世の孫にあたる妃ソフィア(1630-1714)との間にできた、子ゲオルク=ルートヴィヒ(1660-1727 )を迎え、大ブリテン王ジョージ1世として即位(位1714-27)、彼を開祖とするハノーヴァー朝が創始された(1714-1901。サックス=コバーグ=ゴータ家を含めると1714-1917。さらにウィンザー家を含めると現在に至る)。

 当時54歳だったジョージ1世は、ドイツ滞在が多く、しかも英語を理解しなかったため、国政を内閣に委ねた。この時内閣ではホイッグ党のウォルポール(1676-1745)が首相(First Lord of Treasury。"Prime Minister"は通称)で、国王のこうした現状のため、内閣が議会に対して政治的責任を負う責任内閣制(1721年成立)における最初の首相となった(任1715-17,21-42)。国王の地位は、"議会の中の王"や、"国王は君臨すれども統治せず(King reigns , but does not govern)"の言葉が象徴している。

 市民による資本主義の風潮が高まっていきますと、これまでの絶対王政や専制君主政という形態が邪魔になり、これらを撃ち破って変革を成し遂げます。市民による最初の政治変革を市民革命といいますが、今回ご紹介したイギリス革命、つまりピューリタン革命と名誉革命は、最初の市民革命として世界史に登場します。
 市民革命がおこる背景は重要です。荘園制が崩壊し、ジェントリとヨーマンが台頭して以降、毛織物生産によって富農が出現します。また、第1次囲い込みによって農民が没落し、これを産業資本家が労働者として雇い、後のマニュファクチュア体制が築かれます。こうして富を得た市民は中産階級を獲得して、議会に進出し、貴族・地主・商業資本家といった絶対国王に護られた階級と衝突し、国王の専政に立ち向かっていきます。中産階級は、主にピューリタン出身が多かったため、イングランド国教会を貫く王室と争うことになるのです。

 そして、革命が達成されて、"権利の章典"が制定されるのですが、イギリスは民法や刑法などの成文法を持たなくて、マグナ=カルタ以来の慣習や文書が基本となっています。裁判などを行う際には、コモン=ロー(慣習法)が根拠となり、裁判の判例によって形成されていき、これが一般国内法として成立します。

 では、今回の学習ポイントです。ピューリタン革命期、名誉革命期、立憲王政期の3つに分けてお話ししましょう。
まず、ピューリタン革命期ですが、3期の中で最も覚える用語が多く登場しますので注意が必要です。ステュアート朝ではジェームズ1世、その後のチャールズ1世は議会を無視して専政を貫きました。この2王は重要人物です。チャールズ1世の時に"権利の請願"が出されます。1628年、"疲労にやつれて権利の請願"と覚えた記憶があります。その後議会は11年間、チャールズ1世によって閉鎖されますが、1639年のスコットランド反乱("むさくるしいスコット反乱"と覚えました。当然、スコットランドはむさ苦しくはありませんよ)によって短期・長期と議会が開かれていきます。議会が開かれたのを皮切りに、ピューリタン革命が勃発したという見方もあります。
 さて、主人公のクロムウェルの登場です。彼はジェントリ出身で、議会派のピューリタンです。ジェントリ出身というのは穴埋め問題の重要なキーワードになります。1642年に内戦がおこり、これが革命の勃発年とする見方が強いです。受験生時代には"疲労用心クロムウェル"といった覚え方を教わりました。鉄騎隊、新型軍の軍隊を使用して、ネーズビーの戦いで王党派を倒したことを知っておきましょう。また、議会派には、長老派・水平派(平等派)・真正水平派(真正平等派)があったことも大事です。難関私大では、水平派のリルバーンや、真正水平派のウィンスタンリーが出ることもありますが、かなりマイナーなので余裕があればで良いと思います。

 さて、チャールズ1世処刑後、クロムウェルの独裁が始まりますが、ケルト人のアイルランド征服とスコットランド征服は大事です。覚えておきましょう。ここで大事なのは、スコットランドはアイルランドほど苛酷な征服ではなかったことが意外と重要です。そして1651年の航海法("色濃い航海")、英蘭戦争(1652-74)、1653年の護国卿就任("六甲山の護国卿")も大事です。

 名誉革命期では、王政復古の1660年、審査法の1673年、人身保護法の1679年の年代は知っておきましょう。後者2つは、"なみだの審査、泣く泣く保護する"と覚えました。そして、名誉革命イロパッパ1688)です。
 ここでは、チャールズ2世から弟ジェームズ2世へ、またジェームズ2世からメアリ2世とウィリアム3世へとうつる交代劇がポイントになりますが、ジェームズ継承時に、継承除去の賛否がおこされ、除去に賛成したのがホイッグ党、反対したのがトーリー党であることが大事です。両党は、それぞれ自由党・保守党に発展していきます。
 そして権利の宣言につづいて、権利の章典の登場です。1689年は"一路躍進"と覚えましょう。

 立憲王政期では、メアリ2世とウィリアム3世のあと、アン女王、ジョージ1世とつづきます。ウィリアム3世時代は英仏植民地戦争の真っ最中でした。ヨーロッパでルイ14世がファルツ継承戦争(1689-97)で侵略している傍ら、北米ではウィリアム王戦争(1689-97)がおこされています。またアン女王時代でも、同じくルイ14世のスペイン継承戦争(1701-13)がヨーロッパで戦われ、これに連動して北米でアン女王戦争(1702-13)が展開されています。また本編でもご紹介したように、ウィリアム3世の時に政党政治が始まり、アン女王の時に大ブリテン王国が誕生し、ジョージ1世の時にハノーヴァー朝がおこされ、ウォルポール首相の責任内閣制がスタートします。"国王は君臨すれども統治せず"の名句もあわせて覚えておいて下さいね。

世界史の目に戻る
参考文献

Copyright (C) KOBE MANTOMAN SHIDOU SENMON GAKUIN All Rights Reserved.