世界史の目−Vol.97−

フロンドの乱とヴェルサイユ宮殿

 アンリ4世(位1589-1610)が創始したフランス・ブルボン朝(1589-1792,1814-30)では、新旧両教徒に同等の権利を保障するナントの勅令(1598)によって、宗教内乱(ユグノー戦争。1562-98)は終結、中央集権化を軸とする国家再建に向かった。

 次に即位したルイ13世(位1610-43)は、摂政母后マリ=ド=メディシス(1573-1642)を1617年に退けて親政を始め、宰相にリシュリュー(1585-1642)を任命した。リシュリューは三部会(聖職者・貴族・平民の三部から成る身分制議会)が開催された1614年に頭角を現し、マリ=ド=メディシスに認められて国王顧問官、枢機卿、首席顧問官に次々と任じられた人物である。
 リシュリューはルイ13世による絶対王政を目指して、三部会を1615年に解散させ(三部会召集停止)、貴族の専横やフランス新教徒であるユグノーの抑圧を徹底化した。また彼はハプスブルク家(旧教)と対立、国益優先のため自国が旧教国でありながら、新教側に味方し、三十年戦争(1618-1648)にも介入した(1631)。戦時中の1624年、ルイ13世は、狩猟用ロッジとして離宮を建設した。これが、のちのヴェルサイユ宮殿となる。

 ルイ13世は、王妃アンヌ=ドートリッシュ(1601-1666)との間でなかなか子に恵まれなかったが、アンヌは2度の流産を経て、1638年になってようやく男児ルイ(1638-1715)と1640年男児フィリップ(1640-1701。のちのブルボン=オルレアン公フィリップ1世。公位1660-1701)を相次いで出産した。アンヌはスペイン=ハプスブルク家出身のため、国王や宰相リシュリューからは忌み嫌われていたとされる。このためルイの誕生は"天の賜物"と叫ばれてフランス国民に歓迎された。

 リシュリューは1642年、ルイ13世は翌1643年に没し、当時5歳だった長子ルイがルイ14世として即位(位1643-1715)、アンヌは摂政(1643-61)となり、宰相にはマザラン(1602-61。マッツァリーニ)が任じられた。マザランはイタリア人で、もともと教皇庁に仕えていた軍人であった。教皇外交使節を経て、のち教皇大使としてパリに派遣された。リシュリューに認められて徐々にフランスに依存するようになっていき、1639年にはフランスに帰化、1641年リシュリューによって、枢機卿に任命された。リシュリュー没後のマザランは、後継者としてリシュリューの政策を継承、王権伸張を維持するため、貴族やユグノーの抑圧を続け、しかも三十年戦争の軍費捻出による重税を強化した。摂政アンヌ同様、マザランもフランス人ではないため、就任当初は貴族や市民からはあまり人気がなかった。

 マザランは、他国出身のアンヌと協力して、王権伸長を積極的に努めた。三十年戦争における講和、ウェストファリア条約(1648)において、アルザス地方におけるハプスブルク家の諸権利を獲得し、またロレーヌ地方の司教領をフランス領とさせた。アンヌは、従弟であるハプスブルク家皇帝フェルディナント3世(位1637-57)との間で同条約を締結したが、戦時中、また戦後もハプスブルク家を敵としてフランスのために戦った。このため、ハプスブルク家を転落に導いたことで、幾分人気は上がり、王妃の偉大さが示されたかに見えた。

 三十年戦争での戦闘において、脚光を浴びたのがルイ=ド=ブルボン(1621-1686)という軍人である。彼はまだ20歳前後であったが、勇敢に戦い、スペイン戦で勝利を収めて軍功をあげていた。ルイ=ド=ブルボンはコンデ家というブルボン家からでた名門貴族の出身で、4代目コンデ公であった(ルイ2世。大コンデ。公位1646-1686)。コンデ公は、王党派として軍関係を守る重要な立場を与えられていた。

 ルイ14世が即位した頃、フランスの第3身分(平民)、特に上層市民は、官職購入によって貴族身分に叙せられるなどして(法服貴族という)、高等法院の評定官などに昇り詰めていた。高等法院とはフランスの最高司法機関で、パリと、12の地方高等法院があり、14世紀以降、控訴が許されない判決制度のもとで機能していた。また司法権の独立を保ち、国王の王令も高等法院での許可なしでは発せられず、王令の登録を延期できる権利を有した。しかし、王権の絶対化が進むと、国王は親裁座(リ=ド=ジュスティス。国王の親臨法廷)において強制的に王令を発した。このため高等法院は、王室に不満な姿勢を示す貴族らの牙城として、政治的に重要な立場となった。王室とパリ高等法院との対立は表面化していく中で、王室においても、マザランやアンヌといった国外出身者に対する反感も消え失せてはおらず、宮廷貴族による排斥活動も高まっていった。

 "ヨーロッパの全般的危機"の時代でもあり、1648年、マザランの重税策と高等法院貴族逮捕を契機として、市民の支援によるパリ高等法院の反抗が始まった。このため、アンヌ、ルイ14世、オルレアン公フィリップ1世ら王室はパリを離れ、サン=ジェルマンへ逃亡した。この間、コンデ公は三十年戦争勝利の軍功を掲げながら、反王党派の高等法院勢力をいったんは鎮圧した。このとき市民を率いていた高等法院勢力は、「フロンド」と呼ばれる投石玩具らしきものを用いて反抗していたため、その後続く一連の貴族反乱を"フロンドの乱(1648-53)"と呼び、1648年の勃発は第一次にあたる。コンデ公ルイ2世は、翌1649年2月にパリを包囲・制圧、いちおうの王室回復とはなり得た。

 しかし、コンデ公のこの行為は、マザランを失望させた。コンデ公のパリ包囲は、政情不安のフランスを正常化に導くとして、逆にパリ市民や高等法院貴族に支持され始めたのである。折しもイギリスでは市民革命(ピューリタン革命。1642-49)の時期に当たり、前1月にはクロムウェルの指揮において、国王処刑が実行されたばかりであったため、フランスにおいても、王党派であるにもかかわらずコンデ公を逆に革命軍人として期待し始めた。事実、王室内でも対立が激しく、王室勢力はコンデ公を中心とする軍隊に握られている状況である。さらに、コンデ公ルイ2世の弟で、コンティ公(コンデ家系)のアルマン(公位1629-1666)は、実は市民の支援する高等法院側の指揮をとっていた。結局、コンデ公軍隊・パリ高等法院・パリ市民ら反乱軍によってフランスにおける実権が掌握されてしまっていた。このような結果から、マザランはコンデ公との対立を深め、クロムウェルの二の舞にならぬ策としてコンデ公、コンティ公、そしてヴァロワ家の血を引く義兄ロングヴィル公アンリ2世(公位1595-1663。公妃はルイ2世の姉)を逮捕した(1650)。すると、ロングヴィル公妃を中心とするコンデ家貴族の反乱が勃発し、地方貴族にも飛び火して第二次フロンドの乱となった。すると、高等法院側もこの反乱を支持し、また王室内からも反王党派が飛び出してこれを支援するようになったため、マザランはコンデ公ルイ2世を釈放せざるを得ず、結局翌1651年初頭、コンデ公は釈放され、マザランはそのままドイツに亡命した。

 マザランの王室転覆阻止にむけて、さらなる窮地に立たされたのが、摂政アンヌの母郷、スペインの存在である。コンデ公は釈放後、三十年戦争で敵同士として戦い抜いたスペイン軍と密謀を交わした。しかし摂政アンヌはこれに動じず、コンデ公を完全に見限って、高等法院やパリ市民、さらには三十年戦争で軍功をあげて以降反王党派に転じた貴族軍人たちを味方に付け入るため、買収や懐柔など、あらゆる手段を使って王党派に引き込んでいった。もともと反乱軍は階層に格差があり、内部対立は甚だしかったため、反乱軍によるパリ制圧維持は長続きはしなかったのである。こうした対立からコンデ公は、遂にパリを追われ、フランス南西部のピレネー方面(ギュイエンヌ)を拠点に、スペインを含めた数千の軍勢でパリ進軍を計画、1652年7月、パリに接近した。すでに王室側はコンデ公の軍隊にスペインが加担していることをつきとめており、コンデ公を政敵としてパリ市内の王党派勢力を確固たるものにしていた。結局、1653年2月にマザランがパリに戻り、王政が復活して勢いを盛り返した王党派が、コンデ軍を駆逐して大乱を鎮めた。これにより、王室のパリ奪還が成功、王室はパリに戻ることとなった。フランス最後の貴族反乱となったこのフロンドの乱で、フランス貴族は無力化していき、王権に屈した高等法院の効力も弱体化した。摂政アンヌとマザランの尽力で、ルイ14世における絶対王政が確立した。財政総監にコルベール(1619-83)を重用し、後に保護関税政策を中心とする重商主義(コルベール主義東インド会社再建など。1664)を展開させた。

 1661年、マザランが没した時、アンヌは大いに悲嘆した。フランス人から嫌悪感をもたれた国外出身者が、郷里を敵国としながらもフランスを守り、内憂状態に陥ってもひたすらフランス王室の為に、同じく国外出身でありながら手を合わせて力を尽くしてくれた、偉大なるパートナーの死去であった。アンヌとマザランとの間は恋仲の絆であったともされており、結婚説も浮上していたほどである。そのアンヌ自身も、5年後の1666年、マザランの後を追うように没した。
 ルイ14世はマザラン没後に親政を始めた(1661)。王権神授説に基づいて、"朕は国家なり"を宣言、「太陽王」として絶対王政を推進した。官僚制度の整備と常備軍の編成、コルベール重商主義の促進といった絶対主義改革を次々と断行した。

 フランス文化の絶頂期も、ルイ14世時代に現出されている。その代表が、ヴェルサイユ宮殿である。
親政を始めたルイ14世は、パリから22km南西にあるヴェルサイユへ赴き、かつて父ルイ13世の狩猟用ロッジとして使われた離宮を大々的に造営することを決めた。もともとは、コルベール就任以前に財務大臣を務めていたニコラ=フーケ(1615-1680)が、王室建築家ル=ヴォー(1612-1670)造園家ル=ノートル(1613-1700)、王室画家ル=ブラン(1619-1690)らを使って豪華絢爛な自身の城館、ヴォー=ル=ヴィコント城を造営したが、ルイ14世のフーケに対する不興と憤慨によって、フーケは失脚させられたという史実があり、結局ルイ14世は、ル=ヴォー、ル=ノートル、ル=ブランの3人を使って、最高の王宮造営を計画したという。1661年、ル=ヴォーによって増築を開始し、ル=ヴォー没後はマンサール(1646-1708)が担当した。その後庭園造営に取りかかり、ル=ノートルを造園にあたらせた。そして、1678年には、マンサールによる"鏡の間"が増築が開始され、着工時から装飾分野にあたっていたル=ブランが天井画を手がけた。その後、礼拝堂やオペラ劇場などが増築された。

 1682年バロック式のヴェルサイユ宮殿が遂に完成した。ルイ14世は、フロンドの乱という苦い経験から、パリに対して強い嫌悪感があった。ルイ14世は、宮殿落成後、ここを王宮とし、政府機関(首都)も1789年、ヴェルサイユ行進十月事件が勃発するまでは、パリではなくヴェルサイユに置かれた。

 ヴェルサイユ宮殿は、華美なフランス文化、フランス絶対主義、フランス上流社会のシンボルとなった。これにより、バロック建築が全世界に普及し、ロシアではエカチェリーナ2世(位1762-96)の冬宮、日本では赤坂離宮などが次々と模倣された。
 文化を篤く奨励するルイ14世はまた、サロンを設けて文学や美術、学問など、上流文化人や貴婦人の社交場として流行した。これにより、文化洗練が行われ、多くの芸術家、文筆家が誕生した。また、政治・経済や文化・社会を論じるための場であり、ロンドンのコーヒーハウスと並ぶフランス軽飲食店、カフェも流行した。

 ルイ14世は、フランスにおける文化の頂点を形成した太陽王として、これに続く政治権力の頂点、つまりヨーロッパの覇権を目指して、1667年から1713年の間に、いわゆる4大侵略戦争南ネーデルラント継承戦争オランダ侵略戦争ファルツ継承戦争スペイン継承戦争)を行ったが、これらはすべて失敗した。またルイはカトリック絶対の立場より、アンリ4世が発した、宗教懐柔策であったナントの勅令を取り消した1685。フォンテーヌブローの勅令)。これは大量のユグノー亡命をもたらして経済不振に陥り、産業も低迷した。宮廷浪費、膨大な軍事費、人口激減という状態の中で、ブルボン朝は重税しか策が及ばず、"大御世(おおみよ)"と呼ばれる偉大な時代を築いたルイ14世の治世を、国民は振りかえようとはしなかった。ルイ14世の治世にもたらされた財政の逼迫は、彼の曾孫ルイ15世(位1715-74)、その孫ルイ16世(位1774-92)の治世になっても打開されず、ルイ14世が没した直後(1715)に起こった国民の歓呼の雄叫びは、のちの大革命への導火線となっていく。

 ブルボン朝におけるフランス絶対王政を現出したルイ13世とルイ14世の治世を、フランスの貴族内乱とヴェルサイユ宮殿の造営を中心にご紹介致しました。特にリシュリュー、マザラン、アンヌ=ドートリッシュの時代に関心のある方は、ダルタニヤンと三銃士のお話を思い出すのではないでしょうかね。
 ブルボン朝はヴァロワ朝(1328-1589)に続いてフランスにおこった王朝です。フランスはカトリック国ですが、フランスの教会は、ローマ教皇の支配を受けないガリカニスムという国家教会主義をとり入れていました。フランスの司教権は独立していて、ローマ教皇の命令を無効にすることもあったそうです。これはヴァロワ朝の前のカペー朝(987-1328)の国王フィリップ4世(位1285-1314)の時代に、アナーニ事件(1303)や教皇のバビロン捕囚事件(1309-77)などをおこして教皇権を衰退させ、ヴァロワ朝時代でも教会大分裂(1378-1417)が起こって、ローマ教皇の権威はズタズタにされたことがありました。こうした経緯もあり、ローマ教皇は、フランスのカトリック教会を、時代を経ても相当扱いにくい相手として見ていたのでしょうね。

 さて、今回の学習ポイントですが、ルイ13世とルイ14世の時代を別々に見ていきましょう。まず、ルイ13世の時代では、1615年に三部会召集を停止し、フランス革命勃発前夜までフランスに議会が開かれない状態となります。1615年という年代を知っておきましょう。
 宰相リシュリューも重要です。絶対主義に向けて、ユグノーや大貴族を抑えていきます。また外では、ハプスブルク家に対抗して三十年戦争に介入し、カトリック国でありながら新教国側を支援していきます。ガリカニスムのフランスならではです。

 ルイ13世よりも出題が多いのがルイ14世の時代です。フランス絶対主義の頂点に立ったルイ14世は"朕は国家なり"と宣言し、太陽王と呼ばれた君主です。宰相マザランの功績の功績も大きく、フロンドの乱の鎮圧と三十年戦争終戦におけるウェストファリア条約でハプスブルク家を追い込みました。フロンドの乱においては、高等法院の貴族勢力と戦ったことを覚えてください。
 ルイ14世の親政に入ると、財務長官のコルベールに財政政策を委ね、東インド会社を再建させて、重商主義を促進させました。しかし、彼の功績も最後までは機能せず、相次ぐ侵略戦争(例の4大戦争)や、スペインとの合邦は永久破棄となるユトレヒト条約(1713)などによって、財政は乱れていきます。またナントの勅令廃止(1685)によって、ユグノー亡命を誘発させ、産業も立ちおくれます。

 本編に登場したマリ=ド=メディシス、アンヌ=ドートリッシュ、コンデ公、ル=ブラン、ル=ヴォー、ル=ノートル、マンサールなどは試験にはほとんど登場しませんので覚えなくても良いと思います。でもこの時代を深く知るには欠かせない人物ばかりですがね。

 さて、ヴェルサイユ宮殿ですが、建築様式はバロック式であることを覚えてください。バロック式は16C後半から18C初に流行した美術様式です。豪壮華麗を特色としています。バロック式は絵画においても流行り、代表的なルーベンス(1577-1640。オランダ)とファン=ダイク(1599-1641。ベルギー)、スペインではエル=グレコ(1541?-1614)、ベラスケス(1599-1660)、ムリリョ(1617/18-82)の3人が有名。「Vol.66光と影」でご紹介したオランダのレンブラント(1616-69)も、バロック時代の画家です。ルーベンスやファン=ダイクはフランドル派、レンブラントはオランダ画派とも称されます。また音楽もバッハ(1685-1750)やヘンデル(1685-1759)らドイツの音楽家を代表とする豪壮華麗なバロック音楽が流行しました。
 ちなみにバロック式のあとに流行ったのがロココ式で、繊細・優雅を特色としています。プロイセン・フリードリヒ2世(大王。位1740-86)時代のサン=スーシ宮殿はその代表です。またワトー(1684-1721)のロココ絵画もあります。

 ルイ14世時代に栄えた文学はコルネイユ(1616-84)・ラシーヌ(1639-99)・モリエール(1622-1673)の三大劇作家が有名です。コルネイユとラシーヌは悲劇を、モリエールは喜劇を主に扱っており、特にモリエールでは、パレ・ロワイヤル劇場で上演された『タルチュフ』『人間嫌い』が名作です。ちなみに、この時代(17世紀)のフランス文学は古典主義文学という呼び名でカテゴライズされており、対するイギリスの17世紀文学はピューリタン文学と呼ばれ、清教徒の心情を綴った内容が多いです。こちらも名作揃いで、ミルトン(1608-74)の『失楽園』、バンヤン(1628-88)の『天路歴程(てんろれきてい)』、デフォー(1660-1731)の『ロビンソン=クルーソー』、スウィフト(1667-1745)の『ガリヴァー旅行記』は、イギリス・ピューリタン文学の4大作と言えるでしょう。これらは入試頻出用語ですので、覚えておきましょう。

世界史の目に戻る
参考文献

Copyright (C) KOBE MANTOMAN SHIDOU SENMON GAKUIN All Rights Reserved.