世界史の目−Vol.98−

スペイン炎上

 1929年の世界恐慌によって、大不況の渦に巻き込まれていたスペイン・ブルボン朝(1700- )では、当時、ブルボン朝国王アルフォンソ13世(1886-1941。位1886-1931)に容認されたミゲル=プリモ=デ=リベラ(1870-1930)の軍事政権(1923-30)であった。彼は議会解散・憲法停止を発した独裁国家体制「新国家」を構築、国民会議・愛国同盟を創設してその強化を進め、国民意識の都合を図っていた。しかし、後進資本主義国のスペインは大恐慌の波及を免れず、国家財政は乱れていき、共和主義運動、社会主義運動、労働運動など、反王政派・反政権派といった左派の活動が顕著となる。

 1930年1月、プリモ=デ=リベラは経済不況を打開できぬまま、健康を害して失脚、その後パリで客死した。イタリアではファシスト党、ドイツではナチス党といったファシズム政権がつくられていく中、スペインにおいてもプリモ=デ=リベラの息子ホセ=アントニオ(1903-36)らによるファシズム政党の実現にむけて、着々と準備が施されていった。
 こうした政情の不安定さが内外に深く浸透していく中で、翌1931年4月、地方選挙で左派が勝利した。この結果はアルフォンソ13世を退位、亡命まで追い込み、ブルボン朝を断絶させた(スペイン革命)。スペインは共和政府による共和国を実現させたのである(スペイン第二共和政)。

 政府は、同年12月に、ヴァイマル憲法を範として第二共和国憲法を発布した。翌1932年にはバルセロナ市があるカタルニャ(共和派の中心地方)が自治権を獲得し、農地改革を主張した。しかし、右派はこれを黙視できず、資本家、地主、聖職者、軍部といった王政に守られていた反政府派は、クーデタを起こして一時政権を奪回(失敗)するなど、左右の対立は激化していった。
 こうした中、ホセ=アントニオは、1933年、同士とファシズム政党であるファランヘ党を設立した。1934年2月には、サンディカリスト攻撃評議会(JONS)と合併、暴力による全体主義をより一層押し進め、青年層を中心に右翼政党の1つとして支持を集めていった。
 左右の衝突は1934年10月の、いわゆる十月革命と呼ばれる右翼政党の入閣で、一段と激しさを増した。社会労働党、労働者総同盟といった左派勢力はゼネスト実行を発し、カタルニャやバスク地方(スペイン北部)では武装闘争が勃発した。政府軍は武力でもってこれを鎮圧し、関係者約4万人を投獄した。

 しかし左派勢力はあきらめなかった。1935年、コミンテルン(共産主義インターナショナル)の第7回大会で、"味方ではない者は敵へ"から"敵ではない者は味方へ"の転換をおこした、民衆・民族の結集と、反ファシズム路線に専念する人民戦線主義が採択されたのである。これにより左派でも穏健共和派、共産主義勢力、自由主義勢力、無政府主義者、労働者、農民、知識人、宗教組織といった諸勢力が結集し、1936年2月の総選挙で左派が勝利、アサーニャ(1880-1940)のスペイン人民戦線内閣が誕生した(首相・大統領任1936-39)。アサーニャは、軍隊再編、教会特権剥奪、農地民主化の諸改革を遂行した。
 また人民戦線内閣は、ある軍人を左遷した。その軍人は、1910年にトレドの陸軍士官学校卒業後、スペインの植民地、モロッコへの派遣を志願して、独立運動が盛んな同地を抑えるため部隊を編成、反乱鎮圧に軍功をあげ、1926年、34歳で少将へ昇進、共和政となって以降は、十月革命の鎮圧を指揮して、1935年に陸軍参謀総長に任じられた男、フランスシコ=フランコ=バハモンデ(1892-1975)である。

 1936年、フランコはアサーニャ人民戦線内閣の発令により、参謀総長を解任され、カナリア諸島の軍司令官(総督)に左遷された。同1936年7月、独立を掲げるスペイン領モロッコがスペインに対して反乱を勃発させ、モロッコとスペイン本土で軍事衝突が起こった。フランコは、人民戦線内閣の統治を否定する立場から、モロッコ側を支援するため同地へ赴いた。反乱軍を指揮することを決めた将軍フランコは、モロッコで軍事行動に出て、本土侵攻を開始した(スペイン内乱1936.7-1939.3)。もともとアサーニャ人民戦線内閣に支持しなかった教会関係者、地主、資本家、軍部などの右派勢力も反乱軍に加わり、スペイン全土は、人民戦線側とフランコ率いる反乱軍側が真っ二つに分かれる大規模な内戦となっていった。

 スペイン内乱によって、ファシズム路線を歩むドイツとイタリアは公然と反乱軍を支援、また当時サラザール首相(任1932-68)による独裁国家体制であった西の隣国ポルトガルもフランコを支持して、反乱軍を助けた。一方東の隣国フランスでは、ブルム(1872-1950)による社会党急進社会党共産党のブルム人民戦線内閣(1936-37)であり、ジョリオ=キュリー夫妻(物理学者。イレーヌ:1897-1956。フレデリック:1900-58)・アンドレ=ジイド(小説家。代表作『狭き門』。1869-1951)・ロマン=ロラン(小説家・劇作家。代表作『魅せられた魂』・『ジャン=クリストフ』。1866-1944)らの支持によって、反ファシズム対策を推進し始めていた。よって、フランスはアサーニャ人民戦線内閣側へ支援するものと思われたが、フランスとの同盟国イギリスは、戦火の拡大から世界大戦化することを怖れていたため、ブルム政府に支援を拒否させ、英仏両国とも"不干渉政策"をとった。ブルム内閣は閣内分裂を招いて、翌1937年に人民戦線綱領を破棄、総辞職することになる。

 英仏から支援されなかったアサーニャ人民戦線内閣は、ソ連やメキシコからわずかな援助を受けたが、世界各地から集まった総数4万人にのぼる反ファシズム派の国際義勇軍国際旅団。Brigadas Internacionales)の役割も大きかった。その中にはヘミングウェイ(アメリカ小説家。1899-1961。内乱を題材に『誰がために鐘は鳴る』著述)・マルロー(フランス作家。1901-76。内乱を題材に『希望』著述)・オーウェル(イギリス小説家。1903-50。内乱を題材にルポルタージュ『カタロニア讃歌』著述)などが参加し、日本人ではジャック白井(1900?-1937。内戦で戦死)も参加した。

 フランコは人民戦線の牙城である首都マドリードの陥落を目指した。フランコ軍は、トレド占領後(1936.9)、義勇軍やソ連・メキシコの援助で必死に抗戦する人民戦線軍に対して、戦争の長期化を予想し、1936年10月にブルゴス(カスティリャ=レオン地方北東)で新国家樹立と国家元首就任宣言を行い、1937年4月には右翼政党のファランヘ党党首に就いた。ファランヘ党はプリモ=デ=リベラの子であるホセ=アントニオ創設のファシズム政党のため、ホセは人民戦線内閣にすでに捕らえられ、1936年に処刑されていた。フランコはファランヘ党を自身が掲げる体制の支柱とし、スペイン・ファシズムを国内に浸透させようとした。

 また第二共和政から自治権を獲得(1936.10)していたスペイン北部のバスク地方は、左派勢力が多かったが、1937年4月、反乱軍の猛攻を受けた。当時のバスクの住民はバスク=ナショナリズムを推進させていたが、4月26日、バスク地方の小都市ゲルニカが反乱軍を支持するドイツの空軍部隊"コンドル"とイタリア空軍らによって無差別に集中爆撃された。これにより、ゲルニカは一瞬にして焦土と化し、市民が大量虐殺され、1500人以上の死者が出たとされている。このゲルニカ無差別空爆を抗議したスペイン画家パブロ=ピカソ(1881-1973)は、同年開催されたパリ万国博覧会スペイン館展示用壁画として、『ゲルニカ』を描き、7月に同画を完成させた。戦争への怒り・憎悪と苦しむ市民への同情を白黒のコントラストで描かれた『ゲルニカ』は大いに注目を受けた。

 人民戦線政府は、マドリードだけでなく、バレンシアやバルセロナなどに政局を移転させながらも、ソ連の援助によって持ちこたえるが、言うなれば"敵でない味方"同士として集まった内閣であっただけに、結合力は弱く、内戦が進行すると徐々に内部対立も見せ始めた。ソ連援助の比重が増していくにつれて、コミンテルンに支持されていた極少数政党のスペイン共産党が勢力を強め、一方で、閣内にいる、コミンテルンが好まないアナーキストやソ連のスターリン(1879-1953)が嫌うトロツキストらと対立していくことになる。1937年5月にはバルセロナでこれらの勢力が軍事衝突する事件もあった(5月事件)。

 一方フランコは、北部戦線を勝利に導いた後、地中海方面の東部進軍を始めた。1938年12月、エプロ川の激戦で反乱軍は政府軍を敗り、翌1939年1月にはバルセロナを陥落、2月、遂にアサーニャ人民戦線内閣を総辞職に追い込んだ。大統領を辞任したアサーニャはパリに亡命後、同年客死した。
 3月、フランコ軍は遂にマドリードを陥れ(マドリード陥落)、4月に内戦終結と勝利宣言を発し、5月にはアメリカがフランコ政権を承認した。フランコはスペイン総統(任1939-75)として、ファランヘ党に拠る一党独裁体制を打ち出し、人民戦線の残党をことごとく弾圧していく。これにより数十万に及ぶ犠牲者が出たといわれている。

 フランコ・スペインは、内乱における本土の荒廃と大量の戦没者による国力減退の理由により、第二次世界大戦中(1939.9-45.8)は中立を守った。ドイツやイタリアは戦術と兵器における最終的な実践練習をスペイン内乱という絶好の機会で行い、残虐に人を殺していきながら、町を焼いていき、そして大戦でイギリス・フランスと戦った。スペイン内乱は、結果的に第二次世界大戦の導入部となった。

 連載98回目は、フランコ将軍のスペイン内乱をご紹介しました。新課程の用語では「スペイン内戦」となっていますね。高校世界史の分野では、ヒトラー(1889-1945)のナチスやムッソリーニ(1883-1945)のファシスト党と比べると、地味で素通りしやすい単元ですが、以外とこれが重要で、スペインを火の海にした大内乱があったから、第二次世界大戦が誘発されたとも考えられるので、学者によれば、スペイン内乱が第二次世界大戦の勃発の原因と主張している人もいます(同時に、1931年の満州事変、1937年の日中戦争を勃発とする主張もあります)。

 さて、本日の学習ポイントです。今回の主役は何と言ってもフランコ将軍でしょう。スペイン内乱を勝利に導き、一党独裁体制を打ち立てた人物です。そのスペイン内乱ですが、内乱となる背景と対戦相手を確認しておきましょう。まず、当時スペインではブルボン朝の王国でした。その後、共和主義者によるクーデタ(スペイン革命)が1931年におこり、王政は廃止、共和国となります。しかしファランヘ党など右翼政党が出て、左派の共和政府はピンチとなりますが、コミンテルン第7回大会(これ、意外と大事です!)で、迫り来るファシズム国家に反対しようとする人たちを、あらゆる方面から結集しようと言う方針が打ち出されました。これが人民戦線です。本編の「"味方ではない者は敵へ"から"敵ではない者は味方へ"への転換」は、世界史用語集(山川出版社)からの引用ですが、最も分かりやすい表現として取り上げさせて頂きました。フランスではブルム内閣、スペインではアサーニャ内閣が人民戦線政府として組閣されました。この2つは覚えておきましょう。ブルム内閣分野では、支持した政党が社会党・急進社会党・共産党といった、社会主義政党であることは大事です。このあたりでコミンテルンに関係のある政党であることが分かりますね。ブルム内閣を支援したジョリオ=キュリー夫妻、アンドレ=ジイド、ロマン=ロランといった文化人の名も余裕があれば覚えてください。ちなみにイレーヌ=ジョリオ=キュリー(妻)の母はマリー(1867-1934)で、父はピエール(1859-1906)という、フランスの実験物理学者夫妻(キュリー夫妻)で、1898年ラジウムとポロニウムを発見した夫妻で有名です。

 内乱はフランコ将軍率いる反乱軍とアサーニャ人民戦線内閣軍との激突です。反乱軍はイタリアやドイツといったファシズム国に支援を受けます。フランコ援助でちょこっと出てきたポルトガルの独裁者サラザールも余裕があれば知っておいて下さい。一方人民戦線内閣側は、社会主義国の長であるソ連や、世界各国からの国際義勇軍(国際旅団)の支援があります。この国際義勇軍に参加したヘミングウェイ(米)、マルロー(仏)、オーウェル(英)は是非知っておきましょう。ジャック白井は世界史には登場しませんが、同じ日本人ですので関心がありますね。結局マドリードを陥れたフランコ軍が勝利して、アサーニャ人民戦線内閣は崩壊しました。フランコのファランヘ党による一党独裁が始まります。ファランヘ党も覚えておきましょう。また内乱中に、バスクのゲルニカ空爆がありましたが、この有り様を描いたピカソも忘れてはいけませんね。作品『ゲルニカ』とともに覚えておきましょう。またピカソは、フランスの画家ブラック(1882-1963)とともに立体派(キュービズム)の先駆者です。  

 さて、本編では紹介しませんでしたその後のフランコですが、第二次大戦後、フランコは終身総統となりました(任1947-75)。その独裁国家体制を嫌がられて、スペインは各国から断交されます。しかしファシズムは社会主義とは水と油で、東西冷戦がスタートすると西側陣営は反社会主義のスペインとの関係修復を考え、1953年、スペインはアメリカと防共協定を締結して米軍基地を建設しています。1955年には国連加盟も果たしました。1975年11月、フランコは病気のため死去し、最後のファシズムは終焉となります。その後はブルボン朝(スペインではボルボーン朝)が復活して、アルフォンソ13世の孫ファン=カルロス1世(1938- 。父はバルセロナ伯)が即位し(位1975- )、民主化が促進されていきます。1982年5月にはNATO加盟、1986年1月には、隣国ポルトガルとめでたくECに加盟します。現在もEUの一員です。

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